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49話 無名の男

 路地裏の暗がりから、一人の男が這い出てきた。


 足取りは重く、肩は落ち、

 まともに前を向いて歩いているのかも分からない。


 髭は伸び放題で、無精髭が顎から頬にかけて広がっている。


 かつて整えられていた髪は、

 今や乱れきり、泥と汗で束になって貼りついていた。


 服はボロボロだった。


 かつて高価だったはずの衣類は、

 今ではすっかり汚れ、裾には破れ目が走っている。


 袖は擦り切れ、肘の部分には穴が空いていた。


 歩くたびに、細くなった腕や足が布の間から見える。

 骨ばった指先は土と垢にまみれ、爪は伸びたままだった。


 目はギョロリと見開かれ、焦点が定まらない。


 目の下には濃い隈が刻まれ、

 頬はこけ、唇は乾ききっていた。


 まるで、何かに追われるような、

 あるいは、何かを探しているような動き。


 だが、その足取りには目的があった。


 男は広場へ向かう。


 この時間、教会では施しの食事が配られる。


 同じように痩せこけた者たちが集まり、

 列をなして並んでいた。


 男はふらつきながら、

 その列の最後尾へと、ゆっくりと歩いていった。


 街の隅、風に舞う新聞の切れ端が、汚れた石畳に散らばっていた。


 その中の一枚が、偶然にも大きく広がる。

 一面を飾るのは、鮮やかな活字の見出し。


 ──『オーリンズ公爵、終戦へと導く。アリラン国のスネージヤ王妃と国交正常化へ。』


 新聞の中央には、

 立派な軍服を纏った オーリンズ公爵 の姿があった。


 凛とした表情を浮かべ、

 その横には、アリラン国の スネージヤ王妃 の姿が並んでいる。


 彼女の長い銀髪が、陽の光を浴びて輝き、

 その視線は、王妃としての誇りと使命を感じさせる。


 ──ついに、和平交渉が締結される。


 長きにわたる戦争を終結に導いた オーリンズ公爵。

 彼の尽力により、

 アリラン国との和平が現実のものとなろうとしていた。


 オーリンズ公爵は、先日、アリラン王国の スネージヤ王妃 との直接会談を行い、

 互いの国交を正常化するための協定を締結した。


 これにより、長年の敵対関係に終止符が打たれ、

 今後は経済交流と文化交流を深める方針が固まった。


 各国の外交官はこれを高く評価し、

 オーリンズ公爵の手腕を称賛している。


 また、貴族社会では、

 彼の外交能力と統治力を正式に認め、

 近い将来、バーナード公爵家の正式な後継者として公爵位を継ぐ見通しである との報道もある。


「彼こそが、新時代のリーダーだ」


 ある貴族は、そう語ったという。


 新聞の片隅には、

 オーリンズ公爵の肖像画とともに、

 アリラン王国で行われた記念式典の写真も掲載されている。


 彼の周囲には、

 和平を喜ぶ人々の姿が映されていた。


 ──それは、まるで”英雄”のようだった。


 だが、その新聞は 無造作に道端に転がっている。


 誰の手にも取られず、

 ただ、乾いた風に煽られながら、

 汚れた街の片隅でひらひらと揺れていた。


 広場には、長蛇の列ができていた。


 教会が施す 食事の配給 に並ぶ人々。


 浮浪者たち、傷ついた兵士、戦争で家を失った者たち……

 皆が、 生きるためにここに集まっていた。


 レグナードは、その列を 何の迷いもなく割り込んだ。


 周囲から小さな不満の声が漏れたが、

 彼の痩せ細り、荒んだ姿に 誰も強くは言えなかった。


「……どうぞ。」


 前に立つ子供が、小さな手でパンを差し出す。


 他の子供たちとともに、神父の教えに従い、

 施しを与えていた。


 レグナードは、そのパンを 乱暴に引ったくる。


「……」


 周りの人々が 手を組み、祈りを捧げる。


 食事を受け取る者は、皆感謝を示し、

 静かに頭を垂れるのが習わしだった。


 だが──


 レグナードは一切の祈りも捧げなかった。


 パンを掴んだまま、

 ただ黙々と口に押し込む。


 空腹を満たすことだけが目的だった。


 咀嚼する音だけが、静かな空間に響く。


「……」


 その様子を、 じっと見つめる子供がいた。


 幼い顔に、困惑したような表情を浮かべ、

 ただじっと、レグナードを見つめていた。


「……なぁ。」


 レグナードは、 ゆっくりと子供を睨みつける。


「見るなぁ……」


 声が低く、唸るように響く。


 だが、子供は ただ黙ってレグナードを見つめ続けた。


 その無垢な視線が、

 彼の何かを抉るような気がして、

 イラついた。


「……殺すぞ。」


 レグナードは 子供を突き飛ばした。


 ドサッ!!


