4話 貴族の息子
俺は、異世界の校舎の片隅で蹲った。
腹の奥にまだ鈍い痛みが残っている。
けれど、それ以上に苦しいのは、ここがどこなのかもわからないまま、一人きりで放り出されたような感覚だった。
目を閉じる。
思い出すのは、憎しみ。
燃え上がるような、胸の奥を焼き尽くすほどの、憎悪。
——元いた世界の全ての人間を、俺は許さない。
俺を踏みつけにした連中。
見下し、バカにし、利用し、捨てた奴ら。
俺の親が会社を潰した時、寄ってきた人間はみんな掌を返した。
「大変だったね」なんて薄っぺらい同情をして、裏では笑っていたんだろう。
どれだけ努力しても、環境が変われば評価は一瞬で消える。
ブラック企業の連中。
上司は無能のくせに、自分より下の人間を見つけると、ここぞとばかりに叩く。
同僚どもは、仕事もろくにできないくせに、適当に世渡りするだけで評価される。
契約を取れば手のひらを返して持ち上げるが、次の日にはまた見下される。
こんなクソみたいな環境で、俺はずっと耐えてきた。
佐々木、お前もだ。
「IQ130ってすごいね」なんて言いながら、内心はドン引きしてたんだろ?
結局、お前も俺を”変な奴”って見てたんだ。
公園で俺を殴ったガキども。
生まれてから何一つ努力もせず、ただ本能のままに暴れてるだけのバカ共が、社会を舐め腐って調子に乗る。
なのに、俺は抵抗することすらできず、ただ殴られるだけ。
……どれだけ憎んでも、何を思っても、元いた世界の連中は今も笑っている。
俺がどうなろうが、あいつらの人生には何の影響もない。
俺が苦しもうが、憎もうが、あいつらは何も気にしない。
俺は負けた側の人間で、あいつらは勝ち組。
悔しい。
こんなの、あんまりだ。
でも、俺はもう二度とあの世界には戻れない。
だったら、もういい。
この世界では——
静かに生きよう。
目立たず、騒がず、期待せず。
誰の視界にも入らず、誰にも傷つけられないように。
俺は、ここで静かに、誰にも認知されずに生きていく。
そう決意して、俺は小さく息を吐いた。
俺は、医務室には向かわなかった。
そもそも、この世界の医務室がどこにあるのかすら分からない。
それに、この異世界で俺が怪我をしようが、誰も本気で気にするはずがない。
だったら、適当に教室に戻るのが一番だった。
余計な騒ぎを起こすのも面倒だし、できるだけ目立たずにやり過ごす。
そう思いながら、ふらつく足で教室へ戻ると——
「おっ、戻ってきたか!」
俺の姿を見つけた瞬間、数人の生徒が気さくに声をかけてきた。
「大丈夫だったか?」
「いや〜、さっきはちょっと言いすぎたな。悪かったよ。」
「バカ貴族なんて言って悪かったな。」
——バカ貴族?
俺は、その言葉に引っかかった。
(貴族? 俺は、貴族なのか?)
さっきまで、俺はこの世界で”はみ出し者”だと思っていた。
でも、今の会話からすると……俺の立場は、貴族?
確かに、さっきの生徒たちの雰囲気を思い出してみれば、俺に対する態度は”冷笑”というよりも”からかい”に近かった。
明らかに見下されていたわけではなく、「あー、こいつまたやってるよ」みたいな雰囲気。
「僕は……貴族……なんですか?」
俺がそう呟くと、生徒たちは一瞬、驚いたような顔をした。
「おいおい、他人行儀なんてやめてくれよ、レグナード。」
「まぁ、正確に言えば……貴族だったと言うべきか。」
俺は、思わず息を呑んだ。
(貴族だった? 俺は、もう貴族ではない?)
