40話 絶対許されない
日差しが照りつける馬車の上で、聞き慣れた声が聞こえてくる。
「おい、ミツイ!てめぇ、今月のノルマどうなってんだよ!?」
背後から、鋭い声が飛んできた。
振り向かずとも分かる。
この嫌な声の主は——
「……村松……なんで?。」
俺は無意識に背筋を伸ばした。
「どうなってんだって聞いてんだよ、今月も0件? お前、馬鹿じゃねぇの?」
村松の顔が近づいてくる。
肉厚な顔面が、俺のすぐ横にまで迫る。
煙草とコーヒーと、加齢臭の混じった不快な匂い。
「お前さぁ、何のためにこの会社入ったの?
遊びに来てんのか? ああ?」
俺は黙って、机の上の資料に目を落とした。
「おい、聞いてんのか?」
バンッ!!
デスクの上に拳が叩きつけられる。
俺の肩が、ビクリと震えた。
「いいか、営業ってのはな、“やる気”と“気合い”だ!!
やる気があれば、誰だって契約取れんだよ!!」
(……本気で言ってるのか、この人は。)
「お前、何件回った?」
「……」
「言えよ、何件だ!?」
「……8件です。」
「8件? ハァ!? たったの8件!?
ふざけてんのか、オイ!!」
村松の唾が飛ぶ。
「お前の同期の田中見てみろよ!
あいつは今月すでに15件回ってるんだぞ!!
それで契約5件!! すげぇだろ!? ああ!?
なのにてめぇは8件でたったの……契約ゼロ!!?」
「……」
「もう笑えてくるわ!! お前、この仕事向いてねぇよ!!」
村松はニヤニヤしながら、俺の肩を思い切り叩いた。
「なぁ、ミツイ? なんでお前、ウチの会社入ったんだ?
あ? もしかして、“楽して金稼げる”とか思ってた??」
「……そんなことは……」
「はぁ!? 違うって? じゃあ何? お前、この会社で“成り上がる”つもりだったの? てめぇが? このポンコツが??」
村松は笑いながら、俺の机に肘をつく。
「お前みたいなやつ、初めて見たよ。
見てられねぇからアドバイスしてやるよ。
お前さ、いっそ辞めた方が楽なんじゃねぇの?」
——頭が、真っ白になった。
「……なんすか、それ……」
俺の声は、かすかに震えていた。
「お? 図星突かれたか? だってよ、どう考えても向いてねぇだろ。
仕事できねぇし、根性もねぇし、何より営業マンとしての“華”がねぇ。
お前みたいな陰キャは、営業やる資格ねぇんだよ!!」
「……」
「お前さ、家帰って、鏡見てみ?
そんで“俺は営業向いてる!”って言えるか? 言えねぇだろ?」
「……」
「お前に向いてる仕事はな、“工場の単純作業”だよ、ミツイくん?」
俺は、拳を握りしめた。
「チッ……」
村松は俺の肩を軽く押しながら、鼻で笑った。
「まぁ、明日までに契約取れよ? 取れなかったら、反省文な。」
「……は?」
「聞こえなかった? お前がノルマ達成できなかったら、残業して反省文って言ってんの。」
村松は、俺の目をじっと見つめながら、ニヤリと笑った。
「やる気がねぇ奴は、せめて“根性”見せねぇとな?」
——俺は、何も言えなかった。
(……あぁ、もう、クソみてぇだ……。)
この会社も、この仕事も、村松も。
全部——クソだ。
俺は無意識に、机の上のペンを握りしめる。
(村松の首に……このペンを突き立てたら……)
——その時だった。
目の前が、ぐにゃりと歪んだ。
オフィスの景色が、霞んでいく。
(……あれ?)
聞こえてくるのは、風の音。
生ぬるい空気が肌を撫でる。
——次の瞬間、俺は馬車の上で目を覚ました。
「……っ!」
俺は、反射的に身を起こした。
ジリジリと照りつける太陽。
馬車の揺れ。
そして、前方では、ミィミが息を切らしながら馬車を引いていた。
「……はぁ……はぁ……」
(……なんだ、夢……か。)
俺は額の汗を拭いながら、深く息を吐いた。
だが、胸の奥には、まだ村松の声がこびりついていた。
「……クソが……」
思わず、そう呟いた。
俺は馬車の揺れに身を任せながら、深く息を吐いた。
まだ胸の奥には、村松の声がこびりついている。
「8件しか回ってねぇのか」
「お前は営業向いてねぇよ」
「工場の単純作業が向いてるんじゃねぇの?」
(……クソが。)
俺は額の汗を拭いながら、手のひらをぎゅっと握りしめる。
あの頃の俺は、ただ言われるがままだった。
会社の駒として使い潰され、ノルマ未達の烙印を押され、努力が足りねぇと罵倒されるだけの存在だった。
それに比べたら……
(……今の俺はどうだ?)
