41話 混乱と世界からの拒絶
胸がざわめいた。
「オーリンズ! まぁた考えなしに蹴っ飛ばしたのか!」
どこか軽薄な、それでいて親しげな口調。
俺の視界の隅、学園の庭から駆け寄ってくる数人の生徒たち。
その中に——
(……嘘だろ。)
声がした方向へ振り向く。
そこに立っていたのは——
ハルだった。
(なぜだ……!?)
「悪い悪い、つい勢いで蹴っちまった。」
オーリンズは馬鹿正直に謝る。
だが俺の耳には、その言葉は届いていなかった。
ハルがいる。
この学園に。
俺がすべてを壊したはずの、この学園に……。
(……どうして……どうしてお前が……!)
目の前の光景がぐらつく。
頭が混乱する。
喉の奥から、言葉にならない叫びがこみ上げる。
(そんなはずはない……あの時、あの時!)
俺はこの学園を辞めた。
あの事件の後、俺はすべてを終わらせたはずだった。
ハルとは決別したはずだった。
なのに——
「おい、大丈夫か?」
肩を叩かれる。
「っ……!!」
オーリンズの顔が目の前にあった。
「お前、顔色悪いぞ?」
「……っ!!」
俺は弾かれたように後ずさる。
無意識に息が荒くなり、手が震える。
(違う、違う、違う……!!)
何かがおかしい。
何かが狂っている。
これは現実なのか?
それとも——夢か悪い冗談か?
「おい、何してんだ……?」
ハルが俺の存在に気づいた。
その瞬間、俺の心臓が跳ね上がる。
(……っ!!)
「お前……?」
ハルが俺の方へと一歩近づく。
その一歩が、まるで地面を揺るがすような衝撃を俺に与えた。
「……なぜ……」
俺は、震える声で呟く。
「なぜ、お前がここにいる……?」
自分の声すら、自分のものではないような感覚だった。
ハルは俺の方をじっと見つめた。
しかし——その目に、俺を知っているという色はなかった。
「えっと……誰?」
「……は?」
喉が凍るような感覚。
思わず、耳を疑った。
「お前……ハル、だろ?」
「そうだけど?」
「……俺のことは?」
「いや、ごめん、知らないな。」
ハルは軽く首を傾げながら答えた。
本当に、俺を知らない人間のように——。
「ちょっと待て……」
心臓が跳ねる。
背筋に冷たい汗が流れる。
そんなはずがない。
俺はハルを知っている。ハルも俺を知っているはずだ。
「本当に……知らないのか?」
ハルは呆れたように笑いながら肩をすくめた。
「いやいや、そっちこそ誰だよ?」
その言葉が、俺の脳を混乱で満たした。
(おかしい。おかしい。おかしい。)
俺はこの学園にいた。
俺はこの学園でハルと対峙した。
俺はこの学園を去った。
なのに——
ハルは俺を知らない?
「おい、オーリンズ、お前は俺のことを知ってるか?」
焦燥を隠せず、隣のオーリンズに問いかける。
「……いや、初めて見る顔だな。」
オーリンズは軽く目を細めて俺を観察する。
「転校生か? いや、でもこの時期に?」
「……」
ダメだ、頭が追いつかない。
(どういうことだ……?)
「なぁ、もしかして俺に似た奴と間違えてないか?」
ハルが不思議そうに笑う。
「……」
冗談めかしたハルの声。
まるで、俺との過去なんてなかったかのような態度。
(何が……起きている……?)
俺は確かに、この学園にいた。
ハルとは決別した。
それなのに——
「おい、大丈夫か?」
オーリンズが俺の肩に手を置いた。
「顔色悪いぞ? 倒れそうじゃないか?」
「……」
俺は、自分の手を見た。
微かに震えている。
(違う、違う、違う……)
「おい、名前、名乗ったか?」
「……レグナード。」
「ふーん、レグナードね。覚えとくわ。」
その言葉が、異様に遠く感じられた。
「おい、バカ貴族! こんなところでサッカーしてたのか!?」
突然の大声に、俺の思考は一瞬途切れた。
この声——聞き覚えがある。
(……まさか……)
俺は、振り返る。
そこに立っていたのは——ゲナウだった。
(……なぜだ。)
胸の奥で、何かがざわつく。
「お前また考えなしに蹴っ飛ばしたんじゃないだろうな?」
ゲナウは、俺ではなくオーリンズの肩をバシッと叩きながら笑う。
「悪い悪い、ちょっと力加減間違えちまった。」
「ったく、お前はほんとにバカだな。」
オーリンズは気楽に笑い、ゲナウもそれに合わせて笑う。
俺は——その光景を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
(……どういうことだ……?)
俺の知るゲナウは、こんな風に人と馴れ馴れしく笑い合うタイプではなかったはずだ。
ましてや、俺のことを知っているはず。
なのに——
「おい、そいつと関わっても碌なことにならねぇぞ。」
思わず、忠告のように口を開く。
だが——
「ん? 何か言ったか?」
ゲナウは、怪訝そうに俺を見た。
「……お前、本当に俺のこと知らないのか?」
「は? いや、初対面だけど。」
ゲナウは俺をじっと見つめる。
その目に、俺の知る“警戒”や“敵意”はなかった。
——まるで、本当に俺のことを初めて見るかのような目だった。
「……なんだ、知り合いか?」
オーリンズが不思議そうに俺とゲナウを見比べる。
「いや、全然。」
ゲナウはあっさりと首を振った。
「へぇ、そっか。だったら自己紹介しとけよ。」
「いや、別にいいだろ。」
ゲナウは興味なさそうに笑い、オーリンズの背中を軽く押す。
「サッカー続けるぞ、お前がボール蹴る方向さえ間違えなきゃな。」
「うるせぇって。」
オーリンズとゲナウは、楽しそうに笑いながら歩き出す。
俺は——
ただ、その光景を、呆然と見つめるしかなかった。
(……何が……起きている……?)
