22話 手となり、脚となる
スネージヤは、震える手でパンを掴み、獣のように貪り食った。
泥にまみれ、髪は乱れ、唇は乾き切っていた。
喉が詰まりかけても、水すらないのか、無理やり飲み込んで咳き込む。
(……まぁ、こんな環境じゃな。)
極度の飢餓と寒さにさらされ、死の淵をさまよっていた時に、俺が現れた。
そりゃあ、安堵するだろう。
そして、次に来るのは——
「お願い……です……」
スネージヤは、ボロボロになった身体で俺の足元にすがりついた。
「……わたしに……もう一度……チャンスをください……!!」
凍えた指が、俺の裾を掴む。
「もう何でもします……!! わたし、捨てられたくない……!! ここで死にたくない……!!」
俺は腕を組みながら、彼女を見下ろした。
(……なるほどな。)
この環境で限界を迎え、死を覚悟したところに、俺が現れた。
そりゃあ、すがりつくしかない。
「……色々命乞いをする前に、よく考えろよ。」
俺は、じっくりと彼女の顔を見つめる。
「お前が”あの時”何をしたか、覚えてるか?」
スネージヤの顔が、一瞬引きつった。
「……お前のせいで、ラゼルは脚を失うかもしれない。」
俺の言葉に、スネージヤの瞳が揺れる。
「わかるか? これは”お前の責任”だ。」
「……っ!」
スネージヤは、涙を堪えるように唇を噛む。
「だったら……お前がラゼルの”脚”になれ。」
俺は冷たく言い放った。
スネージヤは、目を見開く。
「……え……?」
「お前が”ラゼルの代わりに”動くんだよ。」
「な……」
「お前がラゼルの脚になって、俺のために働くんだ。」
俺は、膝を折ってスネージヤの顔を覗き込む。
「お前が償えるのは、それしかねぇ。」
「……っ!」
スネージヤは、息を呑んだ。
しかし——
「……なります!!」
彼女は、咄嗟に叫んだ。
「なりますから!! ……助けてください!! ……捨てないで……!!」
泣きながら、何度も頭を下げる。
俺は彼女を見下ろしながら、しばらく黙っていた。
(……まぁ、当然だよな。)
死にかけて、追い詰められて、“生きるための選択肢”がこれしかなければ、誰だってそうする。
「……よし。」
俺は、静かに頷いた。
「じゃあ、ついてこい。」
スネージヤは、涙を流しながら、必死に頷いた。
翌日——
俺は工具店へ足を運んだ。
店の中には、鉄や革、木材が並び、奥には鍛冶場のようなスペースが広がっている。
カウンターの向こうで、無精ひげを生やした鍛冶屋の親父が、何やら金属を削っていた。
「……ん? なんだ、坊主。」
俺は黙って図面を広げる。
「これ、作れるか?」
鍛冶屋の親父は、手を止め、図面をじっくりと眺めた。
「……おいおい、これは……」
目を丸くしながら、図面をなぞる。
「赤ん坊をおんぶする奴か?」
「まぁ……大人の女性をおんぶする奴だと思ってくれればいい。」
親父は、俺の顔を怪訝そうに見た。
「……ふーん。」
「どういう趣味だ?」
俺は何も言わず、懐から札束を取り出し——
ドン。
机の上に叩きつけた。
親父の目が金額を見て、一瞬だけ細くなる。
「……まぁ、やるけどさ。」
親父は図面をもう一度眺めながら、呆れたように笑った。
「変わった注文だな、坊主。」
「こっちにも事情があるんだ。」
「……なるほどな。」
親父は、顎を撫でながらニヤリと笑う。
「ま、金払いのいい客に理由を聞くほど野暮じゃねぇよ。」
「納期は?」
「そうだな……一週間ってとこか。」
「……三日で頼む。」
「無茶言うな。」
俺は、再び札束を取り出す。
「……三日で頼む。」
親父は鼻を鳴らしながら、札束を見つめた。
「へへ、しょうがねぇな。」
そして、図面を巻き取りながら、にやりと笑う。