俺は確かに、自分の力で生きている。
誰かにこき使われるんじゃなく、自分の頭で考えて、動いて、結果を出している。
俺のやることには意味があるし、価値もある。
少なくとも、あの時みたいに無意味な数字に追われる毎日とは違う。
(結局、俺は間違ってなかったんだよ。)
俺は膝の上に置いたリュックの中に手を突っ込む。
中には、アクエルダで手に入れた“戦利品”が入っている。
鱗。
魚人たちから剥ぎ取られたものだ。
市場に出せば、それなりの金になるだろう。
(俺は、きっちり結果を出してる。)
俺は、ふっと笑う。
会社のために売り上げを作るのではなく、自分のために価値を生み出している。
誰に怒鳴られることもない。
誰かの機嫌を伺うこともない。
この世界では、俺のやることが正しいんだ。
「……ミィミ。」
前方で馬車を引いていたミィミが、ピクッと耳を動かして振り返る。
「はい、ご主人様!」
「もう少しペースを落とせ。」
「え? でも、次の街まではまだ距離がありますし……」
「いいんだよ。焦る必要はない。」
俺はリュックの中の鱗を握りしめたまま、ぼんやりと空を見上げた。
(俺は、間違ってない。)
(あの時、村松にどれだけ罵倒されても……結局、俺は俺のやり方で生き残った。)
「……次の街に着いたら、美味いもんでも食おうぜ。」
俺がそう言うと、ミィミは嬉しそうに笑った。
「はいっ! ご主人様と食べるご飯、楽しみです!」
俺の選んだ道は、間違ってない。
間違ってるのは、俺を馬鹿にした連中の方だ。
俺は、馬車の上で静かに微笑んだ。
そして……しばらくの時間が経った。
馬車の上から遠くの街並みが見えてきたとき、俺は違和感を覚えた。
「……ちょっと止まって!」
俺は手に持っていた鞭を振るい、ミィミの太ももを打った。
ピシッ——
乾いた音が響く。
彼女の小さな体が一瞬びくりと震えたが、それでも声を上げることはなかった。
ボロボロの衣類の裂け目から滲み出た血が、ほこりまみれの肌に細い筋を作る。
それでも、ミィミは顔をしかめるだけで、すぐに馬車を引く手を止めた。
「……ご主人様?」
「…………」
俺は言葉を失ったまま、前方の光景をじっと見つめた。
(……なんでだ?)
目の前に広がっていたのは、見覚えのある城壁と門。
人々の流れも、通りの雰囲気も、記憶の中にこびりついたものと寸分違わぬ姿でそこにある。
(おかしい。おかしすぎる。)
俺たちは確かにアクエルダを出て、新しい街を目指していた。
何日も馬車を引かせ、荒野を越え、次の街へと進んでいたはずだ。
それなのに——
「……なんで、元いた街なんだ?」
呆然とした声が、俺の喉から漏れた。
「え?」
ミィミが戸惑いながら俺を見上げる。
彼女の顔には疲労の色が濃く、呼吸も浅い。
しかし、それ以上に俺の中を支配していたのは、どうしようもない“混乱”だった。
「……俺たち、進んできたよな?」
「はい……! ずっと……ずっと、ご主人様の言う通りに、前へ……!」
ミィミの息は荒く、肩で息をしながら必死に答える。
彼女は嘘をついている様子はなかった。
「じゃあ、なんで……?」
俺は無意識に拳を握りしめた。
(この街を出たのは、もう何週間も前だ。)
(確かに遠くへと進み続けていたはず。)
(それなのに、なぜ——)
目の前には、出発したはずの街の門が、まるで最初から俺たちがここを離れていなかったかのように、堂々と立っていた。
俺たちはゆっくりと街の門をくぐった。
太陽は高く、白い雲が穏やかに流れている。
だが、俺の中には不穏な感情が渦巻いていた。
(……変わらない。)
門の内側に広がる街並みは、俺が出発したときと何一つ変わっていなかった。
石畳の道、雑多に並ぶ市場の露店、行き交う人々の声——
すべてが、俺の記憶と寸分違わずそこにある。
(何週間も旅をして、新しい街へ向かったはずなのに……。)
俺はミィミの手綱を握る手に力を込めながら、通りを進んだ。
歩いている人々の顔ぶれも、見慣れたものばかりだった。
八百屋の親父が同じ位置で客に値引きを渋り、パン屋の老婆が昨日と変わらぬ笑顔で子供たちにパンを渡している。
「……まるで、俺たちがこの街を出たことなんてなかったみたいだ。」
ミィミも不安そうに俺のそばに寄る。
「ご主人様……この街、やっぱり……。」
「ああ、どう考えても……」
俺はふと目を向けた。
そして——
そこに、しっかりと鎮座している。
何も変わらない姿で。
それは、俺がかつていた街の象徴。
俺がこの場所に生きていた証そのもの。
(……ふざけるなよ。)
俺は乾いた喉を鳴らし、じっとそれを見つめた。
何週間もかけて遠くへ行ったはずなのに、結局俺はまたここに戻ってきた。
何かが狂っている。
——いや、本当に狂っているのはどっちだ?
