表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

42/49

42話 オーリンズが上手くやる

 俺が放心状態で机に突っ伏していると、足音が近づいてきた。


 やがて、柔らかな女性の手が机に置かれた本を静かに撫でる。


「あら、薬学の本なんて珍しいわね」


 懐かしい声が耳に響いた。


(……まさか……)


 俺は顔を上げると、そこには穏やかに微笑む年老いた女性が立っていた。


「ヴォルグ……先生?」


 俺は動揺を隠せないまま呟く。


「まぁ、私の名前を知っているなんて嬉しいわぁ。あなた、薬学に興味があるの?」


 ヴォルグ先生は優しい眼差しで俺を見つめる。


 その表情、その声色。

 俺が散々薬で利用したにもかかわらず、彼女は相変わらず聡明で穏やかなままだった。


「……少しだけ、調べ物があって……。」


「まぁ、素晴らしいわ。オーリンズ以外にも薬学を学ぼうとする生徒がいるなんて。」


 ヴォルグ先生の口から再びあの名前が出る。

 胸がまたざわつき始める。


「オーリンズ……彼も薬学を?」


「えぇ、とても聡明で真っ直ぐな子よ。きっとあなたとも気が合うわね。」


 ヴォルグ先生の声が、妙に胸に刺さった。


(俺が破滅させたはずなのに、何も変わっていない。)


