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34話 共存

 静かな夜。


 俺は、いつの間にか浅い眠りへと落ちていた。


 ——夢の中で、俺は幼い頃の自分に戻っていた。


 水族館の大きなガラスの前。


 澄んだ青い光が、揺らめきながら俺の頬を照らしている。

 目の前には巨大な水槽が広がり、悠々と泳ぐ魚たちの姿があった。


「わぁ……」


 小さな俺が、ガラスに手を当てる。


 父と母が後ろで笑っている。

 水の反射が、彼らの顔をぼんやりと揺らしていた。


「すごいねぇ、ミツイ。」


 母の優しい声。


「ほら、あのエイ、まるで空を飛んでるみたいだろ。」


 父が水槽を指さす。


 俺は、じっとそのエイを見つめた。

 確かに、大きな羽のようなヒレを広げて、水の中を滑るように動いている。


(……すげぇ。)


 幼い俺は、ただただその光景に目を奪われていた。


 水槽の向こう側。

 深い青の世界に、魚たちは静かに漂っている。

 イルカが群れを成し、クラゲがフワフワと浮かび、カラフルな熱帯魚が水草の間をすり抜けていく。


(……ずっと見ていたい。)


 俺は、ガラスに額をくっつける。


 水の向こうは、まるで異世界のようだった。

 あっちの世界の方が、こことは違ってずっと穏やかで、美しくて、何もかもが澄んでいるように思えた。


「ねぇミツイ、どれが一番好き?」


 母が隣で微笑んでいる。


 俺は、少し考えて——


「……あの魚。」


 指さしたのは、一匹の青い魚だった。

 大きなヒレを持ち、光を受けて鱗が煌めいている。


「ふふ、綺麗ね。」


 母は優しく頷く。


 ——その時、魚が俺の方を向いた気がした。


 まるで、俺のことを見ているように。


「……」


 ——そこで、夢は途切れた。


 俺は、ハッと目を覚ました。


 目を覚ました俺は、天井を見つめながらぼんやりと呼吸を整えた。


 水族館——そうか、水族館だ。


 夢の中で見た、あの広大な水槽。

 人間が水の向こうの世界を覗き、魚たちが悠々と泳ぎながら共存していたあの場所。


 人間と魚が共に生きる場所。


 あんな場所を作ることができたら、ナーシャたちのような種族も、人間と対立することなく暮らしていけるんじゃないか?


「……」


 俺は、そっと体を起こした。


 薄暗い部屋の隅では、ミィミとナーシャが静かに寝息を立てていた。


 ミィミは、まるで子猫みたいに小さく丸くなって眠っている。

 長い尻尾がピクリと動き、毛布の端を軽く握っていた。


 ナーシャは、少し違った。

 水辺の生き物特有の習性なのか、体を伸ばし、手足を投げ出すようにして眠っている。

 浅い呼吸が聞こえ、青みがかった鱗が微かに光を反射していた。


(この二人が、同じ世界で幸せに生きられる場所。)


 そんなものが作れるとしたら——水族館しかない。


「……共存するんだ。」


 俺は静かに呟いた。


 ナーシャが言っていた、“人間なんて信用できない”という言葉が頭をよぎる。

 けど、俺は知っている。


 水の向こうの世界は、美しくて、穏やかだった。

 人間が一方的に支配するんじゃない。

 どちらもお互いを知り、同じ場所で暮らしていける——そんな場所を作ればいい。


「……よし。」


 俺は、ゆっくりと拳を握った。


 次の目的は決まった。


 翌日、俺は宿屋の簡素な木の椅子に腰掛け、目の前のナーシャをじっと見つめた。


 ナーシャは腕を組み、少し訝しげな表情を浮かべている。


「……それで? アンタは一体何が言いたいわけ?」


 俺は軽く息を整えたあと、静かに言葉を紡いだ。


「抗議じゃなく、提案をするんだ。」


 ナーシャの瞳が微かに揺れる。


「……は?」


「街に魚人たちの居住区を作る。人間と明確に区分けされた、安全な場所をな。」


「……区分け? なんでそんなことしなきゃいけないのよ。そもそも、あたしたちは人間の土地に住みたいわけじゃ——」


「違う。お前たちは住む場所を奪われたんだ。だったら、奪い返すんじゃなくて、新しい居場所を作るべきだろ?」


「……」


 ナーシャの表情が僅かに曇る。


「お前たち魚人が人間と共存するには、お互いの距離感を理解しなきゃならない。むやみに人間の居住区に入れば警戒されるし、下手すれば迫害される。でも、最初から明確に住み分けができていれば——」


