生まれた日
いよいよ七月の中旬も過ぎ去ろうとしていた。夏休みが近い。
月日はとうとう、七月二十日。
ん?七月二十日…?待て、俺は何かを忘れているような気がする。
夏休み前ということで、浮かれきっていたこの貧しい脳みそをフル回転させ、その“忘れ物”を探す。
七月、二十日…。その次の日は二十一、そのまた次の日は二十二、そしてまたその次の日は…。
「ああ!」
授業中にも関わらず、俺は叫んだ。そう、七月の二十三日。その日はまさしく――。
「すっかり忘れてた…」
毎年のように学習しない俺は、夏休みという行事に目がくらみ、大切な人の…あろうことか誕生日をすっかり忘れていたのだ。
七月二十三日、つまり三日後の土曜日は歩美姉さんの誕生日なのだ。
両手で頭を抱えていると、いつの間にやら近づいてきていた真心が、そんな俺に尽かさず突っ込んでくる。
「あんた去年もそうやって頭抱えてたの、覚えてる?」
真心の言うように、誓也は去年も夏休みを前に浮かれており、歩美の誕生日を忘れていたのだ。
しかし去年、そのことに気付いたのは前日で、今年は少し気付くのが早かった。
早いと言っても遅い。幼い頃から何度同じ過ちを繰り返してきたことかと、誓也は反省した。
「そうだ!プレゼント…。プレゼント用意しなくちゃ…!」
去年は気付いたのが前日だったため、プレゼントを用意できず、誕生パーティにだけ参加した。
しかし二年連続で何も贈り物をしないというのは、友人としてどうであろう。
いや、まだ三日ある。何とかプレゼントは用意できる。
ただでさえ、歩美姉さんには色々と世話になっているのだから。
妹の愛はさておき、歩美は誓也にとって色々な面での恩人である。
夏休みと冬休みの宿題も、ほぼ彼女に教わりながらやっているし、テスト前も歩美自身、勉強しなければならないというのに、誓也の勉強を見てくれている。
一方、世話になっている誓也というと、歩美には何もお返しできないでいた。
優しい歩美はいつも、“好きでやっているから”などと、如何にも相手が申し訳なく思わないような言い方で笑顔を返してくれる。
「真心!俺、ちょっと街まで行ってくるわ!」
このままでは去年の二の次だと思い、誓也は慌てて街へプレゼントを買いに行こうと、教室を走って出た。
すると、ちょうどいつものように誓也を迎えに来た歩美と遭遇してしまった。
今、誓也が一番会いたくなかった相手である。
「あ、歩美姉さん…」
「誓也くん、どうしたの?そんなに慌てて…もしかして用事でもあるの?」
「い、いやぁ…その…」
気まずそうに愛想笑いを浮かべた誓也に、歩美は何を思ったのかいつも通りの朗らかな笑みを浮かべた。
「用事があるなら仕方ないわね。今日は愛ちゃんと二人で帰るから…ところでどんな用事?」
誓也はその場で発狂したくなった。
“歩美の誕生日を今日まで忘れていて、慌ててプレゼントを買いに行く用事”であるなどと、どうして言えようか。
冷汗が背に流れる。目を丸くしながらこちらを見つめる歩美を前に、誓也は固まるしかなかった。
真心はといえば、誓也の心中に面白いとは思っていたが、歩美のことを考えると何も言えないらしくそそくさともう一方のドアから出て行った。
「あれ?歩美姉さん、誓也。そんなところで何してるの?」
そこに、何も知らない素直がやってきた。
誓也は「これだ!」と思い立ち、素直の手を掴んで逃げるようにその場から走っていった。
走る前に歩美に言った言葉は次の通り。
「今日は素直と一緒に買い出しなんだ!…そう!俺らの両親が近々、庭でバーベキューしようって言っててな!」
「はあはあ…助かった…」
息も絶え絶えに、誓也は素直を強引に連れ、街の一角へやってきた。
訳の分からない素直は、今まで掴まれた手をバッと払って誓也に怒鳴った。
「ちょっと!一体何なの?人の手掴んでこんなところに連れ出して!」
「人を誘拐犯みたいに言うな!」
「あんた…そういうの逆ギレって言うの知ってる?」
二人はしばらく睨み合ったままだったが、思えば自分が悪いのだと気付いた誓也はがくりと項垂れて謝った。
そして、歩美の誕生日をすっかり忘れていたことを説明した。
「ってことで…お前もプレゼント買ってないなら今から一緒に――」
「私はもう買ったけど…」
「はあ!?」