 俺が壊したはずの世界が、何の問題もなく元通りになっている。


 俺は混乱の中、無理に作った笑みを浮かべて返した。


「……そうですね、機会があったらぜひ。」


 ヴォルグ先生は微笑みながら、俺の肩を軽く叩いた。


「頑張ってね。応援してるわよ。」


 彼女が去った後、俺は再び机に突っ伏した。


 世界は何もかも忘れてしまった。


 だが俺だけが、それを忘れられずにいた。


 放課後の校庭は、どこか寂しげな静けさを帯びていた。


 そんな中でオーリンズは、夕日に照らされながらのん気にボールを拾い集めている。

 何も知らない、何もわかっていない。まるでこの世界の歪さや残酷さに気づいていないような姿に、俺の胸は怒りで煮えたぎった。


「ふ、ふざけるな……なんだよ、この狂った世界は……」


 俺は荒い息を吐きながら、校庭に踏み出した。

 拳が震える。こんなふざけた状況が許せるわけない。


 俺はオーリンズに向かって叫んだ。


「おい、オーリンズ!!」


 鋭い俺の声に、オーリンズがゆっくり振り返る。彼の顔は穏やかで、まるで何の苦労もないように見えた。


「ん……? あれ、君はさっきの?」


 その表情が更に俺を苛立たせる。


「お前、ふざけてんのか? ボールなんか片付けて、のん気に笑いやがって……」


 俺の声は震え、うまく言葉が出てこない。だが、伝えなければいけない。


「お前……この世界がどんなに狂ってるか分かってんのか? お前は何も知らない! この世界は残酷で、理不尽で、何をしても結局は無駄になる……俺みたいにな!」


 オーリンズの表情が少しだけ真剣になる。


「……お前、どういうことを言ってるんだ?」


「だからな、お前に忠告してやるよ。お前も俺と同じだろ? 甘く考えてたら、この世界じゃ長生きできないぞ!」


 俺は自分でも驚くほど大きな声で怒鳴った。


 オーリンズは黙って俺を見つめた後、やがて静かな声で答えた。


「俺が甘いかどうかは知らないが、お前みたいな不幸な考え方はしたくないな。」


「はぁ……?」


 予想もしなかった言葉に、俺は言葉を詰まらせた。


 オーリンズはボールを抱えて、小さく微笑んだ。


「この世界が狂ってるのはお前の言う通りかもしれない。だけどだったら、自分の力で正していけばいいだけの話だろ?」


 そう言って、オーリンズは何事もなかったかのように校舎に向かって歩き出した。


 俺は、ただ呆然とその背中を見つめることしかできなかった。



 あれから街を意味もなく歩き回るが、結局ずっとオーリンズの言葉が離れる事はなかった。


 全てに嫌悪感が滲み、いっそこの世界ごと壊してやりたい気分をグッと堪えて酒を飲み干す。


 酒場の空気は、騒がしくもどこか冷え冷えとしていた。

 安酒の匂い、酔客の笑い声、粗雑な弦楽器の音。

 そんな中、俺はカウンターの隅でグラスを傾けていた。


 この世界に来てから、俺は多くのものを手に入れたはずだった。

 知恵を駆使し、感情を操り、人を支配してきた。

 だが、すべてを壊したはずの世界は、何一つ変わっていなかった。


「……クソが。」


 俺はグラスを強く握りしめ、酒を煽る。

 苦い液体が喉を焼くが、酔えるほど生ぬるい気分ではなかった。


「ご主人様……」


 ふと、隣から聞こえてきたのは、聞き慣れたか細い声。

 ミィミが、俺の隣にちょこんと腰を下ろしていた。


「ここで何してんだ。」


「ご主人様がいるところなら、どこでも……」


 彼女は俺を見上げて、純粋な眼差しを向けてくる。

 まるで俺にすがるように。


 だが、それを見た店主が顔をしかめ、カウンターを叩いた。


「おい、獣人! ここはお前のようなケダモノが座る場所じゃねえんだよ!」


 怒鳴り声が酒場に響く。

 周囲の客も一斉にミィミを見るが、目には軽蔑と敵意が滲んでいた。


「……あ?」


 俺はゆっくり顔を上げた。

 が、店主は構わず続ける。


「獣人のガキが人間様の隣に座るなんざ、不愉快だ。どこか端の床にでも縮こまってろ。」


 ミィミはびくりと肩を震わせたが、それでも俺から離れようとはしなかった。

 俺は目を閉じ、荒い息を吐きながら、グラスを握る手に力を込める。


「……俺の連れだ。」


「知るか! ここは人間のための店だ、ケダモノの席なんかねぇ!」


 グラスを置く。

 氷がカチリと鳴る音だけが、妙に静かに響いた。


「……クソみたいな夜だ。」


 俺は椅子からずり落ちるようにして座り込み、目を閉じた。

 こんな狂った世界で、何を信じればいいのかも分からないまま──。


「……ミィミ、悪いが床に座ってくれ。」


 俺は低く言った。


「このバカ親父がうるさい。」


 ミィミは少しの間、俺を見つめたが、何も言わずに床に膝をついた。

 そんな彼女を見下ろしながら、店主が鼻を鳴らす。


「けっ、分かってるじゃねぇか。ケダモノのくせに人間の席に座ろうなんざ、図々しいんだよ。」


 その言葉に、俺はまたグラスを傾ける。

 今さらこんな下らない侮蔑に怒る気も起きなかった。


 だが、店主はそれだけでは終わらなかった。

 乱暴に棚からボトルを取り出すと、床に座るミィミを見下しながら不敵に笑う。


「おい、獣人に飲ませる酒はねぇんだよ。」


 そう言って、彼はボトルを傾けた。

 冷たい酒がミィミの頭上から垂れ、毛並みに染み込んでいく。


「……っ」


 ミィミは何も言わず、じっと耐えていた。

 しかし、その耳は小さく震えている。


 俺はそれを見て、ふっと息を漏らした。


「……クスッ。」


 自然と、笑いがこぼれた。

 店主は意地の悪い笑みを浮かべながら、酒のボトルを振っていたが、俺の笑い声を聞いて動きを止めた。


「……あぁ? 何がおかしいんだよ。」


 俺は軽くグラスを揺らし、店主の間抜けな顔を見やる。

 酒を振りかけることに満足げなその表情は、まるで無邪気なガキがイタズラに成功した時のようだった。


「……いや、あまりにも頭が悪すぎてな。」


 そう言いながら、俺はまたグラスを口に運んだ。

 この世界はどこまでも狂っている。

 だが、それが滑稽に見えてしまうのは、俺自身がすでに壊れている証拠かもしれない。


 酒の匂いが立ち込める薄暗い空間。

 床に座るミィミの耳が、まだ微かに震えている。

 俺はそんな彼女を見下ろしながら、グラスの底をじっと眺めた。


「……なあ、ミィミ。」


 俺の声に、彼女は小さく耳を動かす。


「お前は……生まれてきてよかったと思うか?」


 ふと、口をついて出た問いだった。

 なぜ聞いたのかは自分でも分からない。

 ただ、今の俺の中には、何もかもが虚しく思える感覚しかなかった。


 この世界は狂っている。

 何も変わらず、何も壊れない。

 俺がどれだけもがき、支配し、弄んだとしても……すべては元通りだ。


 そんな世界に生まれ落ちたことに、意味はあるのか?