 子供は、地面に倒れる。


 周囲の人々が、一瞬息を呑んだ。


 だが、レグナードは 気にも留めず、ただ黙々とパンを食べ続けた。


 広場には、

 冷たい沈黙が落ちていた。


「大丈夫?」


 澄んだ声が、静かに響いた。


 教会の責任者 カレン が、倒れた子供の手をそっと取る。


 子供は怯えながらも、彼女の手にすがるように立ち上がった。


 カレンは、子供の服の埃を払うと、

 ゆっくりとレグナードへと視線を向けた。


 その瞳には 侮蔑の色が浮かんでいる。


「人は窮地に立たされたときに、“本当の姿” が見えるものです。」


 彼女の声は、厳かで冷たい。


「施しにすがりながら、感謝も示さず、

 祈りすら捧げない。

 それどころか、無垢な子供に手を上げる。」


「……それが、あなたの”本当の姿” なのですね?」


 子供に視線を向け、優しく諭すように言う。


「いいですか? よく見ておきなさい。」


「“この人のようになってはいけません。”」


 周囲の人々が 息を呑む。


 教会の前で、ここまで直接的に “人としての醜さ” を指摘された者は少ない。


 だが、レグナードは 何の感情も浮かべずに、口の端を歪めた。


「フッ……」


 歯の抜けた口元で、 笑った。


「借金だらけの教会がぁ……」


「何を偉そうに言いやがる……ぎへへへ……」


 その笑い声は、 下品で、どこか壊れていた。


 かつてこの教会が 膨大な債務を抱えていたこと を、彼は知っていた。


 だが、カレンは 微動だにしない。


「昔の話ですね。」


 冷たく、短く言い捨てる。


「債務はすべて完了しました。今、私たちは”借りを返す側”です。」


「そしてあなたは……?」


 その言葉には、 確かな軽蔑が込められていた。


 レグナードは 汚れた舌で唇を舐めながら、ただ笑い続けた。


「グフ……ふ……」


 レグナードは、 低く、湿った笑いを漏らした。


 だが、それ以上は何も言わずに 身を翻し、その場を去った。


 足早に広場を抜け、路地へ消えていく。


 侮蔑の視線、冷たい空気、

 何もかもが 鬱陶しくて仕方がなかった。


 ──喉が渇いていた。


 空腹は満たされたが、

 口の中が乾き、 何かを飲み込むたびに焼けるような痛みが走る。


 レグナードは ふらつきながら公園へ向かった。


 ──公園の蛇口。


 石造りの蛇口に両手をつき、

 そのまま口をつけようとした。


「……ッ!?」


 水が出ない。


 蛇口をひねっても、

 期待した冷たい水は出てこなかった。


 ただ、 乾いた音だけが響く。


「おい、兄ちゃん。」


 後ろから、しゃがれた声がした。


 振り返ると、 同じく浮浪者の男がベンチに座っていた。


 歳は50を超えているだろうか。

 白髪混じりの髪をしたその男は、

 ボロボロの服を纏いながら、

 タバコの代わりに小枝をくわえている。


「今日から保水月間なんですわ。」


 浮浪者の男は、しゃがれた声で言った。


 レグナードは、乾いた蛇口を睨みながら 舌打ちする。


「……は?」


「アクエルダのダムが再建築するだろ?」


 男は、痩せた腕で遠くを指しながら、

 歯の隙間から 黄ばんだ笑み を漏らした。


「その兼ね合いなんですわ。」


 蛇口を蹴りつけるレグナード。


「チッ……クソが……」


「おいおい、そうカッカすんなよ。」


 男は へらへらと笑いながら、小枝を噛む。


「獣人も魚人もなぁ……」


「今は 人権が厳しくなっちまって、手を出せねぇ時代になっちまった。」


 レグナードは、眉をひそめた。


「……」


「昔は、もっと楽だったんだぜ?」


