優しさと忠告
バスルームで上機嫌になりながら鼻歌を歌っているのは、誓也と再会を果たした希望だ。
二目惚れ。そう言った言葉はないが、言うなればこうだろう。
母が盲腸で入院している期間、誓也と誓也の父の夕食は時々、水原姉妹が作ってくれるようになっていた。
今日もその日だ。誓也にとっても秘かな楽しみとなっている。献立はカレーライス。
いつも歩美は愛と一緒にキッチンに立って、味付けなどをひそひそと相談し合っている。
だがしかし、今日に限ってはそれが少なかったように思えた。
「はい、誓也くん」
大皿に盛られたカレーを、愛は誓也の父へ、歩美は誓也のもとへと運ぶ。
カレーは好物だし、歩美の料理だから嬉しいのだが先ほどから誓也は妙に口数の少ない姉妹に違和感を覚えていた。
「いただきます」
そんなことなど気付かず、父がスプーンを持ち薬味のらっきょうと共にカレーを頬張っている。
やはり自分の考えすぎか?と思い、誓也も夕食に有り付こうと、スプーンで一口カレーを食べた。
「……?……うん!?」
そのカレーを口にし、数秒経った時に、自分の大皿に盛られたカレーの異常に気付いた。
想像以上に辛いのだ。こんなカレーは今までに食べたことがない。
誓也が驚くのも無理はない。姉妹の作るカレーは毎回甘口だからだ。
「み、水っ!」
「どうした、誓也?」
「か、辛いっ!」
普段、沢中家で作られる母のカレーも割と辛い方だが、この皿に盛られたカレーは、今まで口にしてきたどのカレーよりも辛い。
コップの水を一気に飲み干したが、それでもまだ舌がヒリヒリし、更にはあまりの辛さに逆上せた感覚も覚えてくる。
誓也の父は目を丸くし、自分のカレーを食べ続けていた。どうやら、父のカレーは普段通りのものらしかった。
誓也は不審に思い、歩美の方を見た。いつにも増してとびっきりの笑顔だ。
しかし、なぜか誓也にはその微笑みが恐ろしく映る。
歩美は首を横に傾げ、笑顔を絶やさず誓也に言った。
「それ、コンビニで買った激辛20倍カレー。レトルトなのよ?」
誓也は歩美に言われたことが、一瞬分からず目が点になった。
嫌がらせだとは思えない。というか思いたくない。
「俺……なんかしたか……?」
歩美は滅多なことでは怒らないし、付き合い始めて1年になるが一度も喧嘩さえしたことがない。
なのに、なぜ?
「誓也くんが他の女の子とベタベタするからだよ!!」
茫然とする誓也と、無言で笑みを湛える歩美に痺れを切らした愛が急に声を大きくし、怒鳴った。
するとその愛の言葉に誓也はハッとし、思い当たることを見つけた。
おそらく愛が言っていることは、今日の放課後の出来事。
鮎川希望という転入生に腕を組まれ、そのまましばらくしていたことを言っているのだ。
「愛!あれはだな……!」
誓也は愛に対し口論をしようとした。しかし、それを遮ったのは相変わらず満面の笑みの歩美だった。
「誓也くんが修学旅行の時に偶然、会った子なんでしょう?」
声色は寧ろ優しい。だが、明らかに普段の歩美とは違う。スマイルも声もいつも以上に優しいが、彼女の放つオーラが黒かった。
しかし、誓也にはそれが恐ろしいのと同時に、嬉しいという気持ちもある。
今まで彼女が嫉妬しているところを見たことがないからだ。
誓也がそう思った時だ。するといつの間にか歩美の笑みはふっと消え、誓也を見て瞠目していた。
その理由は誓也の表情だ。ヤキモチを妬いてくれたのが嬉しくなり、頬が緩んでいたのである。
「ごめん。でも俺は歩美の恋人だし、その子のことは何とも思ってないぞ?」
父親や愛の存在など忘れ、誓也は自分の思っている正直な気持ちを歩美に伝えた。
「おい、親の前でやめろ……」
父親はそんな誓也の発言が気恥ずかしかったのか、眉をぐっと顰めてポツリを呟いた。
そんなことなどお構いなしに、今度は歩美が頬を赤く染め満面の笑みで頷いた。
「愛ちゃん、誓也くんは優しいだけよ!浮気なんてするはずないわ!」
「う、浮気……!?……愛……」
そんなことを妹は姉に言っていたのか、と誓也は大げさに物を言う愛に呆れた。
だが愛も、さっきの歩美に対する誓也の発言にホッとしたようだった。
「うん、そうだね!私もそう思ったよ!!」
「……」
当たり前だ……と、誓也は胸中で胸を張った。
今日は日直の日だということをすっかり忘れていた誓也は、一人猛ダッシュで学校へ突っ走っていた。
昨日の夕食のことに心がいってしまい、”今度こそ絶対忘れないぞ”と真心の前で誓ったことを忘れていたのだ。
そして真心に、日直の時間に少しでも遅れたら昼食をご馳走することになっている。
しかも好きなだけ。想像するだけで恐ろしい。
(マズい!俺の小遣いがアイツの胃袋に……!)
