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夫に嘘をつかれ続けた伯爵夫人が家を出たら、そこには、三年前から埃ひとつない部屋を用意して待っている男がいました  作者: 月雅


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第6話「呼べない名前」

いつから、この人の不在が気になるようになったのだろう。


宿に移って三日が経っていた。港区の安い宿の一室。窓は小さく、港の灯りは遠い。工房の二階から見えていたあの夜景は、ここからは見えなかった。


朝、帳簿代行の仕事に向かう途中でリヒテルさんの工房の前を通る。扉が半開きなら、リヒテルさんは中にいる。扉が閉まっていれば、測量に出ている。それだけのことを、私は毎朝確認するようになっていた。


今朝は、扉が閉まっていた。


測量に出ているのだろう。北の岬か、南の入り江か。地図の仕事は天候次第だと言っていた。晴れた日は外に出て、雨の日は工房で製図をする。今日は晴れている。だからいない。それだけのことだ。


それだけのことなのに、閉まった扉の前を通り過ぎる時、胸の奥がほんの少しだけ凹んだ。


夕方、帳簿の仕事を終えて商人ギルドに寄ると、エルザさんが窓口の奥から手招きした。


「イレーネちゃん、ちょっとお茶でもどう。聞きたいことがあるんだけど」


ギルドの裏手にある小さな茶房で、エルザさんは湯気の立つ杯を両手で包みながら切り出した。


「あんた、別居中なんでしょ」


直球だった。私は杯を置いた。


「はい」


「別居って、確か三年で一方的に離縁できるんだっけ。あたしの亡くなった旦那の姉がそういう制度を使ったって聞いたことがある」


「三年条項ですね。連続三年の別居実績があれば、妻側から離籍を請求できます」


エルザさんは杯に口をつけ、こちらを見た。


「ということは、あんた、三年間は待たなきゃいけないわけだ」


「そうなります」


「三年。長いね」


エルザさんは杯を置き、身を乗り出した。声がひそめられた。


「で、その三年の間に、好きな人ができたらどうなるの」


心臓が跳ねた。


「好きな人、というのは」


「あんたね、別居中に不貞が認定されたら、三年条項は使えなくなるんでしょ。あたしは商人だから、この手の話はいくつも聞いてるの。別居中の奥方が男と仲良くしてるところを旦那の手の者に見られて、不貞認定されて持参金没収——なんて話は珍しくないからね」


エルザさんは指を立てた。


「つまり、あんたは好きな人ができても、三年は手を出せないってことでしょ。出したら負けなの」


言葉が出なかった。


知っていた。不貞認定のことは知っていた。別居申告を出した時から、この制約は頭にあった。立証責任は夫側にあるが、証拠を掴まれれば三年条項は無効化される。持参金も没収される。


知っていた。知識としては。


でも、今、エルザさんの言葉で改めて突きつけられたのは、知識ではなく現実だった。感情を持つこと自体が、危険だということ。


「エルザさん。なぜ急にそんな話を」


エルザさんは茶を啜り、にやりと笑った。


「あんたがノアの工房を出て宿に移った時、ノアのやつ、二日間ずっと不機嫌だったのよ。エルザさん知ってる? あの子が不機嫌だと、定規の線がいつもより太くなるの。分かりやすいったらないわ」


「それは——」


「あたしは何も言ってないからね。ただ、あんたに知っておいてほしかったの。三年条項のこと。ちゃんと分かった上でどうするか、あんた自身が決めることだから」


エルザさんは杯を空にし、立ち上がった。


「お節介だったらごめんね。でもあたし、あんたのこと気に入ってるからさ。損してほしくないの」


ギルドの裏口から出て行くエルザさんの背中を見送りながら、私は杯を握ったまま動けなかった。


宿に戻る途中、工房の前を通った。


扉が半開きだった。リヒテルさんが戻っている。


足を止めた。通り過ぎるつもりだった。今日は寄らずに帰ろうと決めていた。宿に移ったのは、距離を取るためだ。


でも、扉の隙間から灯りが漏れていた。作業台の灯りだろう。地図を描いているのだろう。


中に入った。自分でも理由が分からなかった。


リヒテルさんは作業台に向かっていた。顔を上げた。


「……ああ」


それだけ言って、筆を置いた。少しの間、私の顔を見ていた。それから口を開いた。


「……イレーネさん」


足が止まった。


今、この人は私の名前を呼んだ。


「あんた」でも「おい」でもなく、イレーネさん、と。


リヒテルさんは自分の口から出た言葉に少し驚いたような顔をした。それから視線を逸らし、筆を取り直した。


「……船具屋の帳簿の件で、聞きたいことがあるなら。今なら手が空いてる」


「いえ、帳簿のことではないんです。通りがかっただけで」


沈黙が落ちた。


リヒテルさんは地図に目を落としたが、筆は動いていなかった。私は作業台の端に立ったまま、何か言おうとして、言葉が見つからなかった。


この人が私の名前を呼んだ。それだけのことが、胸の中で大きく響いていた。


「リヒテルさん」


私はそう呼び返した。いつもと同じ呼び方だった。それ以外の呼び方を、まだ私は持っていなかった。


「……なんだ」


「お仕事、お邪魔してすみません。帰りますね」


「……ああ」


工房を出た。扉を閉めた。


夜風が頬に当たった。歩き出しながら、エルザさんの言葉が頭の中で繰り返された。


好きな人ができても、三年は手を出せない。出したら負けだ。


名前を呼ばれた。ただそれだけのことが、こんなに胸を揺らすとは思わなかった。


——でも、応えてはいけない。まだ。


三年。あと三年近く。別居が成立してからまだ二ヶ月も経っていない。法的に自由になるまでの時間は、途方もなく長い。その間、この気持ちに蓋をし続けなければならない。蓋を外せば、夫に付け入る隙を与えることになる。


宿の部屋に戻り、窓を開けた。港の灯りは遠い。工房の二階から見えたあの近さはもうない。


でも、今夜は灯りの遠さが、少し違って見えた。


リヒテルさんが私の名前を呼んだ声が、まだ耳に残っていた。あの低い声で「イレーネさん」と言った時、この人は何を考えていたのだろう。


聞けない。聞いてはいけない。聞きたいと思ってしまうこと自体が、もう危ういのだ。


窓を閉めた。灯りが消えた。

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