訳が分からない。
だが、少なくとも——
俺はこの世界で、“元・貴族”という立場にあるらしい。
「その話、もっと聞かせてくれないか?」
俺がそう言うと、目の前の生徒たちは、一瞬怪訝そうな顔をした。
「なんだよ、急に。」
「お前、自分のことだろ?」
……そうかもしれない。だが、俺には何一つ分からない。
この世界の常識も、俺の立場も。
少なくとも、今の俺は”レグナード”として生きている。
だったら、まずは知る必要がある。
「俺は……貴族の息子だったってことか?」
そう尋ねると、生徒の一人が肩をすくめた。
「そうだよ。つい最近までな。」
(……やっぱり貴族だったのか。)
それだけなら悪くない話だ。
貴族なら金も地位もあったはず。
前世の俺よりは、遥かにマシな環境だったかもしれない。
だが——
「だけど、お前は相当不出来だったらしいぜ?」
「え?」
「お前、魔導士としてはマジで出来が悪いだろ?」
「この前の試験とか最悪だったじゃん。」
別の生徒が、あざけるように言う。
俺は、とっさに言葉が出なかった。
(……魔導士? 試験? 何の話だ?)
「……あ、えぇ……そうなんだ。」
適当に相槌を打つ。
すると、目の前の生徒たちは、一斉に呆れた顔になった。
「そうなんだって……」
「お前なぁ、それで公爵様に勘当されたんだろ?」
「マジで言ってんのか?」
勘当——?
俺は、まるで現実感のない言葉に、息を呑んだ。
“俺は貴族だった。だが、勘当された。”
つまり——
今の俺は、“元貴族”であり、無一文の落ちこぼれということか?
「バーナード様もエリート思想が強くて困ったもんだよ。」
そう言った生徒は、どこか気まずそうに目を逸らした。
「お前、結構頑張ってたのにな。」
「まぁ……気にしてないならいいんだけどさ。」
俺は、無言で彼らの言葉を噛みしめた。
——バーナード?
名前に聞き覚えはない。
だが、文脈からして、こいつは俺と関係の深い人間なのだろう。
バーナード公爵家にいた頃、俺に何かしらの影響を与えていた存在。
そして、俺が”不出来”だったことを理由に、勘当されたと聞いても何も驚かないような人間。
(……クソが。)
俺は、前世でも“無能”の烙印を押されて捨てられた。
こっちの世界でも、結局同じ扱いってことか?
俺の努力? 頑張ってた?
そんなもの、結局は”結果が伴わなければ意味がない”と切り捨てられたんだろう。
(……やっぱり、どこに行っても俺は”出来損ない”ってことかよ。)
その時——
ベルが鳴った。
「お、授業始まるな。」
「じゃあな、レグナード。」
「次の授業、ちゃんと起きてろよ?」
冗談交じりに声をかける者もいたが、皆当たり前のように席へ戻っていく。
俺の隣にいた生徒も、あっという間に離れていった。
まるで、俺がそこにいることが”どうでもいい”と言わんばかりに。
俺は、ぽつんと教室の片隅に立ち尽くした。
(……あぁ、そうか。)
今の俺は、貴族ですらない。
勘当された落ちこぼれで、特に親しい友人もいない。
クラスメイトが俺をからかうのは、俺を対等な存在として扱っているからじゃない。
ただの”どうでもいい奴”だからだ。
俺がいようがいまいが、彼らの生活には関係ない。
俺が傷つこうが落ち込もうが、彼らは普段通りの日常を送るだけ。
あの世界と、何も変わらない。
俺は誰の特別にもなれない。
誰にも必要とされない。
(やっぱり……静かに生きるしかねぇんだよ。)
俺は、小さく息を吐いて、黙って席へ向かった。
次の授業は、予想外に興味深かった。
魔法の授業でもするのかと思っていた。
俺の中の”異世界の学校”というイメージは、火球を飛ばしたり、雷を操ったり、そういう派手な魔法を学ぶ場だったからだ。
だが、教壇に立ったのは、厳めしい表情をした中年の男。
彼は、魔法どころか経済の話をし始めた。
「さて、本日の講義では、貨幣価値の安定性と税制について説明する。」
(ほう、経済学か。)
意外だったが、少しだけ面白そうだと思った。
前世の俺はブラック営業マンだったが、経済やビジネスの基礎知識くらいは持っている。
異世界の経済システムがどうなっているのか、興味はあった。
……しかし——
聞けば聞くほど、笑えてきた。
「この王国では、貨幣価値の変動を防ぐため、毎年一定量の金貨を鋳造して流通させている。 こうすることで、経済が活性化し、商人たちは常に豊かな取引を行うことができるのだ。」
(……えっ?)
