第10話「朝の看板」
三年前、手紙に書いた風景があった。
丘の上から見下ろした穀倉地帯。川沿いの石橋。冬の夕暮れの空。あの風景を、私は窓辺に立って眺めながら、マリーへの手紙の追伸に書いた。誰かに届くとは思わず、ただ窓の外を言葉にしただけだった。
それを読んだ人がいた。読んで、その場所まで歩いて行って、地図の余白に描いた人がいた。
工房の夕暮れの中で、リヒテルさんは「隠していて、すまなかった」と言った。あの一言から一日が経っていた。
朝、宿の部屋で目を覚ました。
窓を開けると、港の空気が入ってきた。潮の匂い。この町に来た最初の日に嗅いだ匂いと同じはずなのに、今朝は少し違って感じた。
机の上に、帰還勧告の封書がまだ置いてある。封蝋のヴァーレン家の紋章。その横に、リヒテルさんがくれた茶葉の紙包み。
二つの物を見比べた。
封書を引き出しにしまった。紙包みはそのまま机の上に残した。
身支度を整えて、宿を出た。
工房に向かった。迷わなかった。昨日の夕暮れに壁の地図の前で立ちすくんでいた時とは、足取りが違っていた。
工房の扉は半開きだった。中に入ると、リヒテルさんが作業台の前に座っていた。地図を描いてはいなかった。筆を持ったまま、手が止まっていた。
私の足音に顔を上げた。
「リヒテルさん」
「……ああ」
リヒテルさんは筆を置いた。こちらを見て、それから視線を逸らし、また戻した。落ち着かない様子だった。
「昨日は、急に帰ってしまってすみません」
「……いや。俺のほうが、話すべきことを話していなかった」
リヒテルさんは作業台の端を指で叩いた。何かを言おうとしている。言葉を探している。
私は作業台の向かいに立った。
「リヒテルさん。一つだけ聞いてもいいですか」
「……ああ」
「あの地図の風景を描きに行ったのは、マリーに頼まれたからですか」
リヒテルさんは首を横に振った。
「マリーに頼まれたのは、部屋を用意しておくことだけだ。手紙を読んだのも、マリーが見せてくれたからだが、風景を見に行ったのは——」
言葉が途切れた。リヒテルさんは作業台に目を落とした。
「……俺が、行きたかったから行った」
静かな声だった。
「あんたが手紙に書いた風景を、俺の目で見てみたかった。それだけだ。マリーには何も言っていない。勝手に行った」
その言葉が、胸の中に落ちた。重く、温かく。
「リヒテルさん」
「……なんだ」
「私は、ここにいたいです」
リヒテルさんの手が止まった。顔を上げた。
「この町に。この工房の近くに。帳簿の仕事を続けて、自分の名前で生きていきたい。それは変わりません」
リヒテルさんは黙って聞いていた。
「でも、それだけではなくて」
言葉を選んだ。選ばなければならなかった。三年条項の制約はまだ生きている。別居が成立してからまだ数ヶ月しか経っていない。法的に自由になるまで、二年以上ある。
「あなたの近くに、いたいです」
リヒテルさんは目を見開いた。それから、視線を逸らした。作業台の上の筆に手を伸ばし、掴み、また置いた。
「……俺は、平民だ」
「知っています」
「あんたは伯爵夫人だ。別居中でも、婚姻関係は続いてる。俺が近くにいることは——」
「危険だということも、知っています。不貞認定されれば、三年条項は使えなくなる」
リヒテルさんの拳が、作業台の上で握られた。
「だったら——」
「だから、今は、これ以上のことは言いません。言えません。ただ、あなたの近くにいたいということだけ」
沈黙が落ちた。
リヒテルさんは拳をゆっくりと開いた。指が作業台の木目をなぞった。しばらくして、口を開いた。
「……俺も、あんたに——」
そこで言葉を切った。呑み込んだ。この人は、言葉の代わりに地図を描く人だ。感情を口にすることが、どれほど難しいか。その沈黙に、答えがあった。
「イレーネさん」
「はい」
「……茶、淹れる。座れ」
リヒテルさんは立ち上がり、台所に向かった。背中が少し震えていた。
