37話 魚人の代表ナーシャ
アクエルダの一角に、新たに作られた“居住区”。
——いや、“収容所”と呼ぶべき場所だった。
俺は、細い柵の隙間から中の様子を覗く。
「……おいおい、これは……」
そこに広がる光景に、俺は息をのんだ。
夢遊病者のように彷徨う魚人たち。
その身体には、無数の傷跡。
鱗を剥ぎ取られ、血の滲んだ皮膚が露出している者もいる。
すでに何度も収穫されたのか、剥ぎ取るべき鱗すら残っていない者もいる。
収容所の外では、人間たちが鼻をつまみながら通り過ぎていく。
「……生臭いな。」
「これが共存の結果ってわけか。」
「まぁ、魚人どもにしてはマシな暮らしじゃねぇか?」
そんな言葉が、通りすがりの商人や労働者たちの口から漏れる。
俺は、柵越しに一人の魚人をじっと見つめた。
痩せこけた体。
どこを見ているのかわからない、虚ろな目。
この居住区は、確かに“約束通り”水源の近い場所に作られた。
(……これが、お前たちの望んでいた未来か?)
ナーシャがここにいないのが、せめてもの救いだった。
「……おい。」
俺は、柵のそばにいた兵士に声をかける。
「魚人たちは、どうしてる?」
兵士は面倒くさそうに肩をすくめた。
「見ての通りだ。大人しくしてるよ。」
「暴動は?」
「最初は少しあったが、すぐに鎮圧した。……何匹か、見せしめに吊るしてやったら、もう何も言わなくなったよ。」
(なるほど。)
俺は、深く息を吐いた。
「……安心しろよ。」
兵士はニヤリと笑う。
「約束通り、水源の近くに住まわせてやったんだ。……ただ、水の“使い道”がちょっと違うけどな。」
俺は、空を仰ぐ。
(これが、俺が望んだ未来なのか?)
答えなんて、もうわかっている。
「……はは。」
「おい、午後は表彰式だろう?」
柵の外で立っていた兵士が、俺に声をかけた。
「こんなとこでウロウロしてていいのかよ?」
俺はゆっくりと視線を戻し、兵士を見た。
「……表彰式?」
「あぁ、アクエルダの発展に貢献したってことで、お前さんが表彰されるんだろ?」
兵士はニヤリと笑う。
「“名目上”は、新しい住民の前で、って話だがな。」
俺は、もう一度居住区の柵の中を覗き込んだ。
目を伏せ、ただ歩くだけの魚人たち。
もはや何かを訴える気力すらない。
(……新しい住民ね。)
「はは……。」
俺は、乾いた笑いを漏らした。
そうか。俺は今から、ここで苦しむ魚人たちの前で、アクエルダの発展に貢献した“英雄”として、表彰されるわけか。
「……あぁ、そうだったな。」
俺は柵から手を離し、踵を返した。
「じゃあ行くか。」
「おう、せいぜいカッコつけてくれよ。」
兵士は、笑いながら俺の背中を押す。
俺は、振り返らずに歩き出した。
——まるで、何もかも最初から決まっていたかのように。
収容所の丘の上——そこからは、ダムが一望できた。
俺はゆっくりと足を止め、景色を見下ろす。
(……ここで表彰式が行われるのか。)
事前にどんな場所で式典が開かれるのか、確認しておきたかった。
アクエルダの人間たちにとっては誇るべき開発事業の象徴。
だが、俺の横で息を潜める魚人たちにとっては、故郷を奪った憎むべき存在。
(ダムか……。)
陽光を受けて、巨大な堤が鈍く光る。
その水面に、ぼんやりと俺の顔が映っていた。
「レグナード……!」
背後から、掠れた声が聞こえた。
振り返ると、そこにいたのはナーシャだった。
——いや、もはやナーシャだったもの、と言った方が正しいのかもしれない。
彼女の体は、まるで一皮剥がされたかのようだった。
鱗は一枚残らず剥ぎ取られ、皮膚は血と膿が滲んだただれた状態になっている。
元々美しく光っていたはずの青緑色の鱗はどこにもなく、代わりに傷ついた肌が剥き出しになっていた。
歩くことさえままならないのか、彼女はよろめきながら俺の元へとやって来る。
「レグナード……お前……これが……お前のやりたかったことか……?」
俺は彼女の目を見た。
