第9話「描かれた風景」
「トビアスさん。あの地図を、見せてもらえませんか」
トビアスさんは隣家の前で木片を削っていた。私の声に手を止め、顔を上げた。
使者が来た日から三日が経っていた。その間、私はリヒテルさんの工房を避けていた。帳簿代行の仕事には出たが、工房の前を通る時は足を速めた。扉が開いていても、中を見なかった。
三年前から部屋を掃除していた。トビアスさんのあの言葉が、頭の中で繰り返し鳴っていた。
「地図というのは、ノアの地図のことかい」
「はい。工房の壁に掛かっている地図を、見せていただきたいんです」
「わしに聞くことじゃないだろう。ノアの工房はノアのもんだ」
「リヒテルさんに会いたくないわけではないんです。ただ、先にトビアスさんにお聞きしたいことがあって」
トビアスさんは木片を膝の上に置いた。削り屑を払い、こちらを見た。
「聞け」
「リヒテルさんは、マリーの依頼であの部屋を用意していたのですか」
沈黙が落ちた。トビアスさんは私の目を見たまま、しばらく何も言わなかった。
「……あいつが自分で話すべきことだ。わしが先に言ったのは、言わねばならん時期だと思ったからだ。遅すぎたかもしれん」
「トビアスさんは、ずっと知っていたんですね」
「ノアの親父とは船仲間だった。ノアが工房の二階を掃除し始めた時から、見ていた。誰のためかは聞かんでも分かった」
トビアスさんは膝の上の木片を手で撫でた。
「お嬢さん。あいつは不器用だが、嘘はつかん。隠し事はしていた。だが、嘘ではなかった。その違いが分かるなら、あの工房に行け」
私は頭を下げた。トビアスさんは木片を持ち直し、削り作業に戻った。
工房の扉は半開きだった。
中に入った。インクと紙の匂い。変わっていなかった。作業台の上には製図途中の地図が広げてあり、定規と筆が並んでいる。リヒテルさんの姿はなかった。測量に出ているのだろう。
壁に目を向けた。
地図が何枚も掛かっている。海岸線の地図、港の詳細図、岬の測量図。ファルムに来た最初の日にも見た光景だった。あの時は地図だらけだとしか思わなかった。
今は、違うものが見えた。
地図の余白に、鉛筆でスケッチが描かれている。測量地点からの眺望を記録する習慣があることは知っていた。岬から見た海、丘の上から見た港の遠景。それらのスケッチを、一枚ずつ見ていった。
三枚目の地図で、手が止まった。
内陸の丘陵地帯の測量図だった。ファルム周辺ではない。丘の稜線が緩やかに続き、遠くに穀倉地帯が広がっている。余白のスケッチには、丘の上から見下ろした風景が描かれていた。
畑の向こうに、小さな街道が延びている。街道の先に、尖塔のある建物が描かれていた。
息が止まった。
この風景を、私は知っている。
マリーに宛てた手紙に書いたことがある。ヴァーレン領の屋敷の窓から見える風景。丘の向こうに穀倉地帯が広がり、街道が一本、東に延びている。その先に小さな教会の尖塔が見える。朝日が当たると尖塔の影が畑に長く伸びて、それが季節ごとに角度を変える。
手紙の追伸に書いた、何気ない風景の描写。マリーへの近況報告に添えた、窓の外のこと。
その風景が、リヒテルさんの地図の余白に描かれていた。
次の地図を見た。これも内陸の測量図だった。余白のスケッチには、川沿いの小道と、その先に見える小さな橋が描かれている。
この橋のことも、手紙に書いた。屋敷から少し離れた場所にある石橋で、秋になると橋の下を流れる水が冷たくなって、水面に落ち葉が浮かぶ。マリーと二人で散歩した時に見た景色だった。
もう一枚。丘の上から見た夕暮れの空。雲の形が長く引き伸ばされて、地平線の近くが橙色に染まっている。
これも。手紙に書いた。冬の夕方、屋敷の裏庭から見上げた空のことを。
指が震えた。
