サボタージュはご法度
「おはようございます。沢中君」
心地よい声に誘われるかのように誓也は目覚めた。彼女はいつも、誓也を起こしに来てくれる。
「うう…おはよう、ございます、祈先輩」
普段は厳しくお節介で、でも本当に優しい、瀧口祈先輩。
歩美姉さんと同じクラスで、仲が良いって聞く。成績も良い、風紀委員の委員長だ。
顔は可愛いしグラビアモデル級の爆裂ボディの持ち主だが、勿体ないことにあんまり色気のいい恰好をしないという。
それにしても、学校をサボっている奴なら他にいくらでもいるだろうに。
歩美姉さんの友人だからか何だかは知らないが、何故かこうやっていつも律儀に起こしにきてくれる。
可愛い先輩に起こしてもらうのは嬉しいが、時々ふと疑問に思うことがある。
彼女は…どうして俺を起こしに来てくれるんだ――?
「素直!もっと早く走れっ!」
今日も素直の寝坊により、三人は猛ダッシュでの登校となった。
「仕方ないでしょ!昨日は見たい番組が深夜にやってて…!」
走りながらの言い訳はもはや、素直の専売特許となっていた。
それにツッコミを入れ、そんな二人の会話をいつも呆れ顔で聞く祈。
もう当たり前となって、定着してきている朝の光景。
これが誓也の朝の始まりでもあった、既に七月も中旬に差し掛かってきている。
後数日の登校で、いよいよ学生たちが待ちわびた夏休みがやってくる。
宿題がごっさり…と言われると頭が痛くなるが、それよりも楽しみなのは毎朝、こんな時間にも寝ていられるという開放感である。
(耐えろ、誓也!あともう少し…あともう少しで夏休みだ…!)
全速力を上げて足を動かす誓也は、そう自分に言い聞かせながら今日を乗り切ろうとしていた。
家でテレビを見ながら、家族で食事をしていると、急に父親が話し掛けてきた。
「誓也、お前…いっつも可愛い女の子に起こしてもらっているだろう?…彼女か?」
説教でもされるかと思ったが、父親はニヤリとしてくだらないことを聞いてきた。
「違ぇよ…俺の学校の先輩。歩美姉さんの友人だよ」
すると父親はがっかりとしたような顔をして、大きな溜め息を吐いた。
「なんだ、そうなのか…父さん、お前の嫁はあんな風な可愛い女の子がいいなぁ…」
「お父さん!またそんなこと言って!誓也のお嫁さんはフランス人の女の子が良いに決まっているじゃない!」
相変わらずくだらないことをいう俺の両親は、これまたくだらない理由で喧嘩をおっぱじめていた。
自分で言うのも何だが、かなり個性的でどこかネジの取れた頭を持つ両親だと思う。
(祈先輩が…俺の嫁、ね)
料理をする音が聞こえる。フライパンで何やら炒めものを作っている音だ。
そしてなぜか見慣れていないが、見慣れているような気分にさせるリビングのテーブル椅子に、俺は腰掛けて新聞を読んでいた。
『はい、あなた』
朝食を作り終えた祈先輩が可愛らしいエプロン姿で、俺の前にご飯を置く。
『ああ、ありがとう。祈』
あ、あれ?これは一体何だ?なんで俺、祈先輩のこと呼び捨てにしてるんだ?