怨嗟、憎悪、絶望——それらが混ざり合いながらも、彼女の瞳の奥にはまだ消えきらない“問い”が残っていた。
俺は、ゆっくりと息を吐く。
「俺は今から、アクエルダの発展に貢献した英雄として、ここで讃えられるんだ。」
「……っ!」
ナーシャが拳を握りしめる。
だが、その拳にはもう力がなかった。
「お前のせいで……アタシの父は殺された……!」
彼女の声が震える。
「お前のせいで……みんな……! みんな……!!!」
俺は、水面に映る自分の顔を見た。
(……どんな顔をしてるんだろうな、俺は。)
「言ったよな……人間なんて信用できないって。」
ナーシャはギリッと歯を食いしばる。
「お前が“協力者”として現れた時、ほんの少しだけ——ほんの少しだけだ……アタシはお前を信じてもいいのかもしれないって……そう思った……!」
俺は黙って聞いていた。
「でも……!! 結局お前も……人間だった!!!」
ナーシャの叫びが、収容所の空気を揺るがした。
その声に反応するように、周囲の魚人たちが、ゆっくりと顔を上げる。
鱗を剥ぎ取られ、血にまみれた体。
焦点の合わない目。
夢遊病者のようにふらふらと歩く彼ら。
その光景に、俺は何の感情も抱かないまま——ただ、笑った。
「行こうか。」
俺がそう言うと、ナーシャは息を呑む。
「お前……人間じゃない……!!」
その言葉には、怒りすらこもっていなかった。
あるのはただ、絶望と——恐怖。
「レグナード……お前は……本物の化け物だ……!!!」
ナーシャが震える声でそう吐き捨てた瞬間——
「ふざけるな!!!」
俺の怒声が収容所に響き渡った。
ナーシャが驚いたように目を見開く。
「化け物……? 俺が? 俺が化け物だって?」
俺は、まるで可笑しさを噛み殺すように唇を歪めた。
「笑わせるなよ……!!」
俺は一歩、ナーシャへと歩み寄る。
「お前ら、鱗を剥がされたくらいで被害者ぶるなよ……!!」
ナーシャが息を呑んだ。
「俺は——“営業マン”だったんだぞ!!!」
俺は胸を叩きながら、言葉を叩きつける。
「朝から晩まで働いて、ノルマに追われ、売上が足りなければ自腹で補填! 客の機嫌を取るために土下座をし、理不尽なクレームを受け、上司には詰められ、休日なんてあってないようなもの! それが俺の“日常”だった!!!」
俺の叫びに、ナーシャは一歩後ずさる。
「“搾取”ってのはな、そういうもんなんだよ!!!」
俺は彼女の肩を乱暴に掴んだ。
「お前ら、少しは人間の気持ちになってみろ!!!」
「……な……に……?」
ナーシャの顔が歪む。
「こっちはな、元々“搾取される側”だったんだよ!!!」
俺はナーシャを睨みつける。
「お前らが“人間に搾取された”とかほざいてるけどな——営業の世界の搾取に比べりゃ、こんなの温いもんだ!!!」
俺の体は、怒りで震えていた。
「こっちはなぁ……!!!」
俺は拳を握りしめる。
「毎日毎日、心をすり減らして……!! それでも働かなきゃ生きていけないんだよ!!!」
「……」
「お前らはいいよなぁ!!!」
俺は思い切り叫んだ。
「鱗を剥がされたくらいで“人間は酷い”って言えるんだから!!!」
「……っ……」
「ふざけんなよ……!!! こっちがどれだけの“搾取”を受けてきたと思ってるんだ……!!!」
ナーシャの顔が引きつる。
「……お前……本気で……?」
俺は、静かに息を吐いた。
「……本気も本気さ。」
俺は、ナーシャの肩を乱暴に突き放す。
「お前らは、今まで“自由”に生きてきたんだろ?」
「……」
「人間は違う。最初から搾取されることを前提に生きてるんだよ……!」
俺は、血走った目でナーシャを見据えた。
「お前らなんかより……俺の方がずっとずっと、搾取され続けてきたんだよ……!!!」
「……」
ナーシャは何も言わなかった。
いや、何も言えなかったんだろう。
彼女の中で、人間に対する“憎しみ”が、根本から揺らぎ始めたのがわかった。
俺は、ふっと笑った。
「ま……とにかく、もう遅いけどな。」