「金の力ってのは、やっぱすげぇな、坊主。」
「だろ?」
俺は、軽く肩をすくめた。
(これで準備は整う。)
ラゼルはまだ終わっていない。
俺は、店を後にした。
医師の元へ向かった。
病院の受付を通り過ぎ、俺はずかずかと診察室へと踏み込む。
医師はまだ俺の顔を見るなり、うんざりしたようにため息をついた。
「……今度は何だ?」
俺は無言でスネージヤを前に押し出す。
彼女は虚ろな目をして、ただ震えていた。
「コイツの腕を切り落とせ。」
医師の顔が一瞬固まる。
「……は?」
「言っただろ? こいつの腕を切り落とせ。」
医師は額を押さえ、苛立ったように息をついた。
「お前……何を言ってる?」
「俺は正気だよ。」
俺は淡々と言いながら、懐からまた札束を取り出した。
「……お前さんの仕事は”治す”ことだろうが、今回は違う。“制限”を加えるんだ。“二度とラゼルみたいなことをさせない”ために。」
医師は、俺の目をじっと見つめた。
「ラゼルじゃない……?」
「そうだ、ラゼルさんじゃない。」
俺はスネージヤを指差した。
「コイツだよ。」
スネージヤの肩がビクリと震える。
「お前、正気か……?」
医師は訝しげに俺を睨んだ。
「こいつには”前科”がある。」
俺はスネージヤの頭を押さえつけるように掴む。
「一度、ナイフで人を刺した。“裏切った”。だから、その手を二度と使えないようにする。」
スネージヤは、ゆっくりと俺を見上げた。
「……っ……。」
青白い顔をしたまま、唇がわなわなと震える。
「ご……ごめんなさい……」
か細い声が漏れた。
「もう、しません……っ……! 許してください……!」
「いや、許さないよ。」
俺は冷たく言い放つ。
「俺は、ミィミが馬車を引く姿を見て、着想を得たんだ。」
俺はスネージヤの両肩を掴み、耳元で囁くように言った。
「お前の罪は、“それくらい”じゃ償えない。」
スネージヤの喉がかすかに震え、涙が頬を伝う。
「——お前は、今後の生涯を”ラゼルを運ぶ”ことに費やせ。」
「っ……!!」
「それくらいの罪滅ぼしは、しろよ。」
スネージヤの唇が震えた。
「……いや……いやだ……っ!!」
俺は、無言で医師を見つめる。
医師は、冷や汗をかきながら俺とスネージヤを交互に見た。
「……本気でやるのか?」
「本気だよ。」
俺は金の束を握りしめ、机の上に放り投げた。
「さぁ、仕事の時間だ。」
スネージヤの絶叫が、診察室に響いた。
ラゼルの退院の日。
俺は病院の前で待ち構え、大きく手を叩いた。
「ラゼルさん! おめでとう!」
拍手をしながら、にっこりと笑う。
「おう! でも、ちょっと恥ずかしいな……。」
ラゼルは気まずそうに頭を掻きながら、周りを見渡した。
しかし——
周囲の視線は、彼女ではなく”あるもの”に釘付けだった。
「……すごい光景だろ?」
俺は満足げに笑う。
金属の鎧に包まれた”甲冑”
しかし、それは”空”ではない。
ラゼルを抱えているその機構の内部には、かつて王女だった少女が埋め込まれている。
「……これが、スネージヤか。」
ラゼルが腕を軽く動かすと、それに合わせて甲冑が微かに揺れた。
「すごいだろ?」
俺は、自慢げにラゼルの肩を叩いた。
「鍛冶屋に無理を言って、たった三日で作らせたんだ。」
「……三日で、な。」
ラゼルは軽く笑いながら、ゴツゴツとした”義肢”を眺める。
「右に行け、左に行け、止まれ、走れ——」
「全部、電極から流れる微弱電流で指示できるようになってる。」
俺は、ラゼルに埋め込まれた操作装置を指さした。
「お前が”ボタン”を押せば、スネージヤはお前の思い通りに動く。」
ラゼルは、ゆっくりと”そのボタン”に指を伸ばした。
——カチッ
「……ッ!!」
