第16話 いけ! 壁ドン! 顎クイッ!
「帰り道ぐらい、安らぎが欲しいです……」
僕の最寄り駅のホームで、すっかり疲れ切った表情の桜田さんがそう呟いた。まるで持久走大会が終わった後みたいな疲れ方をしてるね。
「ちゃんと帰れそう? どこかで休んでく?」
「あ、いえ、いつものことなので大丈夫です」
桜田さん、こんな疲れそうな毎日を過ごしてるの? ストレスがマッハで溜まりそう。
すると、深呼吸をして落ち着いたらしい桜田さんが、ハッと何かに気づいた様子で口を開いた。
「あ、でしたら砂川君。私達が出会った教会へ行きませんか?」
「うん、案内するよ」
僕達は駅を出て十五分程歩いて、僕と桜田さんが出会い、お付き合いを始めるきっかけとなった教会を訪れていた。
相変わらず心霊スポットのような佇まいの建物だけれど、ステンドグラスのカラフルな光が差し込む聖堂の中に入ると、一気に幻想的な世界へと引き込まれてしまうようだ。
「今日はとってもドキドキしちゃいました」
聖堂の長椅子に並んで座ると、隣の桜田さんが照れくさそうに笑いながら言う。今日は一日中桜田さんといたような気がするけれど、これまで以上に桜田さんを可愛らしく、そして愛おしく感じられるようになったと思う。
「僕もとても堪能させてもらったよ、桜田さんのラブラブ大作戦」
「まだまだ終わりじゃないですよっ。実は、砂川君にしてほしいことがありまして……」
「へ? 僕に?」
すると桜田さんは、少し頬を赤く染めながら、恥ずかしそうに口を開いた。
「あ、あの、あのあの、私、壁ドンというものに憧れてまして……」
早速来ちゃったよ、壁ドン。
そういうシチュエーションがある漫画とかアニメは存在するらしいけれど、それはあくまで二次元世界の話で、現実で誰かがやってるの見た事ある?
いや、あるにはあるね。駅の改札口で若いカップルがやってるのを見たことあるけど、お付き合いを初めて一日目にしてはぶっ飛ばしすぎじゃないですか、桜田さん。
いや、違うよ僕。
ここは覚悟を決めるべきだ。
何故、僕は桜田さんとお付き合いを始めたのか?
桜田さんが高嶺の花のような存在の、可愛らしい女の子だから?
否!
僕は、歌い手りんりんごとして活動する歌姫の夢を叶えるために、失恋という悲しい結末が約束されたお付き合いを始めたのだ。
そんなバッドエンド確定のお付き合いを始めたのは、桜田さんに、りんりんごに、最高の失恋ソングを歌ってもらうためだ。
そして失恋を経験するためには、桜田さんに失恋という経験がどんなものか知ってもらうためには、まず桜田さんに僕のことを好きになってもらう必要がある。
こうして桜田さんが勇気を出してくれているなら、僕ももっと勇気を出して頑張らないといけない。桜田さんの彼氏として、もっとりんりんごのことを応援したい。
やってみせようじゃないか、壁ドンってやつを!
「桜田さん」
「は、はい」
「覚悟は出来てる?」
「は、はいっ!」
僕は桜田さんの小さな手を引っ張って立ち上がらせると、そのまま聖堂の壁際まで連れていく。
そして桜田さんを壁際に追い込み、僕は正面に立った。
僕もそんなに背は高くないけれど、こうして間近に立つと、やっぱり桜田さんは、抱きしめるのに丁度良さそうな華奢な体躯で、お人形さんのように可愛らしい出で立ちで、桜田さんから漂う甘い香りがますます強く感じられて、恥ずかしがっているのか、中々僕に目を合わせてくれない彼女の姿が、ますます愛おしく思えてしまって。
おかげで、僕も心の用意ができる。
「ねぇ、桜田さんはどんなセリフが良い?」
「お、お任せします」
うん、難しい注文だね。
いや、頑張るんだ僕。男になるんだよ!
「桜田さん」
僕はドンッと壁に右手をついて、桜田さんと一気に距離を縮める。僕もそんなに背は高くないからそんなに身長差はないと思っていたけれど、こうして間近で見てみると、なんて華奢で、なんて可愛らしさだろう。とても現実に存在する代物とは思えない、異世界の美術品のようだ。
「ひゃ、ひゃいっ! なんでひゅか!?」
僕に壁ドンされた桜田さんは、僕のことを見上げながらアワアワと口をパクパクさせ、怯えているのか恥ずかしがっているのか、その華奢な体を小刻みに震わせていた。
その姿がなんとも可愛らしくて、僕は左手で桜田さんの顎を掴んで、そして少しくいっと上げた。
「桜田さん、僕のこと好き?」
僕がそう問いかけても、桜田さんは顔をりんごのように紅潮させて、口をパクパクさせて慌てているだけだ。
あぁもう、僕はおかしくなってしまいそうだ──。
カチッ。
うん?
今、何かスイッチが入ったような音がしたけれど。
「……いたい」
「へ?」
桜田さんがようやく何か喋ったと思ったら、小声だったから聞き取れなかった。するとずっとプルプルと震えていた桜田さんは、急に目をカッと開いて──。
「歌いたい!」
あ、まただ。
桜田さんの変なスイッチが入った。
僕は桜田さんが突然叫んだから驚いて壁ドンをやめたけれど、桜田さんはなおも興奮した様子でしゃべり続ける。
「な、なに、この胸のドキドキ……今もまだ全然止まらない……このドキドキが恋ってこと? 思わずチョコのように体が、脳が、心臓がとろけてしまいそうなこの熱さは一体? もう虜になってしまいそうで、もうどうなってもいいと思えてしまうほど、こんなに人は盲目になってしまうの? 怖い……でも、また感じたい、この胸の高鳴りを! この最高のときめきを! ビバ! 青春! ビバ! 初恋! ビバ! 壁ドン! ビバ! 顎クイッ!
止まらない、この胸の高鳴りー!」
桜田歌劇団ソロミュージカル、再び。
また変なスイッチが入っちゃったみたいだけど、桜田さんが満足してくれたようで何よりだ。
「あっ、すみません、私ったらまた……って、砂川君、どうしたんですか!?」
桜田さんが我に返ったとき、僕は桜田さんの目の前で、地面に膝をついてうなだれているところだった。
「いや……僕は柄にもなく何をやってたんだろうと、我に返ってね……」
桜田さんの変なスイッチが入ったと時同じくして、僕は自分の行いによる羞恥心に襲われていたのだった。きっと羞恥心スイッチが入ったに違いない、今後定期的に思い出して、僕は頭を抱えることだろう。
正気を取り戻した桜田さんはうなだれる僕のそばに近寄って、僕の肩を叩きながら言う。
「い、いえっ、とてもかっこよかったですよ、砂川君っ」
「桜田さんに満足してもらえたなら何よりだよ……」
その後、羞恥心に襲われる僕は、桜田さんに慰めてもらうのであった……。
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