第8話「委任状の封蝋」
朝、宿の扉を開けたら、見知らぬ男が立っていた。
黒い外套に革の長靴。腰に短剣は帯びていないが、姿勢が真っ直ぐで、肩幅が広い。旅装だった。街道を急いで来たのだろう、靴の泥が乾ききっていない。
男は私の顔を見て、わずかに顎を引いた。
「ヴァーレン伯爵夫人、イレーネ様でいらっしゃいますか」
心臓が冷えた。
この町で、その呼び方をされたのは初めてだった。
「どちら様ですか」
「ヴァーレン伯爵家の使者として参りました。伯爵様より、奥方様に書面をお届けするよう仰せつかっております」
男は外套の内側から封書を取り出した。封蝋にヴァーレン家の紋章が押されている。見覚えのある紋章だった。五年間、私が帳簿の表紙に捺してきた紋章と同じものだ。
「帰還勧告でございます」
封書を受け取った。手が震えなかったことが、自分でも意外だった。
「どのようにして、私の居場所を」
「ファルム市内の商人の間で、帳簿に詳しい方がいらっしゃるとお聞きしまして。伯爵家に縁のある方ではないかと辿っていきましたところ、こちらに」
噂だった。エルザさんが広めてしまった、あの噂。帳簿に強い、どこかの貴族の奥方らしい女性。その話が商人の口から口へ渡り、この男の耳に届いた。
使者は封書を渡した後も、その場に立っていた。何かを言いかけ、口を閉じ、それからもう一度口を開いた。
「奥方様。差し出がましいことを申しますが」
「はい」
「帳簿のことでお困りの様子でございまして——」
使者はそこで言葉を切った。自分が余計なことを言ったと気づいた顔だった。
帳簿のことで困っている。
帰還勧告の理由は、妻への愛情ではなかった。帳簿が読める人間がいなくなって困っている。それが、夫がこの書面を出した動機だった。
使者の口滑りが、五年間の結婚生活の正体を要約していた。
「お伝えください」
私は封書を手に持ったまま、使者の目を見た。
「戻りません」
使者の表情が強張った。
「奥方様、帰還勧告は伯爵様のご意思で——」
「法的な強制力がないことは、私も承知しています。帰還勧告は年に二度まで送付できる制度ですが、拒否する権利は妻側にあります」
使者は黙った。ファルムは王国直轄の自由交易都市だ。伯爵家の私兵がこの市内で力を行使するには市長の許可が必要で、武装入市も許可制になっている。この男が私を強制的に連れ帰ることはできない。
「伯爵様にそのままお伝えください。私は戻りません、と」
使者は深く頭を下げた。
「承知いたしました。奥方様のお言葉、そのままお伝えいたします」
男は踵を返し、宿の廊下を歩いていった。革靴の音が遠ざかり、宿の階段を降りる音がして、消えた。
扉を閉めた。
封書を机の上に置いた。封蝋の紋章を見つめた。
戻りません、と言った。あの言葉は、誰かの役に立つために言ったのではない。誰かを守るためでもない。自分のために言った。自分の声で。
その実感が、手の中にじわりと広がった。
同時に、使者の口滑りが頭の中で繰り返された。帳簿のことでお困りの様子でございまして。あの人は、帳簿を読める人間を取り戻したかっただけだ。妻ではなく、実務の部品を。
五年間、そうだったのだ。ずっと。
午後、商人ギルドに寄ると、エルザさんが窓口の奥から飛び出してきた。
「イレーネちゃん、聞いた。宿にヴァーレンの使者が来たって」
噂はもう広まっていた。港町の情報は速い。
「はい。帰還勧告でした。断りました」
「そう。断ったのね」
エルザさんは安堵したような、しかし同時に苦い顔をした。窓口の外に目をやり、声を落とした。
「あたしが余計なこと言ったせいで、使者があんたの居場所を突き止めたんでしょ」
「エルザさん」
「分かってる。あんたは怒ってないって言うだろうけど、あたしは分かってるの。あたしが商人仲間にあんたの話をしなければ、あの使者はもっと手間取ったはず。あたしの口の軽さが、道を作っちゃったのよ」