なんだ、一体何なんだ、この映像は…。
「……――きて…起きてください!沢中君!」
「うう…」
心地良い夢から目覚めさせてくれたのは、その夢に出てきてくれた祈先輩だ。
「今何時だと思ってるんですか!?八時ですよ!」
「えぇ!?」
八時十分前と言われ、誓也は慌てて飛び起きた。
ベッドに立てかけてある時計を見ると、その時刻はまさに八時三分。
誓也がいつも起きる時間よりも、四十分近い寝坊となった。
「まずい!」
誓也は慌ててベッドから飛び起きて、そこに祈がいるのも忘れ、ジャージから制服に着替え始めた。
「きゃああ!さ、沢中君っ!」
誓也の着替えに祈は驚いて叫び、急いで彼の部屋から出ていった。
「もうっ…!」
顔を真っ赤にした祈は、誓也の部屋の前で火が吹いたように熱い顔を自身の冷たい両手で冷やした。
朝ごはんも当然のことながら食べる余裕などなく、寝起きが一番悪い素直の家に急いで突入したのは既に八時十五分を回っていた。
登校時間は八時三十分まで。いや、厳密言うと、三十分までに教室に入っていなければならない。
校門は二十五分にはもうしまってしまう。
「おい!素直!!」
今日はノックもせずに素直の部屋まで駆けより、誓也と祈は彼女を叩き起こそうとした。
しかし、部屋には彼女の姿が見当たらなかった。
「あ、あれ?小野さんはどこにいるんでしょう?」
茫然とすること数秒、一階から素直の母親の声が聞こえた。
「誓ちゃん、スナならもう学校へ行ったわよ?今日は日直だって言ってたから~」
「……」
あまりにもショッキングな素直の母の言葉に、誓也も祈も硬直した。
素直のヤツ…変なところだけ真面目なんだよな。日直って…前日に言えよ。
時刻はもはや、八時二十分。どんなに全速力猛ダッシュで走ったとしても間に合わない。
誓也は、自分は兎も角、優等生でしかも風紀委員の祈先輩までも巻き込んでしまっていることに、居た堪れなさを抑えきれなかった。
素直の自宅を出ると、二人は諦めたようにゆっくりと歩き、学校を目指した。
二人は、無言である。空気が重すぎる。隣の祈の顔色を窺えない程、誓也は反省していた。
遅刻だ。祈先輩ともあろうお方に、遅刻をさせてしまうのだ。
もうこうなったら土下座するしかない。土下座をして許されるとは思っていないが。
“申し訳ありませんでした”と叫んで道のど真ん中、誓也が土下座をしようとしたのと同時に、彼の隣にいた祈が立ち止まった。
「い、祈先輩…?」
なぜ立ち止まったのか、怖すぎて背中にいやな汗が出て、滴る。
しかし、振り向かないわけにもいかず、誓也は意を決して祈の方へ向き直った。
向き直った次には、瞑っている目も開かなければならない。だがその勇気がない。
「沢中君」
足がガクガクと震えており、立っているのがやっとな誓也を、祈は呼んだ。
「は、はい…っ!」
絞り出すような声で、誓也は返事をする。そして目を開いた。
そこには、予想以上の…いや、予想に反して何とも穏やかな表情を浮かべた祈がいた。
「祈先ぱ――…」
「サボりましょう」
優等生らしからぬ、風紀委員らしからぬ、そして何より祈らしからぬ言葉を耳にし、誓也は面食らった顔をし、黙した。
「平日の街って、こんなに人が少ないんですね」
“サボりましょう”と言われ、誓也と祈は島で唯一の「街」と呼べる場所を、のらりくらりと歩いていた。
誓也はというと、平然と話し掛けてくる祈に対し、遠慮がちに頷き続けている。
しかしその態度にいつまでも祈が黙っているはずもなく。
「もう!折角平日に街に来たんですよ?もうちょっと楽しそうにしてくれてもいいじゃないですか」
「い、いいえ!楽しいですとも!っていうか、祈先輩…本当にこんなところにいていいんですか?学校、マジでサボるわけ?」
「はい。さっきそう言ったじゃないですか…」