「税制についても同様で、領主は税を徴収しすぎてはいけないが、徴収しなさすぎてもいけない。 これを“適正課税”という。」
(……いや、適正の基準どこだよ。)
「また、金貨の価値が落ちることを防ぐため、年に一度、市場から一定量の金貨を回収し、王国が管理する。 こうすることで、金貨が減らずに済むのだ。」
(……減ってるだろ、それ。)
「さらに、経済の発展には、貴族の消費が必要不可欠である。貴族が積極的にお金を使うことで、市場に活気が生まれ、経済が潤うのだ!」
(マジか……。)
あまりにも……レベルが低い。
経済学というには、あまりにも稚拙すぎる。
何百年前の、貨幣経済すら理解していない王侯貴族の考え方を、そのまま”学問”として教えているだけのように思える。
(いや、これ……本当に信じてるのか?)
思わず、俺はククッと笑ってしまった。
それはもう、あまりにも滑稽すぎて。
「あの〜、それってレベル低すぎません?」
思わず、俺は口にしていた。
教室が静まり返る。
俺が何を言ったのか、一瞬理解できなかった生徒たちは、すぐにクスクスと笑い始めた。
「おいおい、レグナード、何言い出すんだよ」
「ははっ、また何か言い出したぞ」
「でも、まぁ確かに……ちょっとおかしいとは思ってたけどな」
だが、教壇に立つ教師——経済学を担当しているらしい中年の男は、顔をしかめた。
「レグナード、お前は今何と言った?」
「いや、だから……その経済の理論、あまりにもレベルが低すぎませんか?」
俺は堂々と手を上げ、まっすぐ教師を見た。
「金貨の鋳造量を一定にすることで経済が安定するとか、市場から金貨を回収すれば価値が落ちないとか……それ、完全に間違ってますよね?」
「ほう?」
教師が腕を組む。
「ならば、お前の考えを聞かせてもらおうか?」
俺は、軽く息を吐き、整理しながら話し始めた。
「そもそも、貨幣の価値は供給量だけで決まるものじゃない。市場の流通量と信用が重要なんです。もし王国が無理に金貨を回収すれば、流通量が減って経済が停滞するだけじゃないですか?」
「む……」
教師の表情がわずかに動いた。
「それに、貴族の消費を増やせば経済が発展する? 確かに貴族が金を使うことで市場が動く部分もあるでしょう。でも、それが経済の根幹になるわけじゃない。一般の商人や庶民の購買力を高める方が、よっぽど健全な経済成長につながるはずです。」
「……ふむ。」
「極端な話、貴族が散財するだけじゃ、貴族同士で金を回してるだけで市場の拡大にはならないんですよ。それよりも、庶民に資金を回して商業を活性化させるほうが——」
「——だがな、レグナード。」
俺の話を遮るように、教師が静かに言った。
「その経済政策を提案したのは……バーナード公爵なのだが?」
「…………は?」
教室の空気が、ピリッと張り詰めた。
俺は、思わず固まった。
「……バーナード公爵?」
俺の中で、その名前が引っかかる。
さっきも聞いた。俺を勘当した”エリート思想の強い”男。
(……あいつが、このクソみたいな経済理論を考えたのか?)
「ふっ……ははっ……」
思わず、俺は笑ってしまった。
「バーナード公爵が……この政策を提案したんですか?」
「そうだ。」
教師が頷く。
「彼は、バーナード公爵家の現当主であり、王国の経済政策にも関わる才覚を持つ人物だ。」
「……なるほど、そういうことですか。」
俺は、ふっと息を吐いた。
(……バーナード公爵。やっぱり、あいつのせいか。)
この世界の経済がこんなレベルの低い考えで動いているのは、あいつが仕切ってるからだ。
バカが、賢いふりをしている。
(俺を”不出来”とか言ってたくせに、こんなバカみたいな理論を平然と広めてるのかよ。)
「レグナード、どうした?」
「いや、何でもないです。」
俺は、椅子に座り直し、教師から目を逸らした。
今、この場で何を言ったところで、この世界の経済システムが変わるわけじゃない。
俺の意見を受け入れる空気もない。
(だったら、今は黙っておくしかないか。)
ただ、確信したことがある。
俺は、バーナード公爵が大嫌いだ。