第1話「三文字の夜」
五年間、気づかないふりをしていた。
夫の靴についた泥が、いつも同じ方角を向いていることに。月に一度、決まって東の街道沿いの土を踏んで帰ってくることに。東には何もない。少なくとも、伯爵家の公務としては。
気づいたのは結婚二年目の冬だった。
玄関の敷石に残った靴跡を見て、それから五年、私はずっと黙っていた。黙って、笑って、帳簿をつけて、領地の経理を回して、使用人の配置を整えて——伯爵夫人として、何一つ足りないところのない妻であり続けた。
そうすれば、この家にいられると思っていた。
書斎の扉を開けたのは、夫が「出張に行ってくるよ」と微笑んで出ていった、その夜だった。
いつもの微笑みだった。目が笑っていないことも、いつも通りだった。
私は特に表情を変えず、「お気をつけて」と返した。五年間で何百回と繰り返した台詞だった。声が震えなくなったのは、三年目の秋くらいからだ。
夫の馬車が門を出て、蹄の音が聞こえなくなるまで窓辺に立っていた。それから書斎に入った。
日記帳は、いつもの場所にあった。
革の表紙が少し色褪せている。五年分の記録が詰まったこの帳面を、私は家計簿より丁寧に扱ってきた。誰にも見せたことはない。夫は書斎には興味がなかった。帳簿も、日記も、この部屋に積まれた書類の山も、一度も手に取ったことがない。
最後のページを開いた。
そこに、三文字だけが書かれていた。
「逃げて」
私の字ではなかった。
しばらくその三文字を見つめた。呼吸が止まっていたことに気づいたのは、指先が震え始めてからだった。
この筆跡を、私は知っている。
右に少し傾いた、丸みのある文字。「れ」の最後の払いが長くなる癖。
マリーの字だ。
三年前にこの屋敷を追い出されたあの子の字だった。
マリーは、私の担当侍女だった。
私がヴァーレン家に嫁いできた年に配属された、私より二つ年下の、よく笑う子だった。朝の着替えを手伝いながらその日の天気の話をして、夜の片付けをしながら港町の故郷の話をした。
あの子は知っていた。夫のことを。東の街道のことを。
使用人は主人の秘密に気づく。気づいて、黙る。それが使用人の務めだ。マリーもそうしていた。ただ——時折、私の顔を見る目に、何か堪えているものがあった。
三年前の冬、マリーは突然解雇された。理由は「勤務態度の不良」とだけ家令から告げられた。私に相談はなかった。朝起きたら、もうマリーはいなかった。
私は抗議しなかった。
伯爵夫人として使用人の人事に口を出す権限はあった。でも、声を上げなかった。声を上げれば、なぜマリーが目障りだったのかを掘り返すことになる。そうすれば、私が五年間かけて積み上げた「気づいていない妻」の仮面が剥がれる。
だから黙った。あの子が屋敷からいなくなっても、私は何も言わなかった。
マリーが最後に担当したのは、書斎の掃除だった。解雇を言い渡されたあの日、最後の仕事として書斎に入っていた。
あの時に、書いたのだ。
私の日記帳を開いて、最後のページに、たった三文字だけ。
言えなかったのだろう。三年間、ずっと言えなかった。言えないまま追い出されて、それでも——日記帳にだけ、残してくれた。
指で三文字をなぞった。
インクはとうに乾いている。三年分の月日が、この三文字の上に降り積もっている。私はずっとこのページを開かなかった。日記は前から順に書くものだ。最後のページに目を通す理由がなかった。
三年間、この三文字はここで待っていた。
日記帳を閉じた。
立ち上がって、書斎の棚から旅行鞄を引き出した。五年前、嫁入りの荷物を詰めてきた鞄だ。それ以来一度も使っていない。
着替えを二組。帳簿用の筆記具一式。それから、裁量経費の積み立てをまとめた小さな革袋。
伯爵夫人には、家政費の中から個人の裁量で使える経費が認められている。私は五年間、この裁量経費の余剰を少しずつ積み立てていた。帳簿には正当に記帳してある。横領ではない。伯爵夫人の権限の範囲内の金だ。
生活費にして、数ヶ月分。
鞄に詰めながら、手が止まった。
このまま耐えれば、明日も同じ朝が来る。帳簿をつけて、使用人に指示を出して、笑顔で「お帰りなさいませ」と言えば、この家にいられる。伯爵夫人でいられる。
それは本当に、いられるということだろうか。
五年間、私はこの屋敷の中で必要とされてきた。帳簿を読めるのは私だけだった。取引先との交渉を仕切れるのも、使用人の配置を最適化できるのも。私がいなければ、この領地の経理は回らない。
だから、ここにいた。
必要とされているから。いなくなったら困る人がいるから。
——それは、私がここにいたい理由ではなかった。
鞄の留め金を閉じた。
商人定期便の運行表は、帳簿管理を通じて頭に入っていた。
ファルム方面への荷馬車は、週に二便か三便。明朝の便は夜明けとともに東門の外から出発する。運賃を払えば便乗できる。身分証明は要らない。
私はその運行表を、領地の穀物流通を管理する過程で何十回と目にしてきた。まさか自分が乗る側になるとは思っていなかった。
夜明け前に屋敷の裏口を出た。
護衛はいない。夫の無関心のおかげで、伯爵夫人の護衛配置はとうに形骸化していた。門番は夜間一人体制で、裏口は巡回の間隔が長い。これも、屋敷の警備体制を管理していた私には分かっていたことだった。
伯爵夫人が夜逃げする。おかしな話だ。
東門の外に、荷馬車が三台並んでいた。商人たちが荷を確認し、御者が馬の具合を見ている。私は一番後ろの馬車の御者に運賃を渡した。
「ファルムまで」
「はいよ。奥に空きがある」
御者は私の身なりを一瞥しただけで、それ以上何も聞かなかった。荷馬車に旅客が便乗するのは日常のことなのだろう。
幌の中に入り、穀物袋の隙間に腰を下ろした。
馬車が動き出した。
車輪が石畳を離れ、土の道に変わった時、振り返りたくなった。五年間暮らした屋敷の灯りが、まだ見えるかもしれない。
振り返らなかった。
日記帳は鞄の底に入れてある。あの三文字が、背中を押していた。
幌の隙間から、空が白み始めているのが見えた。
五年間、屋敷の窓から見る空はいつも同じ大きさだった。
馬車の幌から覗く空は、広かった。ただ、それだけのことだった。夜明けの空が広いということが、胸の奥で小さく、痛かった。