俺は踵を返し、収容所を後にする。
その背中に——
ナーシャのかすれた声が届いた。
「……レグナード……お前……本当に……」
だが、その言葉の続きを、俺は聞かなかった。
俺は突然、背後から押し倒された。
「っ……!!?」
石畳に背中を強く打ちつけられる。
俺の上にのしかかるように、ナーシャが俺を見下ろしていた。
「本当に……本当に自分が“不幸”だと思っているんだったら——」
ナーシャの目がギラリと光る。
「……軽蔑する。」
その言葉に、俺の思考が止まる。
「は……?」
何を言って——
「——さよなら、レグナード。」
ナーシャは俺の上から退くと、一気にダムの柵へと駆け寄った。
「お、おい……っ!!?」
「…………Hlɔ̃‼︎」
ナーシャの声に、収容所にいた魚人たちが一斉に動く。
彼らは、まるで最初から決めていたかのように、柵を飛び越えていく。
「やめろ!!何をするつもりだ!!」
俺の叫びなど、誰の耳にも届かない。
ナーシャは、振り返ることなく——
ダムの縁から身を投げた。
「っ……!!」
水面が砕ける音。
次々と、魚人たちがナーシャに続き、ダムの中へと消えていく。
——その瞬間。
ダムが解放された。
「なっ……!!?」
水門が開いたかのように、ダムの底から水が勢いよく噴き出す。
水流が一気に加速し、轟音とともに濁流が発生した。
「っ……うわぁぁぁぁぁ!!!」
大量の水が流れ出し、まるで獲物を呑み込むように、魚人たちの体を押し流していく。
「な、なんだ!? どうなってる!!?」
兵士たちが慌てふためく。
だが、一人が水面を指差した。
「人が落ちたぞ!!」
その言葉に、周囲が息を呑む。
しかし——
「いや、魚人だ!!」
その一言で、兵士たちは動きを止めた。
「慌てるな、どうせ奴らは……」
誰も助けようとしない。
濁流の中で、魚人たちは必死に抗おうとしていた。
だが、その水流はあまりにも速すぎた。
俺は、その光景を目の当たりにしながら——
「ば……ばーか……!!」
自分でも驚くほど幼稚な罵倒を吐き捨てていた。
「ばーか!!バカバカバカバカ!!」
柵を叩きながら叫ぶ。
「なにやってんだよ!! 死ね!!この恩知らずが!!」
「せいせいする!!!」
俺の声が、ダムの轟音にかき消される。
水面には、もう誰の姿も見えなかった。
俺は一通り罵倒し終えたあと、柵に寄りかかった。
「……っは……はは……!!」
自然と、喉の奥から笑いが漏れた。
最初は乾いた息が漏れるだけだった。
しかし——
「はははははははははっ!!!」
堰を切ったように、俺は大声で笑い始めた。
ダムの水音がまだ轟いている。
空は澄み渡り、陽光が眩しいほどに降り注いでいた。
まるで、何事もなかったかのように。
——結局、頑張っても無意味だった。
「……っく……ふはははは!!」
どれだけ救おうと動いても、どれだけ手を差し伸べても、全部無駄だった。
俺が、どれだけ頭を使い、策を講じ、交渉をしても——
結局、こいつらは“自滅”した。
「バッカみてぇ……本当に……」
俺は額を拭いながら、震える肩を抑えた。
「勝手に助けられたと思って、勝手に裏切られたと思って……結局、死ぬのかよ。」
「だったら、最初から……“黙って搾取されてりゃ”よかったじゃねぇか……」
心の底からそう思った。
俺は、奴らに救いを与えようとした。
最善の選択を考えた。
人間と魚人が共存できるように、居住区を与えた。
それを、「搾取」だと?
お前らは、鱗を剥がされたくらいで被害者ぶって、自らを哀れんで——
結局、全部を放棄して、死んでいったんだ。
「——はは……ばーか。」
俺は柵にもたれかかりながら、息を吐いた。
こんなことなら、最初から何もしなければよかった。
俺がどれだけ動いても、結局、人間は愚かだ。
いや——
人間だけじゃない。
魚人だって、獣人だって、どいつもこいつも愚かで、救いようがない。
「結局、俺だけがバカを見たってわけか。」
陽光の下で、俺は誰にともなく呟いた。