予想していなかった、まさかの裏切りの言葉に誓也は同様の色を隠せなかった。
「どうして言ってくれなかったんだよ!」
思い返してみれば、去年もそうだった。素直はプレゼントをいつの間にか用意していて、誕生パーティの席では自分だけが身を縮めたままだったっけ…。
「忘れてたあんたが悪い!」
ごもっともなお叱りを受け、誓也は素直の顔を見ることが出来なかった。
そうだ…全ては忘れていた自分が悪い。
結局その後、素直は怒ったまま帰ってしまい、誓也は一人で歩美のプレゼント探しに繰り出すことにした。
「明日はお姉ちゃんの誕生パーティ開くから、誓也くんも夕方になったらお家に来てね?」
金曜日の帰り道、愛と誓也、そして明日のパーティの主役である歩美はその話で盛り上がっていた。
明日の誕生パーティは例年同様、水原家の自宅で行われる。
招待客も去年とさほど変わらず、誓也と素直、そして祈が来ることになっている。
元々、あまり広い家ではないから招待客もそれ相応の人数である。
「ああ…五時くらいに行けばいいか?」
一昨日の二十日の日、何とか誓也は歩美へのプレゼントを買うことに成功した。
これで今年は心おきなく、歩美の誕生パーティに出席できるというものだ。
「ありがとう、誓也くん。毎年来てくれて…」
歩美は誓也に礼を言うと、嬉しそうに微笑んだ。
そんなに喜ばないでくれ、歩美姉さん。むしろそれが当然、とまで思ってくれても構いやしない。
俺が日頃、姉さんにお世話になっている分、せめて自分の誕生日くらいは思いっきり自分の事だけ考えてくれていい。
姉さんには、それだけ大暴れしていい権利がある。
「じゃあ姉さん。“おめでとう”は明日言うことにするよ。今日はこの辺で」
「うん!楽しみに待ってるから」
明日はいよいよ、七月二十三日。
最もお世話になっている、誰よりも感謝している、大切な人の誕生日だ。
そして本日、良いことに気持ちのいい涼しげな天気で迎えた歩美の誕生日。
水原家では夕方に来るだろう招待客をもてなすべく、家族総員でご馳走作りに励んでいた。
「お姉ちゃん、この味付けどうかな?」
料理は割と得意な方である愛は、母と歩美に炒めものの味付けについて聞き、父は料理が出来ない分、家の掃除中である。
「う~ん…悪くはないけど、誓也くんはもっと味の濃いほうが好きだと思う」
歩美が誓也の名前を出すと、愛も母もきょとんとした顔をした。
「お姉ちゃん!今日の主役はお姉ちゃんなんだから!誓也くんの味の好みなんてどうでもいいの!」
「歩美は去年まで、誓也くんのお弁当作ってたものね。その癖かしら?」
歩美はそう言われると、少し顔を赤くし母と愛から目を反らした。
今、母から言われたことは本当で、歩美は誓也が一年生の時に、学校で食べるための昼食の弁当を作っていた時期があった。
誓也は弁当を面倒くさがって作らなかったため、いつも購買のパンばかりを食していたのを知り、歩美が自分の好意でやっていたことである。
しかし、甘やかしてばかりいては誓也のためにならないと、親友の祈に言われてしまい、それ以降は作るのをやめた。
(今度、祈に黙ってまた誓也くんのお弁当作ろうかな…)
楽しみの一つであった誓也の弁当作りのことを思い出し、歩美は密かにそんなことを思っていた。
「ハッピーバースデイ!お姉ちゃん!」
本日の主役である歩美以上にテンションの高い妹の一言で、歩美の誕生パーティは幕を開いた。
「おめでとう、歩美」
ぱちぱちと拍手が浴びながら、歩美はケーキの上に挿されたろうそくの灯を消した。
「ありがとう、みんな」
パーティには、歩美の家族、祈、素直、そして誓也の七人が集っている。
居間のテーブルをその七人で囲いながら、その上に置かれたご馳走の数々を愛と素直は無遠慮に頬張っていく。
しかしこれは毎年のことなので、誰もそれにツッコミは入れない。
誓也というと、嬉しそうに祈と会話する歩美をちらちらと覗き見ていた。
実をいうと、誓也は歩美と二人きりなりたかった。いつもは迷惑を掛けてばかりいる歩美に、礼を言いたい。
しかしながら、彼女の家族や素直のいる前では気恥ずかしくて言えない。
それどころか、歩美に面と向かって言うのでさえ、想像しただけで恥ずかしすぎるというのに、この場では言えるはずもない。
