第4話「空の穀物庫」
港の桟橋で、荷降ろしの帳簿を三件片づけた。
ファルムに来て一ヶ月が過ぎていた。エルザさんの紹介で始めた帳簿代行の仕事は、少しずつ依頼が増えている。桟橋に着く荷の検品記録と帳簿の照合、卸売商の月次決算、小さな工房の仕入れ帳の整理。どれも規模は大きくないが、正確にやれば次の仕事に繋がった。
朝のうちに三件を終え、桟橋の端で依頼料を数えた。銅貨を革袋に入れ、鞄にしまう。エルザさんが「面白い人が来た」と言って回ってくれたおかげで、商人たちは私の仕事ぶりを試すように小さな依頼を出してくれるようになっていた。
桟橋から商人ギルドに向かう途中、エルザさんが受付窓口から手を振った。
「イレーネちゃん、ちょっとこっち来て」
いつの間にか「ヴァーレンさん」から「イレーネちゃん」に変わっていた。最初は面食らったが、もう慣れた。この人はそういう距離の詰め方をする。
「どうしましたか、エルザさん」
「今朝入ってきた話なんだけどね。ヴァーレン領の穀物、出荷が遅れてるって」
足が止まった。
エルザさんは窓口に肘をつき、声をひそめた。
「うちのギルドに入ってくる穀物便の到着が、ここ二週間ほど乱れてるの。ヴァーレン領からの小麦がいつもより遅いって、複数の商人が言ってる。まあ、天候のせいかもしれないけどね」
「そうですか」
私は努めて表情を変えなかった。声も平らに保った。
「ヴァーレン領って、あんたの家名でしょ。何か知ってる?」
「いいえ。私はもう、あの領地の帳簿には関わっていませんから」
エルザさんは数秒こちらを見つめて、それ以上は聞かなかった。「まあ、うちの商人が困らなきゃいいんだけどね」と言って、次の来客に向き直った。
商人ギルドを出て、港区の通りを歩いた。
穀物の出荷が遅れている。
五年間、あの帳簿を管理していたのは私だ。穀物の出荷は領地の収入の柱で、出荷の時期と量と送り先は半年前から帳簿上で計画を組んでいた。支払いの期日も、取引先との契約条件も、すべて帳簿に落とし込んであった。
私が去った後、あの帳簿を誰が引き継いだのだろう。家令か、それとも夫が新しい人間を雇ったのか。どちらにせよ、穀物の出荷計画はあの帳簿を読めなければ回らない。
胸の奥が軋んだ。私がいなくなったから、崩れ始めたのではないか。
——いや。崩れたのは、あの人が五年間、何もしてこなかったからだ。帳簿を開いたこともない。取引先の名前すら覚えていない。私という部品が抜けたら回らなくなる仕組みを、あの人は作ったのではなく、放置していただけだ。
通りの角を曲がった時、風が変わった。港の潮風に混じって、遠くの畑の土の匂いがした気がした。気のせいだろう。ファルムは海の町だ。
足を速めた。戻らない。もう決めたことだ。
夕暮れの工房に戻ると、リヒテルさんが測量道具を片づけていた。
「……今日は早かったんだな」
「桟橋の仕事が午前で終わったので」
リヒテルさんは頷き、それ以上何も言わなかった。いつものことだ。作業台の上に製図途中の地図が広げてあり、その横にインクの瓶と細い筆が並んでいる。
私は二階への階段に足をかけた。
「……飯、食ったか」
振り返ると、リヒテルさんは作業台に向かったまま、こちらを見ていなかった。
「まだです」
「……鍋に残ってる」
台所を覗くと、小さな鍋に根菜の煮込みが残っていた。二人分には少し多い量だった。私の分を見越して多く作ったのか、それとも単に作りすぎたのか。どちらとも取れた。
器によそって作業台の端に座り、食べた。リヒテルさんは地図に向かい、定規を当てて細い線を引いていた。
「リヒテルさんは、今日はどこを測量していたんですか」
「……北の岬。灯台の位置を確認してきた」