全て取られてしまう。そうなることを何としても阻止するため、誓也は全力疾走した。
やっと校門が見えてくると、そこには同じ日直である真心の姿がある。
今の誓也にはタイムキーパーのように見えた。だが実際、彼女の不敵な笑みが見え、本当にタイムを計っているのだと知る。
息が切れそうになる中、何とか校門の前に辿り着くと、真心の少し悔しそうな表情が最初に映った。
「よ……よ……かった……」
これで、誓也の小遣いが彼女に奪われることはなさそうである。
「ちっ……」
「誓也先輩!」
「……?」
真心の舌打ちと共に、語尾にハートマークが付いているような可愛らしい声がした。
希望である。彼女の顔を見た瞬間、同時に昨日の夕食の情景が誓也の脳裏に蘇った。
普段は穏やかな自分の彼女が、まさかのヤキモチ。
自分自身で完全に惚気だと分かるほど、気持ちが一気に高揚した。
「おはようございます!……って、おーい。聞こえてますかー?」
希望はそんな誓也の胸中など察することが出来る筈もなく、頬が緩む彼の目の前で手を振った。
けれど一度宙に浮いた心を元に戻すのは容易ではなく……。
誓也は真心に頭を殴られるまでそのままだった。
昼休みに入り、大学内の食堂で歩美と祈は昼食を取っていた。
しかし祈はこの昼休み、歩美の惚気話に付き合わされる羽目になる。
「それでね~、昨日の夕食の時に誓也くんが……」
話をするだけでイマイチ食事が進んでいない歩美に対し、祈は自身の注文したうどんを啜りながら”はいはい”、とただ相槌を打っていた。
ただ一つ、祈が気になったのは誓也と腕を組んだという少女のことだ。
歩美の話に終わりが見えそうになり、祈は忘れないうちに忠告をする。
「仲が良いのは結構。でも、その子には気を付けなさいよ?」
「”その子”って……?」
「はぁ……」
心底天然な歩美に呆れ、祈は深く溜め息を吐いた後、今度はもっと詳しく忠告をした。
「沢中君と、腕を組んでいたって子のこと。そういう子は油断できないから。特にあなたの彼氏サン、かなり鈍感だし、優しすぎるから」
この時の祈の忠告に対し、歩美は差して問題ないと思っていた。
誓也のことを心から信じているからである。
放課後、就職の講習は、今日は教師たちの都合により中止となった。
突然の講習の中止に、誓也は踊りだしたいくらいの幸福感を覚えながら、玄関の靴箱に向かった。
真心や素直は用事があるらしく、今日は誓也一人で帰路に着く予定だ。
だったはずなのだが……。
「誓也先輩!」
振り向けば、すっかり……と言うほどでもないが、徐々に見慣れようとしている希望の姿があった。
「よう。どうした?」
満面の笑みで自分を見つめる希望に、正直嫌な気持ちは湧かない。
一方、昨日の歩美の様子を思い出すと、どうしても一線を引かなければという気持ちにもなってくる。
しかし、自分でも呆れるくらい適当な人づきあいしかしたことのない誓也にとって、特定の人間と距離を置くという器用なこともできるはずがなく……。
「よろしければ、これから一緒に出掛けませんか?」
結局は、そんな器用なことなど誓也にはできなかった。