「……ご主人様に会えてよかったと思っています。」


 ミィミの声は、静かで、それでいて迷いがなかった。

 濡れた毛並みを気にすることなく、彼女は俺を見上げている。


 俺は息を吐いた。


「……そうか。」


 俺に会えたことが、こいつにとっての救いだというのか。

 それは本当に、幸福と言えるのか?


 俺は再びグラスを傾ける。

 喉を焼くアルコールの熱が、わずかに現実を遠ざけてくれる。


 そんな俺を、ミィミはじっと見つめていた。

 やがて、おずおずと口を開く。


「……ご主人様。」


「ん?」


「学園で……何を見たのですか?」


 その言葉に、俺の手が止まる。


「……別に、大したことじゃねえよ。」


 俺は適当に流そうとする。

 だが、ミィミは引かない。


「ご主人様は、学園から戻ってきてずっと様子が変です。」


「何の話だ。」


「何かを気にしているように見えます。」


「……くだらねえ。」


 俺は苦笑するように言った。

 だが、ミィミはまだ俺をじっと見つめている。


「ご主人様。」


「……しつけえぞ。」


「何を見たのですか?」


「……」


 俺はグラスを置いた。


 ピキッ──と、内側で何かが音を立てた気がした。


「……てめぇ、誰に向かって口をきいてんだ?」


 ミィミの表情が、一瞬だけ強張る。


「俺が何を見ようが、何を感じようが、関係ねえだろうが……!」


 バンッ!!


 俺はカウンターを拳で叩いた。

 店内の喧騒が、一瞬だけ静まる。

 周囲の客がこちらをちらりと見たが、すぐにまた酒をあおり始めた。


 ミィミは、そんな俺の怒りを真正面から受け止めていた。

 耳を伏せ、少しだけ肩をすくめながらも、目を逸らさない。


「……」


 俺は乱暴に髪をかきむしった。


「……いい加減にしろ。」


 吐き捨てるように言うと、ミィミは小さく頷いた。


「……すみません、ご主人様。」


 俺は舌打ちをし、再びグラスを手に取った。

 しかし、中身はすでに空だった。


 クソが。


 この酒場も、この世界も、何もかもが気に食わない。


 ──そんな時だった。


 店の入り口で、ガシャンと重厚な金属音が響く。


 勇ましい甲冑を身にまとい、ワインレッドの髪を靡かせた女性が堂々と酒場に足を踏み入れる。

 その姿は、場違いなほど気高く、鋭い威圧感を放っていた。


 酒場の客たちが、ちらりと彼女を見て視線をそらす。

 誰もが、この女には関わらないほうがいいと本能的に悟ったようだった。


 ──そして彼女は、入店するなり、まっすぐ俺の方を見た。


 その鋭い瞳が、ミィミと俺を捉えた瞬間、嘲るように口の端を歪める。



「ふん……随分気色の悪い趣味じゃないか。」


 酒場に響く、嘲るような女の声。

 ワインレッドの髪を靡かせ、金色の瞳が俺を鋭く射抜いていた。

 甲冑をまとった彼女は堂々とした態度で俺を見下ろし、腕を組んで薄く笑っている。


 奥歯をギリっと噛む。


 ──ラゼルだった。


 その瞬間、俺はわずかに息を呑む。


(……ラゼル……?)


 死んだはずの。


 そうだ。あの時、ラゼルは──いや、待て。

 ゲナウもハルも生きていたのだ。

 ならば、ラゼルが生きていたとしても……おかしくない。


 心臓が一瞬、跳ねた。

 胸の奥にこみ上げる感情があった。


(生きてたんだ……ラゼル……)


