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夫に嘘をつかれ続けた伯爵夫人が家を出たら、そこには、三年前から埃ひとつない部屋を用意して待っている男がいました  作者: 月雅


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第2話「泥の方角」

潮の匂いがした。生まれて初めての匂いだった。


五日間、穀物袋の隙間で揺られ続けた体が、まだ馬車の振動を覚えている。宿場で二度眠り、三度目の朝に商人たちと同じ干し肉を噛み、四度目の夕暮れに遠くの水平線を見た。五日目の昼過ぎ、荷馬車がファルムの市門をくぐった時、最初に感じたのが潮の匂いだった。


ヴァーレン領は内陸だ。海の匂いを嗅いだことがなかった。


市門を抜けると、石畳の広場に出た。商人たちが荷を降ろし、馬の世話を始める。私は御者に礼を言って馬車を降り、鞄を提げて立ち尽くした。


マリーの故郷の港町。あの子が侍女になる前に暮らしていた町。日記帳の三文字を頼りに、ここまで来た。


だが、ここから先の宛はない。


マリーが残したのは「逃げて」だけだった。どこへ、誰のところへ、という指示はなかった。港町ファルムという名前は、マリーが侍女時代にぽつぽつと語ってくれた故郷の話から覚えていただけだ。


鞄の取っ手を握り直した。広場の喧騒の中で、何をすればいいのか分からなかった。


マリーの名前を覚えている人間がいるかもしれない。


それだけを頼りに、港区の職人街を歩いた。商人に尋ね、魚売りの女に尋ね、三軒目の船具屋で「マリー? ああ、リヒテルんとこの幼馴染の」という言葉をもらった。


「リヒテル?」


「地図描きのノアだよ。港の突き当たりの工房。マリーとは子供の頃からの知り合いだったはずだ」


礼を言って、教えられた方角へ歩いた。


港の突き当たりに、木造の二階建ての建物があった。扉の横に「リヒテル地図製作所」と書かれた小さな看板が掛かっている。扉は半開きで、中からインクと紙の匂いがした。


私は扉の前で立ち止まった。


地図描き。マリーの幼馴染。それだけの情報で、この扉を叩いていいのだろうか。伯爵夫人が——いや、屋敷を逃げ出した女が、見ず知らずの男の仕事場を訪ねて、何と言えばいい。


迷っている間に、中から人が出てきた。


背の高い男だった。日に焼けた肌に、インクの染みがついた作業着。手に測量用の長い棒を持っている。私の姿を見て、一瞬足を止めた。


沈黙が落ちた。


男は私の顔を見て、それから鞄を見た。旅装のまま立っている私を、数秒の間、黙って見つめていた。


「……マリーの、知り合いか」


低い声だった。問いかけではなく、確認するような響き。


私は頷いた。「はい。マリーに——あの子に、ここに来るよう言われたわけではないのですが」


言葉が途中で止まった。何をどこまで話せばいいのか分からなかった。


男は測量棒を壁に立てかけ、少しの間こちらを見ていた。それからぼそりと言った。


「……中に入れ。話は後でいい」


名前も聞かず、事情も聞かず、ただそれだけ言って、男は建物の中に戻っていった。


工房の中は、地図だらけだった。


壁一面に大小の地図が貼られ、作業台の上には製図途中の紙が広げられ、棚にはインク瓶と定規と筆が整然と並んでいる。部屋の隅には測量道具が立てかけてあり、乾きかけの地図が窓辺に吊るされていた。


男は——リヒテルさんは、狭い階段を顎で示した。


「二階に部屋がある。空いてるから、使え」


「あの、私はただ——」


「荷物、重いだろう」


それだけ言って、リヒテルさんは作業台に向き直った。私の方を見なかった。


階段を上がると、小さな部屋があった。木の寝台と、簡素な机と椅子。窓からは港が見える。部屋は埃っぽくはなかった。掃除がされている。まるで誰かが来ることを知っていたかのように、寝台の上には畳まれた毛布が置いてあった。


空いていた、と言った。空いていただけなのだろうか。


鞄を床に置き、窓を開けた。潮風が入ってきた。ヴァーレンの屋敷では感じたことのない空気だった。


ここにいていいのだろうか。


名前も、事情も、まだ何も話していない。なのにこの人は部屋を差し出した。マリーの知り合いだというだけで。


いや——マリーの知り合いだから、か。


あの子の名前には、この町でまだ力があるのかもしれない。


窓の外で、カモメが鳴いていた。


私は寝台の縁に腰を下ろした。五日分の疲れが、座った途端に膝から崩れるように押し寄せてきた。


鞄の中から日記帳を取り出した。最後のページを開く。「逃げて」の三文字。


マリー。あなたはここで育ったのね。


この潮風の中で笑っていたあの子が、内陸の屋敷で黙って私の着替えを手伝い、黙って私の嘘に付き合い、黙って——最後に三文字だけ残してくれた。


あの子が解雇されたのは、きっと偶然ではなかった。マリーは知りすぎていたのだ。夫のことを。東の街道のことを。あの子の目に何かが見えていたから、誰かにとって目障りだったのだ。


私はあの時、声を上げなかった。


帳簿を守り、屋敷を守り、「気づいていない妻」を守った。あの子を守らなかった。


実家にも連絡していない。父に迷惑をかけたくなかった。嫁いだ娘は嫁ぎ先の人間だ——父はいつもそう言っていた。あの人に助けを求めれば、クレール子爵家がヴァーレン家と揉めることになる。母がいれば違ったかもしれないが、母はもういない。


だから一人で来た。誰にも言わず、一人で。


日記帳を閉じて、鞄の底に戻した。


翌朝、階段を降りると、工房にはリヒテルさんの姿がなかった。


作業台の上に、パンと水差しが置いてあった。パンはまだ温かかった。


工房の裏口から外に出ると、隣の建物の前に老人が座っていた。白髪で、日に焼けた顔。手元で何か木片を削っている。


「おはよう」


老人がこちらを見た。削り作業の手は止めなかった。


「ノアの客は珍しいな」


ノア。リヒテルさんの名前だろうか。


「あの、私は——」


「聞いとらんよ。事情はあんたのもんだ」


老人はそう言って、木片に目を戻した。「わしはトビアス。隣で船を直しとる。まあ、半分は引退だがな」


「イレーネと申します。トビアスさん」


私は頭を下げた。トビアスさんは削り屑を払い、ちらりとこちらを見た。


「ノアはもう測量に出とる。朝が早いんだ、あいつは。昼には戻る」


それだけ言って、トビアスさんは黙った。それ以上何も聞かなかった。


工房に戻って、リヒテルさんが置いてくれたパンをちぎった。


五年間、毎朝使用人が用意した朝食を食べていた。銀の食器に盛られた焼きたてのパンと、季節の果物と、温かい茶。私はそれを「当然のこと」として受け取っていた。当然だと思えたのは、自分がこの屋敷に必要な人間だと信じていたからだ。


今、木の作業台の上で、名前も知らない男が置いていったパンを食べている。ここでは誰も私を必要としていない。帳簿を任せたい人間も、使用人の配置を相談したい人間もいない。


それなのに、パンが置いてあった。


必要だからではなく、ただ、ここにいるから。


その事実が、喉の奥でつかえた。パンの味は分からなかった。代わりに、潮風の匂いだけが鼻を通り抜けていった。

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