エルザさんの声が震えていた。この人が自分の過ちを認める時、声が大きくなるのではなく小さくなるのだと、初めて知った。
「エルザさん。あなたは私に仕事を紹介してくれた人です。この町で最初に私の能力を認めてくれた人です。噂が広まったことは事実ですが、あなたの善意まで否定するつもりはありません」
エルザさんは唇を噛んだ。それから、鼻を啜った。
「今後は気をつける。あんたのことは、あたしの口からは出さない。商売の腕の話だけにする」
「それで十分です」
エルザさんは窓口に戻っていった。背中が少し小さく見えた。
夕暮れ、工房の前を通りかかった時、トビアスさんが隣家の前に座っていた。
いつものように木片を削っている。白髪が夕日に染まっている。私が通りかかると、手を止めずに声をかけた。
「お嬢さん。使者が来たそうだな」
「ええ。帰りました」
「そうかい」
トビアスさんは木片を膝の上で回した。削り屑が足元に落ちた。
しばらく沈黙があった。私は立ち止まったまま、何か言おうとして、言葉が見つからなかった。工房の扉は半開きで、中からリヒテルさんの作業台の灯りが漏れていた。
「お嬢さん」
トビアスさんが顔を上げた。
「ノアのことだがな」
「はい」
「あいつは、三年前からあの部屋を掃除していたぞ」
足が止まった。
「三年前……?」
「二階の部屋だ。あんたが最初に泊まった部屋。あれは空いていたんじゃない。ノアが三年前から、いつか誰かが来る日のために掃除して、毛布を替えて、準備していたんだ」
頭の中が白くなった。
三年前。マリーが解雇された年だ。
あの部屋は、空いていたのではなかった。リヒテルさんは「空いてるから使え」と言った。空いていたのではなく、用意されていた。三年間。
「トビアスさん。それは、どういう」
「わしが言えるのはそこまでだ。あとはノアに聞け」
トビアスさんは木片に目を戻した。それ以上は何も言わなかった。
工房の灯りが、扉の隙間から漏れている。リヒテルさんは中にいる。
三年前から部屋を用意していた。私が来ることを知っていた。いや、知っていたのか、待っていたのか。
手紙を隠した時のあの手つき。棚の前で「触らないでくれ」と言った硬い声。マリーの名前を出した時の沈黙と、話題を変えた不自然さ。
すべてが繋がった。繋がりかけた。
この人は、偶然で私を助けたのではなかった。マリーの知り合いだからとか、部屋が空いていたからとか、そういう話ではなかった。三年前から、準備していた。
なぜ。
誰に頼まれて。マリーか。マリーが、リヒテルさんに何かを依頼したのか。
だとしたら、この人が私にしてくれたことは何だったのだろう。蜂蜜の裏書き。茶葉の紙包み。名前を呼んでくれたあの声。あれは、好意だったのか。それとも、誰かに頼まれた義務だったのか。
工房の扉の前に立った。中に入ろうとして、足が動かなかった。
今、この人の顔を見たら、何を思うか分からなかった。感謝なのか、怒りなのか、悲しみなのか。あの紙包みの丁寧さが、頼まれた仕事の丁寧さだったのだとしたら。
扉から手を離した。
踵を返して、宿に向かった。
宿の部屋に戻り、扉を閉めた。机の上に、使者が置いていった帰還勧告の封書がある。その横に、リヒテルさんがくれた茶葉の紙包みがある。
戻りません、と言えた。あの言葉は自分の声で、自分のために言った。
なのに、もう一つの事実が足元を揺るがしていた。
封書の封蝋に触れた。冷たかった。紙包みに触れた。茶葉の匂いがした。
二つの物が、机の上に並んでいる。片方は私を連れ戻そうとする手。もう片方は、私をここに留めようとした手——だと思っていたもの。
窓の外は暗くなっていた。港の灯りが遠い。
リヒテルさんの顔が浮かんだ。あの低い声で「イレーネさん」と呼んだ時の、少し驚いたような表情。あれは義務の顔だっただろうか。
分からない。分からないことが、一番苦しかった。




