43話 最後の駒
ピキッ──
わずかに揺らいだラゼルの瞳が、次の瞬間、鋭く光を帯びた。
「……テメェ。」
低く、怒りを滲ませた声が酒場に落ちる。
俺はグラスを軽く回しながら、口元に愉快そうな笑みを浮かべる。
「おっと、そんなにカッカしないでよ。せっかくの酒がまずくなる。」
ラゼルの拳が、一瞬で俺の視界に飛び込んできた。
ドゴォッ!!
腹に突き刺さるような衝撃。
呼吸が止まり、内臓が一瞬で圧縮される感覚が広がる。
「っ……は……!!」
俺の体が椅子ごと吹っ飛んだ。
鈍い音を立てて床に叩きつけられる。
酒場の客たちがざわめき、遠巻きにこちらを見つめている。
「クク……ッ……」
俺は腹を押さえながら、倒れたまま笑った。
「はは……やっぱり……そうこなくっちゃ……」
立ち上がる前に、ラゼルが躊躇なく踏み込んでくる。
ゴッ!!
頬を蹴り上げられ、視界が跳ねる。
口内に広がる鉄の味。
「──お前みたいなクズが……!!」
拳が振り下ろされる。
防御する暇もなく、まともに顔面に叩き込まれた。
「クッ、ふ……はは……いいねぇ……」
口元から血を垂らしながら、俺はそれでもニタニタと笑う。
「もっとやれよ、ラゼル。怒ってるんだろ? 俺みたいな”惨めでみっともない”男が、知った風な口を利いたことがさ。」
「黙れ!!」
ガツンッ!!
拳が何度も何度も降ってくる。
鼻が折れた感覚。
視界が赤く染まる。
「お前は何もわかっちゃいないくせに……!!」
「“何もわかっちゃいない”?……へぇ、そりゃまた随分な言い草だなぁ……」
俺は血を吐きながら、それでもニヤついていた。
「じゃあ、俺に教えてくれるのか? 俺が”何を知らない”のかをさぁ……!」
バキィッ!!
殴られるたびに、意識がぐらつく。
だが、それが心地良いとすら思える。
「痛い痛い……いやぁ、さすが”傭兵様”だな……暴力の質が違うよ……!!」
ラゼルは俺の胸倉を掴み上げ、鋭く睨みつける。
「……何がおかしい?」
「全部さ……!」
俺は血塗れの顔で、狂ったように笑った。
「結局、俺の言ったこと、全部”図星”だったろ?」
拳を振り上げるラゼル。
「この世界は変わらないんだよ、ラゼル……お前が何をしようが、何を守ろうが……!」
「黙れッ!!」
バシュッ!!
強烈な拳が俺の顎を砕き、視界が一瞬白くなる。
そのまま地面に叩きつけられた。
遠くで、誰かが叫ぶ声がする。
ミィミが何かを言っている。
だが、俺の意識はもう、霞んでいた。
このまま、消えてしまうのも悪くない。
そんなことを考えながら、俺は血だまりの中で、最後にもう一度だけ笑った。
最後にみた景色はミィミが、ラゼルに飛びかかった姿だった、ただそれも本当に見た現実かは定かじゃない。
ミィミの息遣いは荒く、喉の奥から掠れた音が漏れている。
寒空の下、汗まみれの体から湯気が立ち上るほど、彼女は必死に走っていた。
「はぁっ、はぁっ……ご主人様……!」
小さな獣人の少女が引く馬車は、木製の車輪が泥道を跳ねるたびに、軋んだ音を立てる。
その荷台には、血まみれの男が横たわっていた。
レグナード。
彼はボロボロだった。
左目は腫れ上がり、瞼がまともに開かない。
鼻からは血が滴り、口元は切れ、唇は血に濡れている。
あちこちに青紫の痣が浮かび、頬骨の一部はひび割れたように腫れていた。
胸元の服は引き裂かれ、露出した肌には無数の殴打の跡。
息をするたびに、肺の奥で何かが泡立つような鈍い音がする。
「……く……」
レグナードは朦朧とした意識の中で、自分がどこにいるのかすら分からなかった。
全身が痛み、寒さと熱が交互に襲ってくる。
まともに指すら動かせない。
──ああ、俺は……また生き延びてしまったのか。
ミィミの必死の奔走のせいだ。
俺が何もかも諦めようとしていた時、こいつは俺を運び続けていた。
「誰か……誰か、ご主人様を助けて……!」
ミィミは、声を振り絞った。
だが、馬車が通る道端の家々の窓は固く閉じられ、行き交う人々は見て見ぬふりをする。
誰も立ち止まらない。
「お願い……!」
誰も助けない。
誰も、見向きもしない。
ただ、冷たい風だけが吹き抜け、ミィミの声をかき消していく。
「……っ……!」
ミィミは奥歯を噛み締め、無理やり涙を飲み込んだ。
一歩でも進まなければ、彼は死ぬかもしれない。
それだけは……絶対に嫌だった。
土手の草むらに馬車を停め、ミィミは震える手で雑巾を水桶に浸した。
川辺の冷たい水が指先を刺すが、そんなことは気にしていられない。
「ご主人様……」
そっと、雑巾を絞り、血まみれの顔を拭う。
乾いた血がこびりつき、擦るたびに肌が赤くなる。
彼は微かに呻いたが、まだ意識ははっきりしない。
「……もう……大丈夫ですから……」
震えながら囁き、また雑巾を絞る。
冷水を染み込ませ、もう一度、ゆっくりと顔を拭く。
その冷たさが、ようやくレグナードの意識を少し引き戻した。
「……う……」
瞼が、わずかに動いた。
