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夫に嘘をつかれ続けた伯爵夫人が家を出たら、そこには、三年前から埃ひとつない部屋を用意して待っている男がいました  作者: 月雅


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第3話「最初の帳面」

「あんた、数字が読めるのか」


声をかけてきたのは、商人ギルドの受付窓口に立っていた女だった。赤い髪を後ろでまとめ、腰に手を当ててこちらを見ている。


私は窓口の前に広げられた帳簿から顔を上げた。ファルムに来て一週間。町の仕組みを知るために商人ギルドを訪ねたのだが、受付の横に積まれた帳簿の束が目に入り、つい手が伸びた。


「この帳簿、三ヶ月分の仕入れ値の転記が二箇所ずれています。ここの小麦の単価が前月と入れ替わっていて、合計が合わなくなっています」


指で該当箇所を示しながら言った。五年間、ヴァーレン領の帳簿を管理してきた目には、数字のずれは文章の誤字と同じくらい自然に飛び込んでくる。


赤い髪の女は帳簿を覗き込み、私が指した箇所を確認し、それからぱっと顔を上げた。


「ちょっと待って。これ、うちの商人が三日かけて原因探してた帳簿だからね? あんた今、立ったまま一目で見つけたでしょ」


「たまたま目についただけです」


「たまたまで帳簿の転記ずれが見つかる人間は、あたしの知る限りこの町にいないからね」


女は窓口から身を乗り出した。


「あたしはエルザ。エルザ・ファラン。ギルドの受付と仲介をやってるの。あんたは?」


「イレーネ・ヴァーレンと申します。エルザさん」


「ヴァーレン?」


エルザさんの目が一瞬、細くなった。ヴァーレンの家名に反応したのかもしれない。しかしそれ以上は追及せず、代わりに帳簿の束を指で叩いた。


「ねえヴァーレンさん、この町で帳簿の仕事を探してたりする? 今、帳簿を見れる人間が足りなくて困ってるところがあるの。港の商人は荷の出し入れは得意だけど、帳面になると途端にだめでしょ」


私は少し迷った。帳簿の仕事。伯爵夫人が町で帳簿を請け負う。それは、ヴァーレン家の名を背負ったまま平民の仕事をするということだ。


しかし、迷いは長くは続かなかった。鞄の中の革袋には数ヶ月分の裁量経費しか入っていない。いつまでもリヒテルさんの工房に居候して、朝のパンを置いてもらうだけの日々を続けるわけにはいかなかった。


「帳簿の仕事でしたら、お引き受けできます」


「決まり! じゃあ明日の朝、ここに来て。紹介したい商人がいるから」


エルザさんは手を打ち鳴らして笑った。


翌日、エルザさんが紹介してくれたのは、港区で干物の卸売をしている商人だった。三ヶ月分の売買帳簿の整理と決算。作業場の隅の机を借りて、私は帳簿を開いた。


数字を追い、転記を確認し、合計を照合する。手が覚えている仕事だった。ヴァーレン領の帳簿と比べれば規模は小さいが、仕事の本質は変わらない。数字は正確に記録し、流れを追い、矛盾があれば原因を突き止める。


夕方までに三ヶ月分の帳簿を整理し終え、商人に結果を報告した。商人は帳簿を見て目を丸くし、依頼料を銅貨で支払ってくれた。


手のひらに乗った銅貨の重みを、しばらく見つめた。


ヴァーレン家の帳簿は、伯爵夫人の務めとして処理していた。報酬はなかった。当然だ。家の仕事なのだから。五年間、私が帳簿を管理して領地の経理を回してきたことに対して、誰かが対価を払ったことは一度もない。


今、手の中にある銅貨は、イレーネ・ヴァーレンという名前に対して支払われたものだった。伯爵夫人としてではなく、帳簿を整理した一人の人間として。


銅貨を握り締めた。額は小さい。だが、この手応えは小さくなかった。


その夜、リヒテルさんの工房の作業台を借りて、私は別の書面を書いていた。


別居申告書。


家門裁判所宛の書面で、妻が単独で提出できる。受理されれば、私は領地への帰還義務を免除される。法的には婚姻関係は継続するが、同居の義務は消える。


この制度のことは、嫁ぐ前から知っていた。母が亡くなった後、父の書斎にあった法律書を読んで覚えた。まさか自分が使う日が来るとは思わなかったが。


書面の文言を一字ずつ確認しながら書き進めた。宛先、申告者名、婚姻相手の名、別居の意思表明、申告日。


「イレーネ・ヴァーレン」と自分の名を書いた時、筆が止まった。


この名前は、嫁いだ時にもらったものだ。法律上、別居中の妻は嫁ぎ先の家名を名乗る義務がある。旧姓のクレールには戻れない。ヴァーレンの名を背負ったまま、ヴァーレンの家を出る。奇妙な矛盾だった。


でも、矛盾でも構わない。この書面を出せば、あの屋敷に戻る義務はなくなる。


筆を動かし、最後の一行を書き終えた。


階段の下で、リヒテルさんが作業台に向かっている気配がした。地図を描いているのだろう。私が書面を書いている間、一度もこちらに声をかけてこなかった。何を書いているのか聞きもしなかった。


あの人はいつもそうだ。名前も事情も聞かない。部屋を貸し、朝にパンを置き、それ以上のことはしない。


それが不器用な気遣いなのか、単に無関心なのか、まだ分からなかった。ただ、聞かれないことが、今は少しだけ楽だった。


書面を折り畳み、封をした。明日、商人の定期便に託してファルムの郵便局から家門裁判所へ送る。ファルムから家門裁判所への郵送は、商人便で十日ほどかかるだろう。受理通知が双方に届くまでに、さらに時間がかかる。


あの人——夫がこの書面を受け取った時、どんな顔をするだろうか。


驚くだろうか。怒るだろうか。それとも、あの曖昧な微笑みを浮かべて、何事もなかったように受け流すだろうか。


どれでも、もう構わなかった。


封をした書面を机の上に置き、窓の外を見た。港の灯りが水面に揺れている。


今日、私は自分の名前で仕事をして、銅貨をもらった。そして今、自分の名前で別居申告の書面を書いた。どちらも、誰かの妻としてではなく、イレーネ・ヴァーレンという人間として。


リヒテルさんの帳簿が、ふと気になった。あの人の作業台の端に、無造作に積まれた紙の束がある。地図の仕事に帳簿はつきものだ。測量の費用、紙やインクの仕入れ、顧客への請求。あの乱雑な積み方を見る限り、帳簿が得意とは思えなかった。


余計なお世話だ、と自分に言い聞かせた。


頼まれてもいないのに人の帳簿を整理しようとするのは、また「誰かの役に立つことで居場所を確保する」いつもの癖だ。ここにいていいかどうかは、帳簿を整理するかどうかとは関係ない。


それでも、視線はあの紙の束に向かっていた。


階段を降りて、部屋に戻った。寝台に腰を下ろし、鞄の中の銅貨にもう一度触れた。冷たく、小さく、確かだった。

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