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夫に嘘をつかれ続けた伯爵夫人が家を出たら、そこには、三年前から埃ひとつない部屋を用意して待っている男がいました  作者: 月雅


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第8話「委任状の封蝋」

朝、宿の扉を開けたら、見知らぬ男が立っていた。


黒い外套に革の長靴。腰に短剣は帯びていないが、姿勢が真っ直ぐで、肩幅が広い。旅装だった。街道を急いで来たのだろう、靴の泥が乾ききっていない。


男は私の顔を見て、わずかに顎を引いた。


「ヴァーレン伯爵夫人、イレーネ様でいらっしゃいますか」


心臓が冷えた。


この町で、その呼び方をされたのは初めてだった。


「どちら様ですか」


「ヴァーレン伯爵家の使者として参りました。伯爵様より、奥方様に書面をお届けするよう仰せつかっております」


男は外套の内側から封書を取り出した。封蝋にヴァーレン家の紋章が押されている。見覚えのある紋章だった。五年間、私が帳簿の表紙に捺してきた紋章と同じものだ。


「帰還勧告でございます」


封書を受け取った。手が震えなかったことが、自分でも意外だった。


「どのようにして、私の居場所を」


「ファルム市内の商人の間で、帳簿に詳しい方がいらっしゃるとお聞きしまして。伯爵家に縁のある方ではないかと辿っていきましたところ、こちらに」


噂だった。エルザさんが広めてしまった、あの噂。帳簿に強い、どこかの貴族の奥方らしい女性。その話が商人の口から口へ渡り、この男の耳に届いた。


使者は封書を渡した後も、その場に立っていた。何かを言いかけ、口を閉じ、それからもう一度口を開いた。


「奥方様。差し出がましいことを申しますが」


「はい」


「帳簿のことでお困りの様子でございまして——」


使者はそこで言葉を切った。自分が余計なことを言ったと気づいた顔だった。


帳簿のことで困っている。


帰還勧告の理由は、妻への愛情ではなかった。帳簿が読める人間がいなくなって困っている。それが、夫がこの書面を出した動機だった。


使者の口滑りが、五年間の結婚生活の正体を要約していた。


「お伝えください」


私は封書を手に持ったまま、使者の目を見た。


「戻りません」


使者の表情が強張った。


「奥方様、帰還勧告は伯爵様のご意思で——」


「法的な強制力がないことは、私も承知しています。帰還勧告は年に二度まで送付できる制度ですが、拒否する権利は妻側にあります」


使者は黙った。ファルムは王国直轄の自由交易都市だ。伯爵家の私兵がこの市内で力を行使するには市長の許可が必要で、武装入市も許可制になっている。この男が私を強制的に連れ帰ることはできない。


「伯爵様にそのままお伝えください。私は戻りません、と」


使者は深く頭を下げた。


「承知いたしました。奥方様のお言葉、そのままお伝えいたします」


男は踵を返し、宿の廊下を歩いていった。革靴の音が遠ざかり、宿の階段を降りる音がして、消えた。


扉を閉めた。


封書を机の上に置いた。封蝋の紋章を見つめた。


戻りません、と言った。あの言葉は、誰かの役に立つために言ったのではない。誰かを守るためでもない。自分のために言った。自分の声で。


その実感が、手の中にじわりと広がった。


同時に、使者の口滑りが頭の中で繰り返された。帳簿のことでお困りの様子でございまして。あの人は、帳簿を読める人間を取り戻したかっただけだ。妻ではなく、実務の部品を。


五年間、そうだったのだ。ずっと。


午後、商人ギルドに寄ると、エルザさんが窓口の奥から飛び出してきた。


「イレーネちゃん、聞いた。宿にヴァーレンの使者が来たって」


噂はもう広まっていた。港町の情報は速い。


「はい。帰還勧告でした。断りました」


「そう。断ったのね」


エルザさんは安堵したような、しかし同時に苦い顔をした。窓口の外に目をやり、声を落とした。


「あたしが余計なこと言ったせいで、使者があんたの居場所を突き止めたんでしょ」


「エルザさん」


「分かってる。あんたは怒ってないって言うだろうけど、あたしは分かってるの。あたしが商人仲間にあんたの話をしなければ、あの使者はもっと手間取ったはず。あたしの口の軽さが、道を作っちゃったのよ」