やはり二人きりなるのは、パーティが終わった後になりそうだ。
「そうだ、歩美姉さん、誕生日おめでとう。これ、私からのプレゼントね」
色々と考えていたら、ふいに素直が歩美への誕生日プレゼントを彼女へ差しだした。
「まあ…ありがとう、スナちゃん」
赤い袋にラッピングされていたそれを嬉しそうに開けると、そこからは誓也には見慣れない、薄い生地でできたものが出てきた。
「!?…素直!お前何てもんプレゼントに選んでんだ!」
「何てもんって…見りゃ分かるでしょ?ブラジャーとパンツ」
素直の言う通り、彼女が贈ったのは下着である。…が、その下着のデザインが、かなり刺激的なものだったのだ。
全体的に赤で纏め上げているそれは、生地が薄いのである。
誓也は顔をほのかに赤くし、見たいような見たくないような“それ”と素直を交差に見ている。
“目のやり場に困る”というのは、こういう時にも用いられる言葉だ。
「ありがとうスナちゃん!私、こういうデザインのものは持っていなかったから、凄く嬉しい!」
しかし歩美はそんな誓也の態度などは気にも留めず、というか気付かず、改めて素直に礼を言った。
だが、その反応に歩美の父は動揺したらしく、慌てて彼女を見た。
「いかん!そんなものを身に付けるのは、父さんが許さん!」
その後も、ひどく賑やかなものとなり、始終笑いの絶えない楽しいパーティであった。
パーティも終わり、誓也は自宅に戻っていた。しかし彼はかなり心が沈んでいた。
素直の贈り物のインパクトが強すぎて、自分のプレゼントを渡し損ねてしまったのだ。
時刻は既に午後の十一時。歩美の誕生日が終わるまでタイムリミットが迫っている。
(このままじゃ、去年と何も変わらない…)
このままじゃ、心おきなく、夏休みを迎えられない。何より歩美に申し訳ない。
(まだ…起きてるかな?)
電話をするには、やや常識的な時刻を超えている。――でも、もう後がない。
誓也は意を決し、自分の携帯から歩美の携帯に電話を掛けた。
『もしもし、誓也くん?』
電話越しに聞こえる歩美の声は、相変わらず優しかった。
でも今は、それに聞き惚れている余裕もない。
「歩美姉さん!その…今からそっちに行くから!」
『えっ?ち、ちょっと誓也くっ――!』
最後まで歩美の言葉を聞かず、誓也はプレゼントを持って自宅の玄関を飛び出した。
あっという間に水原宅に着くと、居間の電気は既に消えている。
「誓也くん!」
するとちょうどその時、歩美は二階の窓から自宅の玄関前を見て、誓也を見つけた。
「歩美姉さん!」
「ちょっと待ってて、今いくから!」
歩美はそういうと、窓を閉めて自宅の玄関まで下りようとする仕草を見せた。
しかし誓也はそれを慌てて制する。
「いいよ、そこにいて!」
誓也は窓を閉め掛けた歩美にそう言うと、手に持っていた小さな箱を彼女に目掛けて投げた。
誓也の狙いは正確で、見事それは歩美の手に届いた。
突然の誓也の行動に慌てふためいている様子の歩美に、構わず彼は言葉を続ける。
「歩美姉さん、誕生日おめでとう。それと、いつもありがとな」
それは誓也の、日頃お世話になっている大切な人への、シンプルで気恥ずかしいお礼だった。
「誓也くん…」
誓也の突然の訪問と言葉に、歩美は感動を隠さなかった。
頬をほんのりと桜色に染めると、次は瞳からぽろぽろと涙がこぼれる。
「こちらこそ…ありがとうっ…!」
小さな箱を両手で大事そうに持った姿に、誓也も鼻の奥がツンとした。
「ああ…」
涙を流したくなくて、また歩美に泣き顔を見せたくなくて、誓也は“おやすみ”と大きな声で言うと、その場から逃げるように立ち去った。
残された歩美はしばらく夏の空を見上げて、喜びに浸っていたが、ふいに両手にある小箱が気になり、その箱を開けた。
「綺麗…」
白い箱に入っていたものは、ガラス細工の綺麗で上品な天使の置き物である。
歩美の好みそうな清楚な贈り物であった。
「ありがとう…誓也くん」
幼い頃からずっと一緒にいたけれど、男の子成長は早いもので、いつの間にか自分よりも背の低かった誓也は、大きくなっていた。
それが無性に寂しくなって、今もその寂しさを紛らわすように彼に構い続けている。
結局、いつも支えられているのは、お互い様なのだ。
だから、これからも宜しくね?