「住み分け……?」


 ナーシャが小さく呟く。


「そうだ。」


 俺は言葉を続けた。


「お前たちは水辺で生きる種族だ。だったら、水路や湖に近い場所を魚人の居住区にする。逆に、人間の居住区は陸地の方に固める。」


「……そんなこと、受け入れてくれると思うの?」


「提案次第だ。」


 俺は、自信を持って言った。


「抗議じゃダメなんだよ、ナーシャ。抗議をすれば、ただのクレーマーにしか見られない。でも、提案をすれば、可能性が生まれる。」


 ナーシャは口を噤んだまま、俺をじっと見つめた。


「お前たちの住む場所がなくなったのは、街のダム建設が原因だ。それはもう変えられない。でも、だからといって何もせず、ただ恨むだけじゃ何も変わらない。」


「……」


「だったら、お前たちがこの街で生きられるように、新しいルールを作るしかないだろ?」


 ナーシャの拳が震えている。


「お前、簡単に言うけどさ……!」


「簡単なんかじゃないさ。」


 俺はナーシャの言葉を遮るように言った。


「それに、俺一人でやるとも言ってない。お前たち魚人が“人間に物を言える立場”を手に入れるには、それなりの後ろ盾が必要になる。だからこそ、この街の権力者に交渉するんだ。」


「……」


 ナーシャはじっと俺を睨みつけるように見ていたが、やがて、ゆっくりと目を伏せた。


「……本当に、そんなことができるの?」


「やるしかないだろ。」


 俺は静かに答えた。


「このままじゃ、お前たちは生きていけないんだから。」


 ナーシャは長い沈黙の後、小さく息を吐いた。


「……やるなら、アンタが全部やれよ。」


「もちろん。」


 俺は微笑んだ。


「お前たちが人間と共存できる場所、それを作るためにな。」


 俺たちは街の中心へと向かった。


 アクエルダ——この街の名は、水の都として知られるだけあって、至るところに水路が張り巡らされていた。澄んだ水が石造りの水道橋を流れ、人々は水辺で日常を過ごしている。


 その中心にそびえ立つのが、この街を統べる権力者の館——アクア・レギア宮。


 豪奢な装飾が施された白亜の建物は、水の都の象徴ともいえる存在だった。

 外壁には精巧な彫刻が刻まれ、青銅の門には、アクエルダの象徴である水龍の紋章が掲げられている。


 俺は、ミィミとナーシャを連れて、その門の前に立った。


「……なんか、すっごい偉そうな場所ね。」


 ナーシャが渋い顔をしながら呟く。


「まぁ、権力者の館だからな。」


 俺は門を見上げる。


「ここの領主に話をつけなきゃ、お前たちがこの街で生きていく道はない。」


「本当に話を聞いてくれるの?」


「聞かせるさ。」


 俺は小さく笑う。


「こっちは“提案”を持ってきたんだ。ただのクレームを言いに来たわけじゃない。」


 ナーシャは不満げに鼻を鳴らしたが、それ以上何も言わなかった。


 俺は、深呼吸をすると、門の前に立つ衛兵に声をかけた。


「領主に会わせてくれ。話がある。」


 衛兵は俺を一瞥し、鼻で笑う。


「予約はあるのか?」


「いや、ない。」


「なら帰れ。領主様はそんな暇じゃない。」


 門の前で立ちふさがる衛兵たち。


(……まぁ、そう簡単にはいかないよな。)