それだけ答えて、また黙った。しかし数秒後、ぼそりと付け足した。
「……岬の先端から見ると、島が三つ見える。天気がいい日はもう一つ、うっすら見える島がある。四つ目の島は古い地図には載ってない。今日はそれを確認してきた」
筆を持つ手が止まらないまま、リヒテルさんは続けた。
「四つ目の島の位置を特定するには、三つの既知点からの角度を測って——」
そこで言葉が途切れた。こちらを見て、口を閉じた。
「……すまん。どうでもいい話だ」
「いいえ。続けてください」
リヒテルさんは少し困った顔をして、それから視線を地図に戻した。それ以上は話さなかった。
煮込みを食べ終えて器を洗い、二階に上がろうとした時、リヒテルさんが立ち上がった。
「母のところに薬を届けてくる」
「お母様、お体がよくないのですか」
「……足が悪い。港の向こうに住んでる。すぐ戻る」
リヒテルさんは棚から小さな包みを取り出し、工房を出ていった。
一人になった工房は静かだった。作業台の上の地図を眺めた。岬の海岸線が細い線で描かれ、灯台の位置に小さな印がついている。地図の余白に、簡単なスケッチが描かれていた。岬から見た海の風景のようだった。測量地点からの眺望を記録する習慣があるのだろう。
それから、作業台の端に積まれた紙の束が目に入った。リヒテルさんの帳簿だろう。請求書や領収書が無秩序に重なっている。整理すれば——と手が伸びかけて、止めた。頼まれていない。
視線を工房の奥に移した時、奥の机の上に何かが見えた。
紙が一枚、裏返しに置かれている。その横にインク壺と筆。手紙を書いていた形跡だった。
私が桟橋から戻る前に、リヒテルさんはここで手紙を書いていたのか。
深く考えるほどのことではない。誰にだって手紙を書く相手はいる。ただ、私が工房に入った時にリヒテルさんが道具を片づけていた手つきが、少し急いでいたことを思い出した。
ヴァーレン領の穀物の出荷遅延の噂が入ってきた日に、リヒテルさんが手紙を書いていた。
偶然だろう。きっと偶然だ。
それでも、小さな引っかかりが胸の底に残った。
二階の部屋に戻り、窓を開けた。
夜の港から、波の音が聞こえる。
ヴァーレン領の穀物が遅れている。あの領地は、私がいなくても回るはずだった。帳簿の仕組みは作ってあった。取引先との交渉の手順も、支払いの優先順位も、すべて文書に残してあった。
それでも回らないのだとしたら、文書を読む人間がいないということだ。あるいは、読んでも理解できる人間がいない。夫は帳簿を開く習慣すらなかった。家令に任せていたのだろうが、家令は帳簿を読めても、取引先との関係を読むことまではできない。
私が五年間やっていたのは、数字を記録することではなかった。数字の裏にある人の動きを読み、先手を打つことだった。それを引き継げる人間は、あの屋敷にはいなかった。
別居申告の受理通知は、もう夫のもとに届いている頃だ。商人便で十日、裁判所の処理に数日。一ヶ月が経っている。夫がどう反応したのかは分からない。何も連絡はない。
窓の外の波が、暗い水面を揺らしていた。
あの領地で困っている人がいるかもしれない。取引先への支払いが遅れれば、信用が落ちる。信用が落ちれば、穀物の買い手が離れる。そうなれば、領民の生活にも影響が出る。
胸が痛んだ。でも、あの痛みは五年間かけて使い切ったものだ。
私は別居申告を出した。帳簿代行の仕事を始めた。この町で、自分の名前で生きると決めた。あの領地の帳簿は、もう私の仕事ではない。
リヒテルさんの手紙のことが、まだ引っかかっていた。
あの人は何を書いていたのだろう。誰に宛てた手紙だったのだろう。
分からない。聞けない。聞く立場にもない。
窓を閉めた。波の音が遠くなった。