ハルだけじゃない。
ゲナウまでもが、俺を知らない。
俺がこの学園にいた記憶が——この世界から、消えているのか?
(そんなことが……あり得るのか……?)
俺の中で、何かがひどく揺らいでいた。
「ま、待ってくれ!!」
俺は思わず声を張り上げ、3人の背中に向かって叫んだ。
「ゲナウ!!お前の親父は今、戦争に……!!」
俺の言葉に、ゲナウが足を止めて振り返る。
「戦争?」
「ああ……俺の親父……バーナード公爵が始めた戦争だよ!!」
その名を口にした瞬間、ゲナウの眉がわずかに動いた。
(……やっぱり覚えてるはずだ……!)
だが——
「何言ってんだ? バーナード?」
ゲナウは首を傾げた。
「そりゃ親父は戦争に行ってて、まだ帰ってきてねぇけどよ……生きてるかもしれねぇだろ?」
「……!」
俺は息を呑む。
ゲナウは、俺が知る過去と同じことを言っている。
だが、俺の親父——バーナード公爵についての反応が違う。
「それにバーナード公爵の息子ってのは……」
ゲナウは、俺ではなく——
「オーリンズだけだろ?」
「……っ!?」
俺は、頭を殴られたような衝撃を受けた。
「は? 俺?」
オーリンズはぽかんとした表情でゲナウを見た。
「お前、バーナード公爵の息子だろ。」
「いや、まぁ……そうだけど。」
「つーか、こいつバカすぎて勘当されてんだけどな。」
ゲナウは鼻で笑いながら肩をすくめた。
「へへ、あんまり知らない奴に言うなよ、恥ずかしい。」
オーリンズが苦笑いしながら、ゲナウを軽く小突く。
「いいだろ? どうせ世界中の奴が知ってんだ。」
ゲナウが肩を組むようにオーリンズの首元を引き寄せる。
「やめろって、暑苦しい!」
「うるせぇ、いいからボール蹴れ!」
2人は冗談を言い合いながら、すっかり俺の存在を忘れたように笑い合う。
俺は——
呆然と、その光景を見つめることしかできなかった。
(……バーナード公爵の息子が……オーリンズ……?)
(俺は……?)
俺の存在は——どこに行った?。
俺はその場に蹲った。
頭の中がぐるぐると回る。
息がうまくできない。
(記憶がリセットされた……?)
違う。そうじゃない。
俺が知っている学園は、俺が知っている人間たちは——すべてそのままだ。
ゲナウの親父は戦争に行って帰ってきていない。
学園の生徒たちも、俺がいた頃と変わらず存在している。
(でも……俺がいない。)
(俺のいたはずの場所に、オーリンズがいる。)
バーナード公爵の息子は俺じゃない。
オーリンズだ。
(何が……どうなっている?)
俺は震える手で地面に爪を立てる。
これはただの記憶の問題じゃない。
俺だけが“忘れられた”んじゃない。
状況そのものがリセットされているんだ。
「……くそっ……!」
自分の声がかすれる。
喉の奥が焼けるように熱い。
(この世界が……俺を消したのか?)
そう思った瞬間、ひとつの確信が生まれた。
(いや……違う。)
俺はゆっくりと顔を上げる。
視線の先——オーリンズがいる。
(コイツだけは違う……)
オーリンズは俺と同じように転生者だ。
そこだけは相違がある。
もしもオーリンズがこの世界に“元からいた存在”だったならば、俺と同じ“日本の人間”としてここにいることはありえない。
俺は奴の姿をじっと見つめる。
オーリンズはそんな俺の視線に気づいたのか、ボールを蹴る足を止めた。
「……ん?」
その軽い反応が、妙に気に障る。
お前……何者だ?
この世界はどうなっている?
俺がいたはずの場所に、お前がいるのは——なぜだ?
俺は迷うことなく図書館へ向かった。
頭が整理できないまま、足だけが勝手に動いていた。
学園の廊下を歩く。
ここも変わらない。
俺がいたはずの学園——でも、俺がいなかったことになっている学園。
扉を押し開けると、静かな空間が広がった。
陽の光が差し込む窓際。
整然と並ぶ本棚。
俺は深く息を吸うと、迷わず薬学の書架へ向かった。
手を伸ばし、一冊の本を引き抜く。
薬学大全——昔、何度も開いた本だ。
指でページをめくる。
目が滑るように文字を追う。
(……あった。)
俺の指が止まった。
——グラマップ薬。
かつて俺がこの学園にいた時、読んだ記憶がある。
確か、俺はこのページを破り捨てたはずだ。
二度と誰にも読ませないように、そう決めたはずだった。
だが——
(なかったことになっている。)
そのページは、まるで最初から誰にも破られたことなどないかのように、そこにあった。
俺の中で、何かが確信に変わる。
すべてが、なかったことにされている。
学園に俺はいない。
過去の出来事も、俺が関与した痕跡も——すべてが消えている。
「……ははっ……」
かすれた笑いが喉から漏れた。
自分が今どんな顔をしているのか、想像するのが怖かった。
俺は、ページを閉じる。
それから、静かに本を棚に戻した。
机に突っ伏す。
頭が働かない。
考えがまとまらない。
(俺は……どうするべきだ……?)
答えは出ない。
俺は放課後になるまで、ただ図書館で呆然と座っていた。