「婚約を破棄する!」と叫ばれたので、「お待ちください。その婚約は『破棄された世界線』と『破棄されていない世界線』が同時に重なり合っています……!」と量子力学の理論で煙に巻いたら王子が錯乱した
「ルクリア・ローゼンタール! 貴様との婚約を今日この場をもって破棄する!」
大きなシャンデリアが眩い光を投げかける、王宮の広大な大広間。
建国記念の祝賀夜会――その最中、第一王子アルフレッドにより一つの劇薬が投下された。
(婚約破棄ですか、困りましたね)
この世界に転生して17年と数カ月、公爵令嬢である私はピンチを迎えていた。
(ここはダメ元でハッタリでもかますとしますか……)
私は動揺した素振りを微塵も見せず優雅に口を開いた。
「お待ちください。殿下」
「何だ? 今更弁解でもしようとしようというのか? だがもう遅い既に手続きは進んでいる」
「いいえ。殿下――その婚約は『破棄された世界線』と『破棄されていない世界線』が同時に重なり合っています……!」
「なに……世界線? なんだそれは? あまりのショックに気でも狂ったか?」
「狂う? とんでもない。これは純然たる宇宙の心理です。貴方様が今『破棄する』とおっしゃられてその状態を確定しようとしましたが、宇宙全体の波動関数から見れば、今の私たちは不確定の確率雲の中にいるのです」
「何を言っている……?」
「いいですか? 密閉された箱の中の猫と同じです。 あなた様が私の身分という蓋を開け、どちらかを確定させるまで、私は貴方様の婚約者であり、同時に貴方様の存在そのものを確率の彼方に霧散させる観測エラーの具現化でもある。下手に不確定原理を無視して強行すれば干渉縞が崩壊し、この王城の空間そのものがエントロピーの増大と共にシュバルツシルト半径の彼方へ消滅しますよ?」
我ながら何言ってるのか分からない。
「殿下、ここは私にお任せくだされ」
王宮筆頭魔導士が一歩前に出てきた。その額には冷や汗が浮かんでいた。
(波動関数? 干渉縞? 長い魔導士人生の中でも聞いたこともない言葉だ……魔力の流れる気配もない……しかし、魔道の名家ローゼンタール家の長女にして王立アカデミー始まって以来の天才であるルクリア様がそのようなハッタリを……?)
「じぃ、どうしたのだ?」
(……まさか!? 待て、あり得ない話ではない……! かつて魔道の歴史において唯一辿り付いたものがいるという極地『一切の魔力を纏わず、言葉を発するだけで世界の理を書き換えたという禁呪』まさかそこに辿り付いたというのか……!)
「じぃ!」
「殿下……これは私の手には負えないかもしれませぬ……」
「なんだと! ただの狂言戯言の類ではないのか……?」
「お忘れか? 殿下。 彼女は魔道の名門ローゼンタール公爵家きっての天才! その彼女が、あのような不可解な理屈を微動だにせず口にしているという事実……! つまりあれは我が国の魔術体系など遥かに超越した未知の魔術の詠唱に違いない……!」
「なっ……なんだと……!?」
アルフレッドも馬鹿ではない。王太子としての教育を受け、国を支える魔導士たちの圧倒的な実力も理解している。だからこそ、魔道の最高権威である王宮筆頭の老魔導士の発言を無視できない。
(待て……待てよ……!)
王子の脳内で、必死の計算と否定が高速回転を始める。
(あいつはルクリアだ。俺の知っている、あの完璧で優秀な魔道の天才ルクリアだぞ。そのあいつがあんな正気の沙汰とは思えない言葉を、冷静に一分の狂いもない真顔で口にしている……もし、あれが追い詰められたゆえの狂言ではなく、本当に、じぃもしらない次元の魔術なのだとしたら……)
魔道の天才が、人生のすべてをかけて放つ報復の呪詛。
魔力反応がないのは、それがあまりにも高次元な世界の構造に直接干渉する禁忌だからではないのか?
(いや……そんなはずがない……いくら彼女が天才だと言っても流石にそんなのは度が過ぎている……だが、しかし……もしハッタリでも狂言でもないのだとしたら……)
思考の糸が絡まり合い、王子の背筋を凍てつくような悪寒が突き抜けた。恐怖が理性を侵食する。
「う、嘘だ……そんなはずが……!」
「殿下、量子力学において、観測された現象はもう取り消せません。貴方様が婚約の破棄を宣言した瞬間から、この王宮のエントロピーは限界を突破し、シュヴァルツシルト半径に向かって収束を始めていますよ」
「しゅばる……!それが禁呪の名前か…‥!」
その時王子の目の前が眩んだ。
(なんだ。なにが起きたというのだ? 精神干渉系の魔術……? いやこれは……まさか空間そのものが歪んでいるのか!?)
あまりの許容量を超えた事態に眩暈を起こしたのだった。
王子の精神は限界を迎えようとしていた。もともと優秀な頭脳の持ち主であるからこそ、一度理屈が通ってしまえばその考えに囚われてしまう。
「わかった! 俺が悪かった! 婚約破棄は撤回する! 浮気も謝る! だから……だからこれ以上、その恐ろしい言葉で世界を歪めないでくれぇ……頼む……!」
「観測を放棄して現状維持を選択するのですね? 良いでしょう、では今回の波動関数はこれにて収束としましょう」
「た、たすかった……」
王子が床にへたり込み、冷や汗を拭いながらガタガタと震えている。
その背後では、国一番の最高権威であるはずの筆頭魔導士や高位貴族たちが、「いま世界の法則が書き換わりかけたぞ……」「関わったら存在ごと消されるぞ……」と顔面蒼白になり、誰一人として近づくどころか、息を潜めて固まっていた。
(ふふ、どうやら煙に巻けたようですね。我ながら大分意味不明なことを並べましたが、意外と通るもんですね)
私は誰一人近寄れない圧倒的な恐怖のオーラを背負いながら、静まり返った王宮の大広間を、誰よりも優雅に後にしたのだった。




