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夫に嘘をつかれ続けた伯爵夫人が家を出たら、そこには、三年前から埃ひとつない部屋を用意して待っている男がいました  作者: 月雅


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第5話「蜂蜜の裏書き」

マリーは蜂蜜が好きだった。


朝の着替えを手伝いながら、あの子はよく故郷の話をした。港町の市場には蜂蜜売りの老婆がいて、花の種類ごとに色の違う蜂蜜を並べていた。マリーが一番好きだったのはアカシアの蜂蜜で、金色が薄くて透き通っていて、舐めると喉の奥がじんわり温かくなるのだと言っていた。


その記憶が、今朝、不意に蘇った。


リヒテルさんが測量に出ている日だった。


工房は静かで、一階の作業台にはいつものように製図途中の地図が広げてあった。その横に、リヒテルさんの不在時にだけ現れる小さな変化がある。


地図の裏に、鉛筆で走り書きがしてあった。


「今朝の市場で蜂蜜が安かった」


リヒテルさんの字だ。不揃いで、少し右に傾いている。地図の裏書きメモ——測量の記録とも違う、日常の覚え書きのようなものだった。


蜂蜜。


私が好きだと言ったことはない。マリーが好きだという話を、リヒテルさんの前でしたこともない。でも、リヒテルさんはマリーの幼馴染だ。マリーから聞いていたのかもしれない。


あるいは、単にリヒテルさん自身が蜂蜜を買おうとしていただけかもしれない。地図の裏書きは私に宛てたものではないのかもしれない。


でも、メモが置かれていたのは、私がいつも座る側の作業台だった。


地図を裏返して、表の面を見た。海岸線が細い線で描かれ、測量地点に小さな印がついている。余白には、そこから見える風景のスケッチが鉛筆で添えてあった。丘の上から見た港の遠景、崖の上から覗く入り江。リヒテルさんはこうして、地図を描きながらその場所の景色も記録しているのだろう。


地図を元の位置に戻した。裏書きのメモは、そのままにしておいた。


午後、エルザさんから新しい帳簿代行の依頼が入った。


「港区の船具屋なんだけどね、半年分の仕入れ帳がぐちゃぐちゃで、うちのギルドへの申告が期限に間に合わないって泣きついてきたの。やれる?」


「半年分ですか。量は多いですが、やれます」


「ありがたい。ただ、この船具屋、ノアの顧客でもあるのよ。地図の注文を出してるところ。帳簿の中にノアへの支払い記録もあるだろうから、分からないことがあったらノアに聞いて」


エルザさんは窓口から身を乗り出して、にやりと笑った。


「イレーネちゃん、ノアと仕事で絡むの初めてでしょ。あの子、仕事の話ならちゃんと喋るから安心して」


船具屋の帳簿を受け取り、工房に持ち帰った。帳簿を開くと、確かにリヒテルさんへの地図制作の支払い記録があった。測量費用、製図費用、修正費用。金額は一件ごとに記載されているが、費目の分類が曖昧で、何に対する支払いなのかが帳簿上では判然としない。


夕方、リヒテルさんが測量から戻った。


「リヒテルさん、お聞きしてもよろしいですか。船具屋さんの帳簿で、地図の支払い記録のことなんですが」


「……ああ」


リヒテルさんは測量道具を壁に立てかけ、作業台の前に立った。私が帳簿を広げると、覗き込むように身を屈めた。近い。潮と汗とインクの混じった匂いがした。


「この三件の支払い、費目が『地図制作』としか書かれていないんですが、内訳は分かりますか。測量と製図で費用が別なら、分けて記帳したほうが船具屋さんの申告に都合がいいんです」


「……測量と製図は分けてる。一件目が測量のみ、二件目が製図込み、三件目は修正だけだ」


「ありがとうございます。これで帳簿を整理できます」


リヒテルさんは頷き、身を起こした。その時、私はこの人と並んで帳簿を覗き込んでいる自分に気づいた。ヴァーレン家では、帳簿を誰かと一緒に見ることはなかった。あの仕事は常に一人でやるものだった。


「リヒテルさん」


「……なんだ」


「マリーという子を、ご存知ですか」


リヒテルさんの手が止まった。


一瞬の沈黙。それから、リヒテルさんは測量棒を手に取って壁に立てかけ直した。すでに立てかけてあったものを、わざわざ持ち上げて、同じ場所に戻した。


「……幼馴染だ」


「そうですか」


「……それだけだ。昔の知り合いだよ」


リヒテルさんはそう言って、作業台に向き直った。背中が少し硬くなっていた。


マリーの名前を出した途端に、空気が変わった。幼馴染だと言ったが、それ以上は語らなかった。話題を変えたのは明らかだった。


聞いてはいけなかったのだろうか。それとも、聞かれたくないことがあるのだろうか。


深追いはしなかった。帳簿に目を戻した。


その夜、鞄の中の革袋を開けた。


屋敷を出る時に持ち出した裁量経費の残りを数えた。帳簿代行の依頼料は少しずつ入ってきているが、まだ安定した収入とは言えない。リヒテルさんの工房の二階に居候を続けている間は家賃がかからないが、食費はリヒテルさんが負担してくれている。朝のパンも、夜の煮込みも。


このままではいけない。


帳簿代行の報酬だけでは、まだ宿を借りる水準には届いていない。でも、いつまでもこの工房で人の厚意に甘えているわけにはいかなかった。リヒテルさんは何も言わない。何も求めない。だからこそ、この居心地の良さが重くなり始めていた。


革袋の中の銅貨と銀貨を並べた。裁量経費の残りと、これまでの依頼料の合計。宿を借りるなら、裁量経費を切り崩すことになる。帳簿代行の報酬で宿代をまかなえるようになるまでには、もう少し時間がかかる。


初期資金を切り崩す不安はあった。この金は、何ヶ月もかけて積み立てたものだ。ヴァーレン家で唯一、私が自分の判断で使える金だった。それを宿代に充てるということは、安全の余白を削ることだ。


でも、ここにいることの居心地の悪さは、日ごとに増していた。


リヒテルさんの不器用な気遣いに触れるたびに、嬉しさと同時に、借りが積み上がる感覚があった。パンの温かさ、煮込みの量、地図の裏書き。この人は何も見返りを求めていない。それが分かるからこそ、何も返せない自分が居たたまれなくなる。


机の上に革袋を置いた。


明日、港区の宿を探そう。裁量経費から宿代を出す。帳簿代行の収入が追いつくまで、しばらくは手持ちの金が減り続ける。それでも、自分の足で立つためには、まずこの工房を出なければならない。


窓の外から、港の灯りが見えた。この部屋から見る港の夜景にも、少し慣れてきていた。


地図の裏書きのことを、もう一度思った。


「今朝の市場で蜂蜜が安かった」


あのメモは、私に向けて書かれたものだったのだろうか。そう思いたい自分がいる。この人の不器用な覚え書きの中に、私のことが含まれていたらいいのにと。


——でも、まだ。


今はまだ、そこに踏み込んではいけない。裁量経費の銅貨を握り締めて、私は革袋の口を閉じた。

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