エルザさんの声が震えていた。この人が自分の過ちを認める時、声が大きくなるのではなく小さくなるのだと、初めて知った。


「エルザさん。あなたは私に仕事を紹介してくれた人です。この町で最初に私の能力を認めてくれた人です。噂が広まったことは事実ですが、あなたの善意まで否定するつもりはありません」


エルザさんは唇を噛んだ。それから、鼻を啜った。


「今後は気をつける。あんたのことは、あたしの口からは出さない。商売の腕の話だけにする」


「それで十分です」


エルザさんは窓口に戻っていった。背中が少し小さく見えた。


夕暮れ、工房の前を通りかかった時、トビアスさんが隣家の前に座っていた。


いつものように木片を削っている。白髪が夕日に染まっている。私が通りかかると、手を止めずに声をかけた。


「お嬢さん。使者が来たそうだな」


「ええ。帰りました」


「そうかい」


トビアスさんは木片を膝の上で回した。削り屑が足元に落ちた。


しばらく沈黙があった。私は立ち止まったまま、何か言おうとして、言葉が見つからなかった。工房の扉は半開きで、中からリヒテルさんの作業台の灯りが漏れていた。


「お嬢さん」


トビアスさんが顔を上げた。


「ノアのことだがな」


「はい」


「あいつは、三年前からあの部屋を掃除していたぞ」


足が止まった。


「三年前……?」


「二階の部屋だ。あんたが最初に泊まった部屋。あれは空いていたんじゃない。ノアが三年前から、いつか誰かが来る日のために掃除して、毛布を替えて、準備していたんだ」


頭の中が白くなった。


三年前。マリーが解雇された年だ。


あの部屋は、空いていたのではなかった。リヒテルさんは「空いてるから使え」と言った。空いていたのではなく、用意されていた。三年間。


「トビアスさん。それは、どういう」


「わしが言えるのはそこまでだ。あとはノアに聞け」


トビアスさんは木片に目を戻した。それ以上は何も言わなかった。


工房の灯りが、扉の隙間から漏れている。リヒテルさんは中にいる。


三年前から部屋を用意していた。私が来ることを知っていた。いや、知っていたのか、待っていたのか。


手紙を隠した時のあの手つき。棚の前で「触らないでくれ」と言った硬い声。マリーの名前を出した時の沈黙と、話題を変えた不自然さ。


すべてが繋がった。繋がりかけた。


この人は、偶然で私を助けたのではなかった。マリーの知り合いだからとか、部屋が空いていたからとか、そういう話ではなかった。三年前から、準備していた。


なぜ。


誰に頼まれて。マリーか。マリーが、リヒテルさんに何かを依頼したのか。


だとしたら、この人が私にしてくれたことは何だったのだろう。蜂蜜の裏書き。茶葉の紙包み。名前を呼んでくれたあの声。あれは、好意だったのか。それとも、誰かに頼まれた義務だったのか。


工房の扉の前に立った。中に入ろうとして、足が動かなかった。


今、この人の顔を見たら、何を思うか分からなかった。感謝なのか、怒りなのか、悲しみなのか。あの紙包みの丁寧さが、頼まれた仕事の丁寧さだったのだとしたら。


扉から手を離した。


踵を返して、宿に向かった。


宿の部屋に戻り、扉を閉めた。机の上に、使者が置いていった帰還勧告の封書がある。その横に、リヒテルさんがくれた茶葉の紙包みがある。


戻りません、と言えた。あの言葉は自分の声で、自分のために言った。


なのに、もう一つの事実が足元を揺るがしていた。


封書の封蝋に触れた。冷たかった。紙包みに触れた。茶葉の匂いがした。


二つの物が、机の上に並んでいる。片方は私を連れ戻そうとする手。もう片方は、私をここに留めようとした手——だと思っていたもの。


窓の外は暗くなっていた。港の灯りが遠い。


リヒテルさんの顔が浮かんだ。あの低い声で「イレーネさん」と呼んだ時の、少し驚いたような表情。あれは義務の顔だっただろうか。


分からない。分からないことが、一番苦しかった。

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