リヒテルさんは、私の手紙を読んでいた。マリーを通じて、私が書いた言葉を読んでいた。そして、その言葉の中に描かれた風景を、わざわざその場所まで行って、自分の目で見て、地図の余白に描いていた。
ファルムの地図師が、内陸のヴァーレン領周辺まで測量に行く必然性はない。港町の仕事は海岸線と港湾の測量が中心だ。この人は、わざわざ足を運んだのだ。私が手紙に書いた風景を見るために。
それは、マリーに頼まれた義務ではなかった。
義務で人は、手紙の中の風景を探しに行かない。
壁に掛かった地図の前に立ったまま、動けなかった。棚に目を向けた。あの棚。リヒテルさんが「触らないでくれ」と言った棚。地図の巻物とインク瓶の隙間に、紙の束が見えた。
あの紙の束が何なのか、今は分かった。
工房の扉が開いた。
足音。測量棒が壁に立てかけられる音。リヒテルさんが入ってきた。
私が壁の地図の前に立っているのを見て、足を止めた。
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
リヒテルさんの視線が、私の手元から壁の地図に移り、それから棚に移った。何が起きているのか理解したのだろう。顔から表情が消えた。
「リヒテルさん」
声が震えた。自分でも驚くほど震えていた。
「この地図の余白に描かれている風景は、私がマリーへの手紙に書いたものです」
リヒテルさんは答えなかった。作業台の前に立ったまま、こちらを見ていた。
「あの棚にあるのは、私の手紙ですね」
リヒテルさんの喉が動いた。言葉を探しているように見えた。
「……ああ」
低い声だった。否定しなかった。
「マリーから、あんたの手紙を預かっていた。マリーに届いた手紙を、俺が読んでいた。……読むつもりはなかった。最初は。マリーが見せてくれたんだ。追伸に書いてあった風景の話を。それで——」
リヒテルさんは言葉を切った。視線を逸らし、それからもう一度こちらを見た。
「隠していて、すまなかった」
それだけだった。感情の言語化が苦手なこの人の、精一杯の言葉だった。
私は壁の地図を見つめた。丘の上から見下ろした穀倉地帯。川沿いの石橋。冬の夕暮れの空。
この人は、私の言葉を地図に変えていた。私が見ていた窓の外の風景を、この人は自分の足で歩いて、自分の目で見て、鉛筆で描いていた。
三年間。私がヴァーレンの屋敷で気づかないふりを続けていた三年間、この人は私の手紙の中の風景を追いかけていた。
「リヒテルさん」
「……なんだ」
「怒ってはいません」
リヒテルさんは黙った。
「隠されていたことは、苦しかった。でも、この地図を見て、分かりました。あなたがしてくれたことは、義務ではなかった」
リヒテルさんの目が揺れた。何か言おうとして、口を開き、閉じた。もう一度開いた。
「……ああ」
それだけだった。でも、その一言の中に、この人が三年間抱えていたものの重さが聞こえた気がした。
工房の中で、二人の間に沈黙が残った。痛い沈黙ではなかった。何かが壊れた後の、風が通り抜ける静けさだった。
壁の地図に手を伸ばした。丘の上からの風景のスケッチに指先が触れた。鉛筆の線は薄くなりかけていたが、まだ残っていた。
この風景を手紙に書いた日、私は屋敷の窓辺に立って、何を思っていただろう。誰かに読んでもらえるとは思わずに書いた追伸。マリーへの近況報告に添えた、窓の外のこと。
それを読んだ人がいた。読んで、見に行った人がいた。
必要とされたから、ここに来たのではなかった。この人がここに留めてくれたのは、帳簿が読めるからでも、誰かの依頼だったからでもなかった。
指先をスケッチから離した。
リヒテルさんは作業台の前に立ったまま、こちらを見ていた。何も言わなかった。この人はいつもそうだ。言葉の代わりに、地図を描く。
窓の外から、港の夕暮れの光が差し込んでいた。壁の地図が、橙色に染まっていた。




