第7話「帳面の影」
港に霧が出た。この町に来て初めての霧だった。
宿の窓を開けると、白い靄が港を覆っていた。桟橋の輪郭がぼやけ、停泊している船の帆柱が霧の中に溶けている。いつもなら聞こえる荷降ろしの声も、今朝は遠い。
身支度を整え、宿を出た。
今日は帳簿代行の仕事が入っている。エルザさんが紹介してくれた穀物仲買の商人で、四半期分の取引帳簿の整理と照合。依頼の規模は、これまでで一番大きかった。
霧の中を歩いて商人ギルドに向かう途中、工房の前を通った。扉は閉まっていた。リヒテルさんは測量に出ているのだろう。霧の日に外に出るのかと思ったが、この人の仕事の判断に口を出す立場にはない。
閉まった扉を横目に通り過ぎた。
商人ギルドの奥の作業机を借りて、穀物仲買の帳簿を開いた。
四半期分の取引記録。仕入れ先、数量、単価、支払い日、納品先。数字を追い、転記を照合し、合計を確認する。手が覚えている作業だった。
三時間ほどかけて帳簿の大半を整理し終えた頃、数字の流れに違和感を覚えた。
仕入れ先の一覧に、ヴァーレン領からの小麦の取引記録がある。三ヶ月前までは月に二回、定量の小麦が入荷していた。それが二ヶ月前から月一回に減り、先月は入荷がなかった。
代わりに、別の産地からの仕入れが急増している。単価が高い。ヴァーレン領の小麦より二割ほど割高だった。
帳簿の数字は、感情を持たない。ただ事実を記録するだけだ。しかし、この数字の変化が何を意味しているかは、五年間あの領地の帳簿を管理していた私には読める。
出荷が止まっている。取引先が離れ始めている。穀物の流通が滞れば、ヴァーレン領の信用は落ちる。信用が落ちれば、買い手はさらに離れる。
私が組んでいた出荷計画は半年先まで帳簿に落としてあった。支払いの期日も、取引先との契約更新の時期も、すべて。あの帳簿を読める人間がいれば、こうはならなかったはずだ。
筆を置いた。帳簿の数字を見つめた。
私が去ったから、崩れた。
その事実が、数字となって目の前にある。感情ではなく、帳簿の記録として。
昼過ぎ、帳簿の整理を終えて商人ギルドの窓口に寄ると、エルザさんがいた。
「イレーネちゃん、お疲れ様。穀物仲買の帳簿、終わった?」
「はい。報告書をまとめて明日届けます」
「さすが。あんたに任せると早いから助かるわ」
エルザさんは窓口に肘をつき、声を少し落とした。
「ところでね、ヴァーレン領、かなりまずいらしいよ」
足が止まった。午前中に帳簿で見た数字が、頭の中でちらついた。
「穀物の出荷遅延だけじゃなくて、取引先への支払いが滞ってるって話が出てるの。ファルムの商人で、ヴァーレン領との取引を打ち切ったところが三軒あるって聞いた。信用がなくなってきてるのよ」
「そうですか」
「あんたが帳簿見てたんでしょ、あの領地の。そりゃあ回らなくなるわよね」
エルザさんは腕を組んだ。それから、少し気まずそうな顔をした。
「あとね、これはあたしの責任なんだけど」
「何ですか」
「あんたのこと、ちょっと喋りすぎたかもしれない」
エルザさんは視線を逸らした。
「帳簿がすごく正確な人が来た、って商人仲間に話してたのよ。で、その人がヴァーレンの家名を名乗ってるって。あたしは仕事の腕を褒めてたつもりだったんだけど、噂ってのは尾ひれがつくからね。『帳簿に強い、どこかの貴族の奥方らしい女性がファルムにいる』って話が、ギルドの中で広まってるみたいなの」
胸の奥が冷えた。
伯爵夫人がファルムにいる。その噂が商人ギルドの中を巡っているということは、ギルドを通じて外にも漏れうるということだ。商人は各地を行き来する。噂は荷物と一緒に運ばれる。
「エルザさん」
「ごめん。あたしが余計なことを——」
「いいえ。エルザさんは仕事を紹介してくださっただけです。噂が広まるのは、この町で名前を出して仕事をしている以上、避けられないことですから」
そう言いながら、腹の底に重いものが沈んだ。
ヴァーレンの家名で帳簿代行をしている。それは自分で決めたことだ。法律上、別居中の妻は嫁ぎ先の家名を名乗る義務がある。旧姓は使えない。だから仕方がない。
しかし、その家名が噂として広まれば、ヴァーレン領にも届きうる。夫の耳にも。