 今ここに立つ彼女の姿が、幻のように思えた。

 ほんの一瞬だけ、俺は救われた気持ちになった。

 全てを壊してしまったはずのこの世界で、

 かつての仲間が生きていたことが、ただ、嬉しかった。


 だが──


「……お前。」


 そう声をかけると、ラゼルは目を細め、軽く首を傾げた。


「は?」


「ラゼル、お前──」


「待て、誰だお前。」


 冷たい一言が返ってきた。


 俺の中で、なにかが引き裂かれる音がした。


「……覚えてないのか、やっぱりお前も」


「覚えるも何も、お前みたいなヤツと会った記憶はねえな。」


 ラゼルはつまらなさそうに肩をすくめる。

 その態度は、かつて俺を敵視していた時のそれとも違う。

 侮蔑すら込める価値もない、そんな扱いだった。


「ああ、でも──」


 ラゼルは軽く鼻を鳴らし、俺を値踏みするように見てから言った。


「お前みたいな差別主義者は見てて気持ち悪くなってくるな。」


 胸の奥が、ひどく冷えた。


「……何?」


「獣人を床に座らせて、それを何とも思わない。そういう考えがもう古臭くて反吐が出るんだよ。」


 軽蔑の色を浮かべた目が、俺を貫く。


「正義もねえ、忠義もねえ、ただ惨めでみっともないだけの男が、偉そうに獣人を従わせてる。

 ……お前みたいな奴が、一番見てて不快なんだよ。」


 カウンターの上のグラスを、指先がわずかに震えた。


 ミィミが不安そうに俺の袖を掴む。

 だが、俺は何も言えなかった。


 こいつは、ラゼルだ。

 生きていたラゼル。


 だが……俺が知っているラゼルとは、まるで違った。


 俺を罵倒する時でさえ、かつてのラゼルは誇りを持っていた。

 だが今のラゼルは、そこに何の感情もないように見えた。

 ただ、不快なものを見つけて、吐き捨てるだけのように。


「……チッ……。」


 奥歯を噛み締める。


 たった今まで抱いた”嬉しさ”が、粉々に砕けていくのがわかった。


 ラゼルの冷ややかな視線が俺を貫く。


 かつてのラゼルとは違う。

 あの頃の彼女は、俺に敵意を剥き出しにしながらも、そこには誇りや信念のようなものが感じられた。

 だが今の彼女は、ただの嫌悪と侮蔑だけで俺を見下ろしている。


 俺はゆっくりと、目の前のグラスを傾けた。

 苦い酒が喉を流れるが、今の俺には何の効果もない。


「……はは、どうせお前も覚えてないんだな。」


 皮肉混じりの笑みを浮かべながら言う。


 ラゼルの眉がわずかに動く。


「は?」


「まあ、わかってたことだけどね。」


 俺は軽く肩をすくめた。


 ラゼルは怪訝そうに俺を見ていたが、俺は構わず続けた。


「それでさ、今も捕虜を殺してるの?」


 その言葉が落ちた瞬間、酒場の空気が張り詰めた。


「……何?」


「ほら、使える奴とそうでない奴で、選別してるんでしょ?」


 俺は指でグラスの縁をなぞりながら、淡々とした口調で言った。


「結局、そういう選別って本質的には "どれだけ利用価値があるか"って話でしかないじゃない。

 そういう判断基準で物事を見るって、つまり……」


 俺はわざとらしく笑みを浮かべ、彼女を見た。


「お前も、俺と変わらないってことだよね?」


 ラゼルの瞳が鋭く細められる。


「……お前、何が言いたい?」


「いやいや、別に責めてるわけじゃないんだよ。ただ、ちょっと気になっただけ。」


 俺はくつくつと喉を鳴らして笑い、グラスを軽く回した。


「そういえばさ、スネージヤとかいう王族の娘にも、いずれは会うんでしょ?」


 ラゼルは表情を変えないまま、わずかに腕を組んだ。


「……それがどうした。」


「んー、まあ別にどうもしないけど?」


 俺は無邪気を装いながら、彼女の表情を観察する。


「ただ、そん時が来たらさ、“この言葉” を思い出してほしいなって。」


 俺はグラスを置き、わざと間を取ってから静かに言った。


「“お前が裁かれないと、世界は変わらない”。」


 ラゼルの目がかすかに揺れた。


 俺はニタァと笑いながら、静かに酒を飲む。


「ほら、俺のことを "惨めでみっともない"って言ったでしょ?」


 グラスを置き、ゆったりと背もたれに体を預ける。


「だったらさ、その惨めでみっともない男の末路がどうなるか、最後まで見届けてくれよ?」


 俺の嘲笑が、酒場の喧騒に溶けていく。

 ラゼルの拳が、ギリっと音を立てたのが聞こえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