昼前、商人ギルドに寄った。
エルザさんが窓口の奥から顔を出した。
「イレーネちゃん。今日は顔色がいいじゃない」
「エルザさん、お願いがあるんです」
「何?」
「帳簿代行業の看板を作りたいんです。宿の近くの通りに掛けられるような、小さなもので構いません。どこに頼めばいいか教えていただけますか」
エルザさんは目を丸くした。
「看板? あんた、本格的にやるの?」
「はい。自分の名前で」
エルザさんはにやりと笑った。
「港区の木工屋に知り合いがいるわ。安くやってくれるはず。名前はどうするの?」
「イレーネ・ヴァーレン。帳簿代行。それだけで」
「ヴァーレンの名前、使うんだ」
「法律上、別居中の妻は嫁ぎ先の家名を名乗る義務があります。でも、今は義務だから使うのではなくて、この名前で仕事をしてきた実績があるから使います」
エルザさんは窓口に肘をつき、私を見た。
「あんた、変わったね」
「変わりましたか」
「最初に来た時は、帳簿の腕は確かだったけど、どこか申し訳なさそうだったのよ。自分がここにいることを許してもらおうとしてるみたいな顔してた。今は違う」
何も言えなかった。見抜かれていたのだろう。誰かの役に立つことで居場所を確保しようとしていた自分を。
「エルザさん」
「何?」
「帳簿の仕事がなくなっても、私はこの町にいます」
エルザさんは少し驚いた顔をして、それから笑った。
「当たり前でしょ。あんたはもう、うちの町の人間だよ」
夕方、木工屋から看板を受け取った。
小さな木の板に、黒い塗料で文字が書かれている。「イレーネ・ヴァーレン 帳簿代行」。それだけの看板だった。
宿の近くの通りに面した壁に、釘で掛けた。
看板を見上げた。自分の名前がそこにある。伯爵夫人としてではなく、誰かの妻としてではなく、帳簿を扱う一人の人間として。
ヴァーレンの名前は、まだ背負っている。三年条項の制約はまだ残っている。法的に自由になるまで、長い時間がかかる。マリーとの再会も、まだ先のことだ。
それでも、この看板は私のものだ。
工房のほうから、足音が聞こえた。
振り返ると、リヒテルさんが立っていた。手に何も持っていない。用事があって来たのではないのだろう。
看板を見上げた。それから、私を見た。
「……いい看板だ」
「ありがとうございます、リヒテルさん」
そう言った時、リヒテルさんの口が動いた。
「イレーネ」
敬称がなかった。
「イレーネ」と、この人は言った。「さん」をつけずに。
心臓が跳ねた。
「……ノア」
私の口から出た声は、自分でも驚くほど自然だった。リヒテルさん、ではなく。ノア。この人の名前。
ノアは少し目を見開いた。それから、視線を逸らした。耳が赤くなっていた。
通りの向こうから、聞き覚えのある声が飛んできた。
「やっと呼べたじゃない!」
エルザさんだった。商人ギルドに戻る途中だったのだろう。通りの角から顔を出して、大きく手を振っていた。
ノアは顔をしかめた。「……うるさい」
エルザさんは笑いながら角を曲がっていった。
通りに静けさが戻った。
看板が夕日を受けて、小さく光っていた。
ノアは看板の前に立ったまま、何も言わなかった。私も何も言わなかった。言葉はいらなかった。
ヴァーレン領の穀物流通の信用が失墜し始めていることを、私は帳簿の数字で知っている。夫の帰還勧告を拒絶したことで、次に何が起きるかも想像がつく。三年条項の成立まで、まだ二年以上ある。マリーがどこにいるのかも、まだ分からない。
でも、今朝、私は自分に「おはよう」と言った。誰かの妻としてではなく、イレーネ・ヴァーレンという名前の人間として。
隣には、ノアの淹れた茶の温かさが残っている。
通りに掛かった看板には、私の名前がある。
それで、十分だった。
(完)
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