エルザさんは申し訳なさそうに手を振った。
「今後は気をつけるから。あんたの個人的なことは喋らないようにするからね」
「ありがとうございます、エルザさん」
ギルドを出た。霧はまだ残っていた。港の輪郭がぼんやりと白い靄の中に浮かんでいる。
この町に来て三ヶ月近くが経つ。帳簿代行の仕事は少しずつ増え、収入も安定し始めている。宿の家賃は裁量経費から出しているが、帳簿代行の報酬で食費はまかなえるようになった。
この町で自分の名前で生きている。その実感は確かにある。
しかし、帳簿の数字はヴァーレン領の崩壊を映し出し、噂は私の素性をこの町に広めている。港町の日常の中に、過去の影が滲み始めていた。
夕方、宿の部屋で帳簿の報告書をまとめていると、扉を叩く音がした。
開けると、リヒテルさんが立っていた。作業着のまま、手に小さな紙包みを持っている。
「……これ」
紙包みを差し出された。受け取ると、茶葉の匂いがした。
「いい茶葉が手に入った。……余ったから」
余った、と言った。しかし紙包みは新しく、丁寧に折られていた。余り物を包む手つきではなかった。
「ありがとうございます、リヒテルさん」
リヒテルさんは頷き、それ以上何も言わなかった。廊下に立ったまま、少しの間こちらを見ていた。何か言おうとしているように見えた。しかし口は開かなかった。
「あの、上がりますか。お茶を——」
「いや。……仕事が残ってる」
そう言って、リヒテルさんは背を向けた。階段を降りていく足音が遠ざかった。
紙包みを机の上に置いた。茶葉の匂いが部屋に広がった。
蜂蜜の裏書きの時と同じだった。言葉ではなく、物で示す。この人はいつもそうだ。何も言わない代わりに、何かを置いていく。
嬉しかった。嬉しいと思ってしまう自分がいた。
同時に、午前中の帳簿の数字が頭に浮かんだ。ヴァーレン領の小麦の入荷が止まっている。取引先が離れている。支払いが滞っている。
私が作った仕組みが壊れていく。あの帳簿の数字の裏には、困っている人間がいる。領民がいる。取引先の商人がいる。
でも、戻れない。戻らないと決めた。あの領地の帳簿は、もう私の仕事ではない。
茶葉の紙包みに手を伸ばした。ここにいていい、とこの人は物で言ってくれる。言葉にはしない。できないのかもしれない。しないのかもしれない。どちらにしても、この紙包みの丁寧さが、今の私には十分だった。
——十分だと思いたかった。
ふと、先日のことを思い出した。
工房に立ち寄った時、リヒテルさんの作業台の奥にある棚の前に立ったことがあった。棚には地図の巻物やインク瓶が並んでいて、その隙間に何か紙の束のようなものが見えた。何気なく手を伸ばしかけた時、リヒテルさんの声が飛んできた。
「そこは……触らないでくれ」
振り返ると、リヒテルさんは作業台の前に立ったまま、こちらを見ていた。いつもの無表情とは少し違う、硬い目だった。
「すみません。棚が気になっただけで」
「……いや。散らかってるだけだ。気にするな」
リヒテルさんはそう言って視線を逸らし、作業に戻った。
散らかっている、と言った。しかし棚は整頓されていた。少なくとも、散らかっていると言うほどではなかった。
あの手紙を隠した時と、同じ空気だった。
この人は何かを隠している。手紙の時も。棚の時も。私に見せたくないものがある。
考えすぎだろうか。この人には、この人の事情がある。私にすべてを見せる義理はない。
でも、引っかかりは消えなかった。手紙を急いで隠した時の手つき。棚の前での硬い声。マリーの名前を出した時の沈黙。
点が並んでいる。繋がるかどうかは分からない。繋げたいのか、繋げたくないのか、自分でも分からなかった。
窓の外を見た。霧は薄くなっていたが、まだ港の灯りは滲んでいた。
帳簿の数字は嘘をつかない。あの領地は、私という部品を抜いたまま動いている。数字が示す限り、そう長くはもたない。
それでも私は、ここにいる。
茶葉の紙包みを棚に置いた。明日の朝、この茶を淹れよう。この町で買った安い茶器で、この人がくれた茶葉を。
それだけのことが、今の私には大きかった。
霧の向こうで、波の音が低く響いていた。