微かに金属が揺れ、中から苦痛に満ちた声にならない声が漏れた。
「……目まで塞ぐ必要はあったのか?」
ラゼルが低く尋ねる。
「目だけじゃないよ。」
俺は、にやりと笑った。
「“喉”も潰してる。もう言葉を発することはできない。」
「……」
「でも安心しろよ。直接、“喉から”食料を流し込めるようになってる。」
「……本気かよ、お前。」
ラゼルは呆れたようにため息をついた。
俺は、満足げに腕を組みながら、スネージヤを”支える”その甲冑を見つめる。
「これで、お前はまた戦場に出られる。」
「……そうだな。」
ラゼルは、皮肉げに笑った。
「最高の”脚”を手に入れたよ。」
俺は、彼女の肩を軽く叩いた。
「お前が戦う限り、こいつは”脚”であり続ける。」
「……ま、私も”歩ける”なら、それでいいさ。」
そう言って、ラゼルは”スネージヤ”を操り、ゆっくりと歩き出した。
街角で、ラゼルと並んで歩いていた。
夕陽が傾き、街の影が長く伸びる。
俺は何気なく横を見て、ラゼルの顔を覗き込んだ。
「……そういや、ラゼルさん。」
「ん?」
「これから、どうするんですか?」
ラゼルは、足を止めた。
カチッ。
微かな電子音とともに、甲冑の内部からくぐもった呻き声が漏れる。
スネージヤも、ラゼルと完全に同期する形で動きを止めた。
「……もう、傭兵は引退することにした。」
ラゼルは、そう呟いた。
「……え?」
「傭兵は、辞める。」
俺は、驚いてラゼルの顔をまじまじと見る。
「なんでですか?」
「見てみろよ。」
ラゼルは、両腕を広げて、自分の姿を示した。
金属に覆われた”義足”——
そして、それを支える”生きた甲冑”。
「……この姿じゃ、カッコはつかねぇだろ。」
「……」
俺は、言葉を失った。
それは——
“傭兵としての生命を絶たれた”ことを意味していた。
「……マジかよ。」
「マジだよ。」
ラゼルは苦笑する。
「戦場で剣を振るうなら、最低限”独りで”立っていられなきゃならねぇ。」
「……」
「“誰かに支えられなきゃ戦えない”時点で、もう私は傭兵じゃねぇんだよ。」
俺は、静かに息を飲んだ。
ラゼルの手が、甲冑のボタンをゆっくりと押す。
カチッ
「……ッ、……」
スネージヤの内部から、くぐもった苦痛の呻き声が響く。
そして、完全に動きを止める。
夕陽の影に浮かぶ、その異様な姿。
ラゼルは、片手を腰に当て、遠くを見つめながら小さく息を吐いた。
「……お前の気持ちは嬉しいよ、お前は世界で一番優しい男だ……」
「……」
俺は、その横顔を見つめていた。
ラゼルは、ゆっくりと俺の方を向いた。
そして——
「……達者でな。」
そう言って、俺を抱きしめた。
驚く暇もなく、ラゼルの腕がしっかりと俺の背を叩く。
それは、まるで別れを告げるような、いや、確実に”別れ”を告げるものだった。
「ちょ、ラゼルさん……?」
俺が戸惑う間にも、彼女は俺の背を離れ、ボタンを押す。
——カチッ。
微かな電子音が響き、スネージヤの内部から苦しげな呻き声が漏れる。
「……ッ、……」
スネージヤは”歩き出した”。
ラゼルを背負ったまま、彼女は大通りへと足を向ける。
その歩みは遅い。
しかし確実に、俺の視界から遠ざかっていく。
俺の心臓が、妙に騒ぎ始めた。
「……ラゼルさん?」
無意識に、俺は手を伸ばしていた。
(何かがおかしい。)
(いや、これは——“絶対に止めなきゃいけないこと”だ。)
「待て!! ラゼルさん!!」
俺は駆け出した。
しかし、その瞬間——
——いななく馬の鳴き声が響いた。
「ッ……!!」
街の喧騒が、一瞬で掻き消えたような感覚だった。
人々が振り向く。
俺の視界の端に映るのは——
大通りを全速力で駆ける馬車。
カッ、カッ、カッ、カッ——!!