誓也が寝坊した時の慌てぶりはとっくに消え、祈はいつも通りの平然とした口調で、改めて“サボり宣言”をした。
「いいんですか?いや、俺は良いですけど、祈先輩は…」
「付き合って下さい、今日一日」
誓也の言葉を遮って言うと、祈は彼の腕を引っ張り、近くにあったクレープ屋に駆け寄った。
「私、イチゴチョコクリームがいいです!」
食べたいクレープの名称を店員に注文し、祈は目の前で作られていくクレープをじっと見ていた。
誓也は祈が何を考えているのかが全く分からず、ただただクレープと彼女を交差に見つめる。
クレープを渡されると、祈はそれを美味しそうに食べながら、誓也に目を向けた。
「沢中君は食べないんですか?」
邪心のない瞳でそう言われると、そういえば朝食がまだだったことを思い出し、誓也もつられてクレープを注文した。
「じゃ、じゃあ…ツナサラダで」
二人はクレープを食べ終えると、次はゲームセンターに向かった。
「私、ゲームセンターって初めてです」
物珍しそうに祈はゲームセンターの看板を見つめると、少し調子を取り直した誓也がリードした。
「ちょっと騒々しいかもしれませんが、慣れれば楽しいところですよ」
なぜ二人がゲームセンターに来たのかというと、意外なことにこれは祈の提案であった。
彼女の話によると、“ゲームセンターに行くのはサボりの定番”であるらしい。
入場すると、さっそくゲーセン特有の騒音が聞こえてきた。
祈はそれが新鮮らしく、目を丸くし何が何だか分からないというように誓也に視線を向ける。
「こっちです、先輩」
祈の手を引いて、まずは女の子が喜びそうなクレーンゲームを進めた。
それから後は、格闘ゲームや音楽ゲームなどゲーマー達にとっては欠かせないゲームも紹介し、祈と一緒にプレイを楽しんだ。
そして、ゲーセンを後にしたのは、もうお昼過ぎで午後の二時を回っていた。
そろそろお腹も空いてきた二人は、ファミリーレストランで昼食を取ることにした。
窓際の席に座ると、祈は誓也に先ほどクレーンゲームで取ってもらったクマのぬいぐるみを、膝に乗せて弄んでいた。
「このクマちゃん気に入りました。沢中君、ありがとうございます」
「い、いいえ!そんなもので許してもらえるなら…」
そう言うと祈は怪訝そうな顔をし、首を横に傾げた。
「“許す”って…?」
「だって…俺が寝坊したせいで、祈先輩も学校…間にあわなかったじゃないですか」
ずっと気になっていたことを、誓也は祈の前で俯きながら言った。
祈はハッとした顔をして、しばらく固まっていたが、やがて柔らかく微笑んだ。
「実は…私。沢中君や小野さんに憧れていたんです」
「え?」
今まで申し訳なさに俯いていた誓也は、ふっと顔を上げて祈を見た。
すると、今度は彼女が俯きながら恥ずかしそうに言葉の続きを紡いだ。
「あなた達の入学式の時、二人は並んで歩いていましたよね?」
そうだった。入学式は確かに素直と一緒だった。祈先輩は俺たちをその時から知っていた?
「…桜の花びらに包まれながら歩く二人は…本当に清々しい笑顔をしながら、学校の校門に入っていったんです。
私もあんな風に成れたらなって思って、あなた達が歩美の友人だって聞いたから、口実を付けて毎朝あなたの家を訪ねることにしたんです」
時々、祈がなぜ、自分たちを毎朝起こしに来てくれるのかと疑問に思うことがあったが、そういうことだったのか。
「きっと…こんな私でも、二人の傍にいれば楽しく笑っていられるんじゃないかって…」
ということは、俺と素直はさぞかし、祈先輩から見れば幸せそうに見えたのだろう。
祈先輩は満面の笑みを湛えながら。
「今日の私は、きっと今までのどの私よりも楽しく笑っていたと思います!」
その通りであった。今まで見た、どの祈先輩よりも今日の先輩は綺麗で、可愛らしくて…。
「本当に、ありがとう!沢中君」
「はい。俺もとっても楽しかったです」
楽しそうに、笑っているんだ。