「ご主人様……!」
ミィミが身を乗り出して、必死に顔を覗き込む。
レグナードの呼吸が、ほんの少しだけ、はっきりとしたものに変わる。
ようやく、彼は薄れゆく闇の中から、少しだけ戻ってきた。
「……よかった……」
ミィミはほっとしたように微笑んだ。
瞼をかすかに開けたレグナードの姿を見て、まるで世界の終わりから救われたかのような表情を浮かべる。
だが、それが気に食わなかった。
俺は、ただ無様に生き延びただけだ。
もう終わらせたかったのに、こいつが俺を引きずってきた。
助けなんて、誰も求めていないのに。
「……なんで助けた、クソバカが……!」
怒りが込み上げ、衝動のままにミィミを突き飛ばした。
「きゃっ……!」
ミィミの小さな体が土手に転がる。
それでも、彼女は俺を心配そうに見つめていた。
その表情が、苛立ちをさらに煽った。
「お前、いっつもそうだよな!」
俺は叫ぶように吐き捨てた。
「お節介なんだよ! 俺が死にたがってんのに、勝手に助けて、勝手に必死になって……いい加減にしろよ!!」
ミィミは小さく肩を震わせる。
だが、それでも俺を見つめていた。
「トロくせぇし、力もないくせに、なんでも抱え込んで……!」
「……ご主人様……」
「そうやってお前はいつもいつも……! いい加減……」
俺は言葉を詰まらせた。
「……くたばってしまえよ。消え失せろ……!!」
自分でも驚くほどの大声だった。
全身の痛みすら忘れるほど、俺は怒りをぶつけていた。
ミィミの目に、涙が浮かんだ。
ゆっくりと立ち上がると、俺をじっと見つめる。
「……ごめんなさい……」
掠れた声。
そして、彼女は小さく背を向けた。
その時、俺はハッと息を飲んだ。
「お前……背中が……!」
ミィミの服は、背中の部分が大きく裂けていた。
その奥には、生々しく剣で斬られた深い切創が刻まれていた。
「……ミィミ、お前……」
言葉が詰まる。
どれだけの痛みに耐えながら、俺を運んできたのか。
どれだけの血を流しながら、それでも俺を助けようとしたのか。
さっきまでの怒りが、一気に引いていく。
「なんで……」
ミィミは、振り返らずに、ただ静かに立っていた。
ミィミは、震えるように口を開いた。
「……私にはもう、ご主人様しかいないんです……」
その声は、消え入りそうなほど小さかった。
だが、確かにそこにあった。
俺は、唾を飲み込む。
「……ラゼルに……斬られたのか?」
ミィミは、ゆっくりと頷いた。
それだけで、俺の中の何かが軋む音を立てる。
ラゼルが……? ミィミを……?
だが、次の瞬間、ミィミの様子が妙に不自然なことに気づいた。
彼女は頷いたはずなのに、どこか……曖昧だった。
「……ミィミ?」
彼女の耳がピクリと揺れる。
「……ご主人様……?」
俺を見つめる瞳は、揺らいでいる。
まるで、霧がかかったように。
「お前、ラゼルのこと……分かってるのか?」
「……ご主人様が、そう言うから……」
違和感が背筋を走る。
「お前、自分を斬った相手のことも分かってねぇのか?」
ミィミは、かすかに首を傾げた。
「……知らない……でも、たぶん……ご主人様がそう言うなら……」
言葉の端々が、妙にぼやけている。
思い出そうとするたびに、何かが霧散していくような。
「……ミィミ、お前……」
俺は、自分の血に濡れた手で、彼女の肩を掴む。
「お前……ラゼルを覚えてねぇのか?」
ミィミは、ぽつりと呟いた。
「……ごめんなさい、ご主人様……」
申し訳なさそうな声。
それは、俺が知っているミィミの声だった。
だが、それでも……何かが違った。
「……お前、今、自分の名前は?」
ミィミは、数秒の間、ただ瞬きを繰り返す。
まるで、初めて聞く言葉のように。
「……ミ……ィ……?」
舌が、うまく動かないような、そんな発音。
ぞわり、とした感覚が首筋を這い上がる。
「……お前、まさか……」
俺は、ぎゅっと拳を握りしめる。
ミィミは、俺がつけた名前だ。
それすらも……曖昧になり始めている。
「……ッ……」
何かが、一周している。
何かが、狂っている。
俺はミィミの肩をつかんだまま、ぐっと歯を食いしばった。
この世界は、確実に……俺たちを壊しにかかっている。
「ミィミ!!」
俺は叫びながら、目の前の少女の肩を掴んで揺さぶった。
「お前はミィミだ!! 俺がつけた名前なんだ!! 忘れるな!!」
ミィミは驚いたように目を見開いたまま、俺をじっと見つめていた。
だが、その瞳の奥はどこかぼんやりとしている。
違う。これはおかしい。
「頼むから……お前も一周しないでくれ……!」
俺の声は震えていた。
「お願いだ……っ!!」
声を張り上げるほどに、俺自身の呼吸が乱れる。
胸が苦しい。頭が熱い。
こんな恐怖は初めてだった。
ミィミは、俺のすべてだった。
いや、それしかなかったんだ。
それなのに──
「……ご主人様?」
ミィミのか細い声が耳に届く。
「わかってますよ、ご主人様……」
違う、違う違う!!