鉄の蹄が石畳を打ち鳴らし、車輪が地を擦る音が響く。
御者が必死に馬を制御しようと手綱を引いているが、暴走する馬は止まらない。
ラゼルは——その進路上にいた。
「ラゼルさんッ!!」
俺の叫びが響く。
ラゼルは、ゆっくりと振り返る。
「———」
瞬間、鉄と鉄とがぶつかる激しい音が、街中に響いた。
ガッシャァァァァン!!
「……ッ!!」
俺は足を止める。
目の前で、馬車の勢いが止まった。
しかし、それは”止まった”のではなく——ぶつかった”衝撃で跳ね上がった”のだ。
ラゼルの乗った”スネージヤ”が、真正面から”馬車の車輪”を受け止めた。
「ラゼルさんッ!!」
俺は駆け寄る。
馬車の御者が転げ落ち、馬が驚いていななく。
周囲の人々が悲鳴を上げる。
俺は、瓦礫のようになったスネージヤの装甲の間から、ラゼルの姿を探した。
——そして、見つけた。
血を吐きながら、満足そうに微笑むラゼルの顔を。
「……やれやれ。」
「ラゼルさん!!」
「……レグナード。」
ラゼルは、壊れたスネージヤの内部で、力なく笑う。
「最後まで、“歩けた”よ。」
俺の手が、震える。
「……何、言ってんだよ……。」
ラゼルは、壊れた甲冑の中で、ゆっくりと目を閉じた。
「ラゼルさぁぁぁぁん!!」
俺の叫びが、大通りに響いた。
崩れ落ちるように、俺は地面に膝をつく。
瓦礫のようになったスネージヤの”装甲”の間に、彼女は埋もれていた。
薄汚れたロングコート。
血で滲んだ胸元。
そして、壊れた義肢を支えるかのようにかろうじて繋がった”脚”——。
「くそ……っ……!!」
俺は、震える手を伸ばす。
だが、その時だった。
——ポツッ。
ひんやりとした感触が、頬を打つ。
「……?」
見上げると、灰色の雲が空を覆っていた。
——雨が降り始めた。
最初は、小さな滴だった。
だが、すぐにポツ、ポツ、と地面を叩く音が増えていく。
石畳に黒い染みが広がり、瓦礫に張り付いた血を溶かし、にじませる。
「……はは……」
喉が、乾いた笑いを漏らした。
(何だよ、これ……。)
(まるで、“劇的な場面”みたいじゃねぇか……。)
俺の指先が、ラゼルの頬に触れる。
「ラゼルさん……」
彼女の目は、わずかに開いていた。
ぼんやりとした瞳。
光が、少しずつ薄れていく。
「……やれやれ……最後まで、“歩けた”よ……。」
「バカなこと言ってんじゃねぇ……! まだ、お前は……!!」
俺は必死に、彼女の身体を揺さぶる。
しかし、ラゼルは力なく笑うだけだった。
雨が、彼女の額を濡らしていく。
「……レグナード。」
俺の名を呼ぶ声は、まるで囁きだった。
「お前……どこまで行くんだ……?」
「……どこ……?」
「お前の”道”は……どこに向かってるんだ……?」
ラゼルの指先が、俺の胸を軽く突く。
「……教えてくれよ……最後にさ……。」
俺は、言葉に詰まる。
(……道?)
(俺の、“行く先”……?)
俺は、自分の手を見下ろした。
血まみれの手。
誰かを犠牲にし、利用し、踏み台にして、掴み取った”今”。
「……俺は……」
答えようとした瞬間——
ラゼルの瞳から、光が消えた。
俺の胸に押し当てられていた手が、力なく落ちる。
「……ラゼル……さん……?」
返事はなかった。
代わりに、ただ——
雨が降り続けるだけだった。
頬に流れるのが、雨なのか、それとも別のものなのか、もう俺にはわからなかった。