俺が、ここを出たこと自体が、間違いだったのか?
俺は慌てて馬車から飛び降りた。
石畳に足をつくと、街の喧騒が一気に身近に感じられる。
耳に入るのは、市場の商人たちの声。
遠くで子供たちがはしゃぐ音。
道端に座り込む物乞いのかすれた嘆き。
——すべてが、俺の知る街の音だった。
(……どうなってる? 何が起きてる?)
俺は頭の中で記憶を手繰る。
ここを出たのは確かに何週間も前のことだ。
俺は別の街へ向かい、魚人たちの住処を見て、
ダムの水を巡って戦い——
(それなのに、なぜ俺はまたここにいる?)
理解できないまま、足が勝手に動き出す。
「ご主人様……?」
背後から、ミィミの不安げな声が聞こえた。
「……アリュール学園へ行く。」
俺は短く答え、そのまま歩き出した。
ミィミは戸惑ったようだったが、すぐに俺の後ろを追う。
小さな足音が、俺の背中にぴたりと張り付くようについてくる。
学園へ続く道は、俺の記憶のままだった。
並木道を抜け、白いレンガの敷かれた通りを歩く。
この道は何度も通ったはずだ。
だが——
俺の心の中には、違和感がこびりついて離れなかった。
(確かにここは俺の知る街だ。でも、本当に”同じ”なのか?)
俺は無意識に拳を握りしめる。
この街に戻ったという事実自体が、何かの罠のように思えてならなかった。
そしてアリュール学園の門の前に立つ。
石造りの荘厳な門、そこに刻まれた学園の紋章——
俺が、確かに辞めたはずの学園の景色。
思わず息を呑む。
(懐かしい……)
男子寮の建物が見える。
あの寮で過ごした時間——
決して楽しい思い出ばかりではなかったが、
それでも、今こうして見ると妙な懐かしさが込み上げてくる。
「おっと、すまん!」
突然、弾むような声が耳に入る。
(……?)
視線を落とすと、俺の足元にボールが転がっていた。
土の上を転がり、俺のつま先で止まる。
そして、そのボールを取りに来たのは——
「……っ!」
俺は、目の前の男を見て思わず息を呑んだ。
驚いた。
この顔、この雰囲気——まるで俺と同じ、日本人のような男だった。
黒髪に、どこか日本人特有の顔立ち。
身長は俺より少し低いが、引き締まった体つきをしている。
剣士か、それとも何か別の職業か……。
そして彼もまた、俺を見てハッと息を呑んでいた。
「……お前……」
男の瞳が、大きく見開かれる。
「……もしかして……日本人、か?」
(やはり……!)
「……いや、それは……」
どう答えるか迷ったその時——
「オーリンズ! 何してるの?」
遠くから、誰かが彼を呼んだ。
「今行く!」
男は、俺から目を離さずに、ボールを拾い上げる。
「オーリンズ……」
どうやら、それが彼の名前らしい。
「お前も……日本から来たのか?」
彼の問いかけに、俺は静かに息を吐いた。
(……さて、どう答えたもんかな。)
運命のような再会。
それは、俺の胸に新たな波紋を広げていった。