「俺らが若かった頃なんてよぉ……」


 男は、 乾いた唇を舌で濡らしながら続ける。


「良かったもんさ。」


「少し溜まれば、その辺の 獣人を襲えば良かった んだからな。」


 レグナードは、静かに足を止めた。


「……」


 じっと男を見下ろす。


 感情は何もない。


 ただ、 心の奥底で何かが冷えた。


 そして、 静かに言葉を吐き出す。


「浅ましい。」


 男は、ニヤリと笑った。


「……どっちが、だよ?」


 レグナードは 何も言わずに、その場を立ち去った。


 ──そうだ、時代が変わった。


 あれほど期待していた世界は、

 何事もなかったかのように、 今も回り続けている。


 変わったのは “俺” ではなく、 世界のほうだった。


 また最初からになってくれたら面白かったのに。


 そういう “希望” すらも、粉々に打ち砕かれたわけだ。


 この世界は、俺が何をしようと 変わらない。


 生き続け、形を変え、

 俺が消えても、何もなかったように動き続ける。


 まるで 俺など最初から存在しなかったかのように。


 ──大通りの片隅。


 レグナードは、 湿ったシケモクを唇に挟みながら、ぼんやりと煙を吐いた。


 灰色の雲が垂れ込めた空を見上げるでもなく、

 ただ流れる街の喧騒を遠くに聞きながら、

 何をするでもなく座り込んでいた。


 ──その時だった。


 目の前に 影が落ちる。


 しゃがみ込んだ誰かが、 こちらを覗き込んでいた。


「……?」


 レグナードは、ゆっくりと視線を上げた。


 そこにいたのは 三毛猫の獣人だった。


 毛並みは綺麗に整えられ、

 身に纏う服も小綺麗なものだった。


 だが、その三毛模様を見た瞬間、

 レグナードの脳裏に、 ある名前が過る。


「……ミィ……?」


 呟いた。


 だが、目の前の獣人は 驚いた様子もなく、ただ静かに微笑んだ。


「私は今、“ミシュカーナ” という名前です。」


 レグナードの 視界が、一瞬揺らぐ。


 ミシュカーナ──


 知らない名前だ。


 なのに、目の前の存在が”知っているもの” に見えた。


「覚えていませんが……」


 ミシュカーナは そっと小さな手を差し出し、レグナードの前に “100バベル硬貨” を置いた。


「幼かった頃に、とてもお世話になった方がいました。」


「その人が……貴方によく似た雰囲気をしていました。」


 レグナードは、しばらく何も言わず、ただその硬貨を見つめていた。


 やがて、 細く、掠れた声で答える。


「……そうかよ。」


 彼女は去った。


 小さな背中が、雑踏の中に紛れていく。


 けれど、レグナードは 動かなかった。


 ただ、そこに置かれた 100バベル硬貨 をじっと見つめる。


 やがて、乾いた唇が、 誰に向けるでもなく動いた。


「……俺はミツイ……」


「……いや、今はレグナードって名前かな。」


 誰も聞いていない。


 誰も気にしていない。


 それでも、彼は 妄言のように自分のことを語り続ける。


「これでもIQが130もある天才なんだ。」


「元の世界では営業マンで……」


「馬鹿共に揉まれながら生きてきた。」


 通行人がチラリと彼を見ては、何も言わずに通り過ぎていく。


「……俺は天才で……」


 けれど、その言葉に 誰も耳を傾けない。


 彼の 独り言は、大通りの喧騒に溶けていく。


 ──まるで “存在しないもの” のように。


 それでも、彼の言葉はずっと流れ続けたんだってさ。

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