俺はミィミの肩をさらに強く握りしめた。
「わかってない!!」
「……ご主人様、痛い……」
「俺を”ご主人様”じゃなくて、名前で呼べよ!! 俺の名前は……なんだ!? 言ってみろ!!」
ミィミの瞳が揺れる。
「……え……?」
「レグナードだ!! 俺はレグナードなんだよ!! 何度も呼んできたはずだろ!!」
ミィミは困惑したように口を開きかけたが、次の瞬間、言葉を失った。
俺の心臓が嫌な音を立てる。
そんな顔をするな。そんな目で見るな。
まるで、“レグナード”という名前を初めて聞くかのような、そんな表情をするな。
「……お前、ふざけるなよ……」
ミィミの肩を揺さぶる。
「今まで楽しかっただろ!? 俺がどれだけお前を大事にしてきたか……覚えてるだろ!?」
ミィミは小さく頷いた。
「うん……」
「だったら、忘れるなよ!! 忘れるなんて、そんなこと……ありえねぇだろ……っ!!」
ミィミは目を伏せる。
俺の腕が震えた。
「お前、何度も何度も俺の名前を呼んできただろ……“ご主人様”って、それだけじゃなくて……俺の名前を……!」
ミィミの耳が小さく動く。
それだけで、希望が砕けていくのが分かった。
思い出せていない。
違う、こんなことは……許されない。
「今まで……俺がどれだけお前によくしてやったか、分かってるか?」
俺は必死に訴えた。
「お前が寒がれば毛布をやった! 腹が減れば飯を与えた! 何度も助けて、何度も……お前のために動いたんだよ!!」
ミィミは黙って聞いていた。
俺は止まれなかった。
「それを、忘れるのか……!? ミィミ!! お前も……他の連中みたいに……!!」
世界は狂っている。
俺がどれだけもがこうと、俺以外の奴らは”一周”して、俺を知らないと言う。
俺が築いてきたものを、すべてなかったことにされる。
今までは、まだよかった。
ミィミがいたから。
それなのに──
「お前も……他の連中と同じになるのか……!?」
声が震えた。
「……俺だけを……この世界に置いていかないでくれ……!!」
涙が滲む。
俺がこんなに必死になるなんて、笑える話だ。
だが、それでも。
「ミィミ……お前だけは……!」
ミィミは、じっと俺を見ていた。
やがて、そっと、俺の手を握る。
その手は小さく、傷だらけだった。
「……ご主人様……」
ミィミは、静かに微笑んだ。
「わかってますよ。」
「……違う……」
「ご主人様は……ご主人様です。」
違う!! それじゃない!!
「俺の名前は……?」
「ご主人様は……ご主人様……」
ミィミは、困ったように笑った。
その瞬間、俺の中で何かが千切れそうになった。
「……レグナード、だろ……?」
「……」
ミィミは答えない。
「俺の名前は、レグナードだ。」
必死に繰り返す。
「ミィミ、お前がそう呼んできた。何度も、何度も……!!」
ミィミは、かすかに目を伏せる。
「……ご主人様……」
そして、その顔は……。
“本当に申し訳なさそうに” 微笑んでいた。
俺は──すべてを理解した。
ミィミは、俺を”わかっている”のではなく。
“わかろうとしてくれているだけ” だった。
彼女はもう、俺のことを……。
「……ミィミ……」
絶望が、背骨を駆け上がる。
「なんで……お前まで……」
ミィミは、ゆっくりと俺の手を握ったまま、じっと俺を見つめている。
「……大丈夫です。私は……ご主人様のそばにいますから。」
違う。
それは、もう俺の知っているミィミじゃない。
“俺がつけた名前を、忘れた” ミィミは。
俺の知るミィミじゃない。
俺だけが、“この世界”に取り残されたんだ。
崩壊するような感覚。
俺はただ、その場で膝をついた。
ミィミは、変わらず俺の手を握っていた。
「……ご主人様?」
「……」
俺はもう、何も言えなかった。