 俺はポケットから、あるものを取り出した。


 魚人の鱗——ナーシャが昨日くれたものだ。


 光を反射し、美しく輝くそれを、俺は衛兵の前でひらひらと見せつける。


「これは、魚人族の鱗だ。」


「……魚人?」


 衛兵の眉がピクリと動く。


「そうだ。この街がダムを作ったせいで、彼らの生活は崩壊した。そのことについて、“話し合い”をしに来た。」


「……」


「それとも、この問題を解決せずに、魚人たちがこの街で暴動を起こしたほうがいいか?」


 俺は、ゆっくりと微笑んだ。


 衛兵は顔をしかめ、もう一人の衛兵と顔を見合わせる。


「……待っていろ。」


 そして一人が門の中へと入っていった。


 ナーシャは俺の横で腕を組み、不機嫌そうに言う。


「なんか、すっごいムカつくやり方。」


「こうでもしなきゃ、門すら通れないだろ。」


「……ま、そりゃそうだけど。」


 俺はゆっくりと門の向こうを見上げた。


 数分後、門の奥へと消えた兵士が戻ってきた。


「領主様が、お前だけなら話を聞くと言っている。」


「……俺だけ?」


「ああ。獣人や魚人は、宮には入れない決まりだ。」


 俺は、後ろを振り返る。


 ミィミとナーシャが、不安そうに俺を見ていた。


「……私も行けないの?」


 ナーシャが腕を組み、険しい表情を浮かべる。


「そういうことらしいな。」


 俺は、わざと軽く笑ってみせた。


「まぁ、ここまで来たら仕方ないだろ。」


「……わかった。」


 ナーシャは不満そうに唇を噛んだが、何も言わなかった。


「ご主人様、気をつけてください。」


 ミィミは、心配そうに俺の服の裾を掴んだ。


「大丈夫さ。」


 俺は、彼女の頭をぽんと軽く叩く。


「交渉ってのは、俺の得意分野だからな。」


 そう言って、俺は一人で門の向こうへと足を踏み入れた。


 衛兵たちが青銅の門を開くと、そこには広々とした庭園が広がっていた。


 噴水が水を湛え、美しく手入れされた花々が咲き誇る。


 その奥には、巨大な白亜の宮殿——アクア・レギア宮がそびえ立っていた。


(さて……この街の“王”とやらは、どんな奴なんだろうな。)


 俺は、領主との会談へ向かうべく、宮殿の中へと足を踏み入れた。


 広大な庭園を抜け、青白い大理石で造られた宮殿の中へと足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。


 外の喧騒とは無縁の静寂が広がり、壁には精巧な彫刻が施され、天井からは巨大な水晶のシャンデリアが吊るされている。


(やれやれ……相変わらず“権力者”ってのは、無駄に贅沢な場所に住むもんだな。)


 俺は小さく息をつきながら、先導する衛兵の背中を追った。


 廊下の両脇には甲冑を纏った兵士たちが立ち並び、無言のまま俺を睨んでいる。


 威圧的な空気を感じながらも、俺はあえて堂々と歩く。


(営業マンの頃もそうだった……強い奴ほど、弱い奴を試す。)


(ここで怯んだら、交渉の主導権は握れない。)


 俺は背筋を伸ばし、一歩ずつ確実に歩を進めた。


 そして——


「ここだ。」


 衛兵が立ち止まり、重厚な扉の前で告げた。


 扉には、黄金の装飾が施され、その中央には“水神アクエルダ”を象った紋章が刻まれている。


 アクエルダ——この街の名の由来であり、水の恵みを司る神。


(……なるほどな。この街の連中は、“水”を神聖視してるってわけか。)


 俺は一瞬だけ扉の紋章を眺めた後、衛兵に頷いた。


「開けてくれ。」


 衛兵が両手で扉を押し開く。


 ゆっくりと軋む音が響き、広間の中が視界に広がった。


 そこは、まさに権力者たちの巣窟だった。


 長い楕円形のテーブルを囲むように、10人ほどの男たちが座っている。


 全員が貴族然とした身なりをしており、豪奢な刺繍の施されたローブを纏い、金や銀の装飾品を身につけている。


 室内には、香木の薫る煙が立ち込め、壁には緻密な地図や水路の設計図が掲げられていた。


 テーブルの中央には、大きなガラス製の水盤が置かれ、静かに水が満ちている。


 その光景を見た瞬間、俺は理解した。


(この水盤は……“象徴”だ。)


(この街の支配者たちは、水の流れを握ることで、権力そのものを支配している。)


 俺が足を踏み入れると、男たちの視線が一斉に俺へと向けられた。


 中には胡散臭そうに目を細める者もいれば、露骨に不快感を示す者もいる。


(歓迎されてねぇのは、まぁ予想通りか。)


 だが、俺は動じず、ゆっくりと前へ進み、堂々とした態度でその場に立った。


 その瞬間、会議の中心に座っていた男が口を開いた。


「さて、聞こうか……“異邦人”よ。」


 鋭い目をした、威厳のある壮年の男。


 この場にいる誰よりも高級なローブを纏い、その指には“アクエルダ公爵”の印章が刻まれた指輪がはめられている。


 この男が——アクエルダ公爵か。


 俺は、一瞬だけ間を置き、軽く会釈をした。


「光栄です、公爵閣下。」


「……用件を聞こう。」


 公爵の低く重い声が、会議室に響いた。

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