48話 居場所のないレグナード
路地裏には、まだ荒い息遣いが残っていた。
オーリンズとレグナードは、互いに 鋭い視線で睨み合う。
抑え込まれたままのレグナードは、 奥歯をギリギリと噛み締めていた。
「クソ……が……!」
ゲナウがレグナードの腕をがっちりと掴んでいたが、次の瞬間──
バッ!!
レグナードは、力任せにゲナウの腕を振り払った。
「おいっ!?」
ゲナウが驚く間もなく、レグナードは一気に駆け出す。
「待て!!」
オーリンズが 反射的に追いかけようとする。
しかし──
「もうやめてやれ。」
ハルの腕が、オーリンズの肩を掴む。
「……!」
オーリンズが振り返ると、ハルは 苦笑しながら首を振っていた。
「いじめは良くないぞ。」
オーリンズは しばらく無言でハルを見つめたが……
やがて、深く息を吐く。
「……はぁ……まぁ、そうだけどな。」
レグナードの姿は、もう夜の闇の中に消えていた。
──夜の大通り。
石畳を踏みしめるレグナードの 荒い息遣いが、静かな通りに響いた。
ハァ……ハァ……ハァ……!
胸が焼けつくように痛い。
足は重く、まともに前を見て走れていない。
いや、それどころか──
もう、どこへ向かっているのかすら分からない。
ただ、逃げるしかなかった。
俺は……まだ終わってねぇ……!
頭の中で、何度も何度も繰り返す。
オーリンズの言葉が、喉の奥で鈍い痛みとなって張り付いている。
それを振り払うように、ただ走る。
……だが──
「ッ……!」
足がもつれた。
視界が大きく揺れる。
次の瞬間、レグナードの体が地面に叩きつけられた。
ドサッ!!
頬が冷たい石畳にぶつかる。
痛い……だが、それ以上に、胸が苦しい。
(……くそが……!!)
レグナードは歯を食いしばり、すぐに立ち上がろうとした。
しかし、その拍子に リュックサックが大きく開いた。
バサァッ……!
札束が、石畳の上に無造作に散らばる。
レグナードが持っていた”すべて”。
金。
それだけが、最後の頼みの綱だった。
それなのに──
今、その札束は 無価値な紙くずのように、冷たい石の上に転がっていた。
「……」
手を伸ばせば、拾えた。
たった今、ここにある金を集めれば、まだ立て直せるかもしれない。
だが、レグナードは その場にへたり込んだまま、微動だにしなかった。
札束を見つめる瞳は、まるで光を失っているようだった。
(何の意味がある……?)
(こんなものを拾って……俺は、何をするつもりだったんだ?)
(何を守ろうとしていた……?)
指先が、小さく震える。
だが、レグナードは 手を伸ばさなかった。
バタバタバタ──ッ……!
どこかの通行人が、足音を立てながらこちらを見ていた。
「あの男……金をばら撒いてるぞ?」
「なんだ? 盗賊か?」
ざわざわとした視線を感じたが、レグナードは 何も聞こえていないかのように、立ち上がる。
金に目もくれず──
ただ、夜の闇へと走り去る。
札束はその場に散らばったまま。
レグナードの”最後の支え”だったはずのものが、
今はただ、無機質に石畳の上に転がっていた。
そしてポツ……ポツ……
冷たいものが、頬を打った。
ポツ……ポツポツ……
雨だった。
夜空に広がる黒い雲の隙間から、わずかな月光が滲む。
その光を濁すように、雨粒がゆっくりと降り始めた。
レグナードは、息を切らしながら立ち尽くしていた。
体は重く、足は棒のように動かない。
傷ついた手のひらは、泥と血にまみれ、まともに握る力すら残っていなかった。
そして──
何よりも、胸が苦しかった。
「……ッ」
ついに、膝が折れる。
バシャッ、と濡れた地面に膝をついた。
雨が冷たい。
レグナードは、ゆっくりと両手を天へ伸ばした。
手のひらに、無情に雨粒が落ちる。
「……神様……」
掠れた声が、闇夜に溶ける。
「助けてください……」
細い声。
「僕を……元いた世界に……戻してください……!」
誰に向けているのかも分からない。
ただ、雨に打たれながら、レグナードは空へと叫んだ。
「今までのことは謝ります!!」
「僕が……間違っていました……!!」
「だから……だから……お願いですから……!!」
「もう僕を……!!」
「これ以上、苦しめないでください……!!」
雨音が、すべてをかき消していく。
レグナードの叫びは、誰にも届かない。
この世界は、彼の懺悔を聞く耳を持たなかった。
ただ、降りしきる雨だけが、彼の震える肩を静かに濡らし続けた。
──まるで、すべてを洗い流すかのように。
──雨が降る。
静かに、ゆっくりと、冷たく。
夜空を裂くこともなく、ただひっそりと、降り続ける。
濡れた石畳に膝をつき、
空へ伸ばした手は、虚空を掴むことすらできずに、
ただ雨粒を受け止めるだけだった。
「助けてください……」
誰に向けた祈りなのかも分からない。
神か。
運命か。
それとも、“まだ何かある” と信じていた自分自身か。
答えはない。
「もう僕を……これ以上、苦しめないでください……」
声は、雨に溶けた。
世界は、ただ黙っていた。
慰めも、救いも、許しもない。
ただ降る雨が、彼の頬を濡らし、
冷たい地面が、彼の体温を奪っていく。
すべてが遠ざかるような気がした。
過去も、誇りも、憎しみも、願いも。
レグナードの瞳に映る世界は、
もう、どこにも帰る場所のないものになっていた。
そして雨は、
まるでそんな彼を嘲笑うように、
あるいは、ひっそりと弔うように──
ただ静かに降り続けた。