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2話 祝勝会

 午後五時。

 営業車を事務所の駐車場に滑り込ませる。


 外はすでに夕暮れ。オレンジ色の光が、ビルの窓ガラスに反射している。

 車のエンジンを切ると、事務所のガラス窓越しに人影が見えた。


 (あー、またあいつがいる……)


 ミツイは車を降り、重い足取りで事務所の扉を開けた。


 「おう、ミツイゥゥゥ!!」


 ガラッと扉を開けた瞬間、耳をつんざくような声が響いた。


 入り口に立っていたのは、営業課長・村松(42)。

 顔は四角く、鼻の穴はデカく、首はない。

 脂ぎったスーツを着こみ、胸ポケットには意味不明に派手なブランドペンを挿している。


 ミツイの天敵だった。


 「おいおいおい! お前、なにその顔! 鏡見たことあんのかぁ?」


 村松は、ニヤニヤしながらミツイの顔を眺める。


 「相変わらず寝不足で死にそうな顔してんなぁ!? クマっ! クマがすげぇぞ! パンダか!? ん!?」


 近くにいた同僚たちが、視線をそらす。

 誰も助ける気はない。


 「しかもお前、そのスーツよ! ダッセェなぁ!? なにそれ、オヤジの形見か? あぁ!?」


 村松はバカにするように大笑いし、近くのデスクをバンバン叩く。


 「マジでお前さぁ、見た目からして売れない営業マンって感じだよなぁ〜? まぁお前、実際売れてねぇけどな! ギャハハハ!!」


 事務所の空気が、より一層気まずくなる。

 誰も村松に逆らえない。


 (……クソが。)


 ミツイは内心で舌打ちする。

 こいつは、基本的に弱い者いじめが好きなタイプだ。


 「で? お前、今日もゼロ件かぁ?」


 バカにしたように言う村松。

 だが、ミツイは無表情のまま、淡々と答えた。


 「……いえ、1件契約取りました。」


 村松の顔が、一瞬固まる。


 「……ん?」


 事務所内の空気が変わる。

 同僚たちが、「え?」という顔でこちらを見た。


 「な……なんだお前、やるじゃねぇか!?」


 村松は突然、態度を変えた。


 「お前もやればできるんじゃねぇかぁ!? そうだよ、お前、やりゃあできるんだよ!!」


 先ほどまでの嘲笑はどこへやら。

 村松は「お前はできる男だ!」と言わんばかりに、バンバンとミツイの肩を叩いてくる。


 「いやぁ、お前もついに営業マンらしくなってきたなぁ! いいぞいいぞ! これで今月はまだ希望が持てる!」


 (……手のひら返しが露骨すぎんだろ。)


 ミツイは心の中で皮肉を呟く。

 結局、営業の世界では数字がすべて。

 契約を取れば持ち上げられ、取れなければゴミ扱い。


 そしてミツイは知っている。

 明日また契約が取れなければ、村松は再び罵倒してくるだろう。


 (……ほんと、くだらねぇ世界だ。)


 褒められても、まったく嬉しくなかった。


 「お前もやればできるんじゃねぇかぁ!?」


 村松が態度を一変させると、事務所の空気が一気に明るくなった。


 「おっしゃー! ミツイが契約取ったぞー!」


 「マジか!? すげぇな!」


 「いや〜やるとは思ってなかったわ、クソー、負けた!!」


 「ちょ、俺さ、実は今日ミツイがゼロ件って賭けてたんだけど! くそっ! 取ってくんなよ〜!」


 「でもマジでやるじゃん、お前!」


 パチパチパチ……!


 事務所内に拍手が響く。

 さっきまでの重苦しい雰囲気は一変し、みんなが笑顔になっている。


 (……は?)


 ミツイは、その光景を冷めた目で見つめた。


 (なんだこいつら……馬鹿にしやがって。)


 ついさっきまで「無能扱い」していたくせに、1件取っただけでこの手のひら返し。くだらない。


 「よーし、今日はみんな定時で上がるぞ!」


 村松が大声で言い、事務所がさらに盛り上がる。


 「軽く祝勝会でもすっか!」


 「いいね〜! たまには飲みに行くか!」


 「ミツイの契約祝いだな!」


 「ははっ、主役登場って感じ?」


 周りのノリに、ミツイは返事をする気にもならなかった。


 「ミツイ、この調子でいいんだ。」


 村松が満足げに言う。


 「来月もよろしく頼むぞ!」


 ——その瞬間だった。


 ミツイは、限界だった。


 (……IQが10違うと、ここまでレベルが低いんだな。)


 こいつらは「契約が取れた」ことだけを評価する。

 そこに至る過程も、理屈も、何も理解していない。

 ただ、結果が出れば良い。それだけ。


 (……まぁ、それが営業ってもんか。)


 分かっていた。

 分かっていたはずなのに——


 気づけば、涙が頬を伝っていた。


 「あれ? ミツイ、泣いてる?」


 「え、まじ? 嬉し泣き??」


 「いや〜、分かるよ! 初契約のときって感動するよな!」


 「頑張ったもんな! うんうん!」


 「ミツイ、今日のことは忘れんなよ! 営業は結局、気持ちで取るんだよ!」


 「泣くほど嬉しいってのは、本当にやりがい感じてる証拠だな!」


 ミツイの涙を、周囲は感動の涙だと勘違いしていた。


 (……くそ、ちげぇよ。)


 ミツイは奥歯を噛みしめた。


 これは、自分が選んだ道の果ての絶望だった。




 居酒屋。


 焼き鳥の煙が立ち込め、テーブルの上には次々とジョッキが並ぶ。

 「乾杯!」と何度もグラスがぶつかり合い、騒がしい笑い声が飛び交う。


 ——だが、ミツイは知っていた。


 (ほらな。やっぱり、俺のことなんかすぐに忘れる。)


 事務所では「ミツイの祝勝会」みたいな空気だったが、居酒屋に着いた途端、話題は別の方向へ飛んでいた。


 「この前のゴルフ、マジでスコア悪くてさ〜!」


 「課長、またOB出したんすか? ウケる!」


 「この前、新しいラーメン屋行ったんだけどさ、マジうまかった!」


 俺の契約? もう誰も話していない。

 所詮、営業会社なんてこんなもんだ。


 (……バカみてぇ。)


 ミツイは黙って、隅っこの席で酒を飲む。

 ビールの苦味が、より一層虚しさを際立たせる。


 「ねえ、ミツイくん。」


 不意に声をかけられた。


 顔を上げると、そこには同僚の女・佐々木がいた。

 ショートカットで、メイクは薄め。営業成績は普通。

 特別美人というわけでもないが、職場ではそれなりに人気があるタイプ。


 「やったじゃん。契約、取れたんでしょ?」


 ジョッキを片手に微笑む。

 ほんのり赤らんだ頬が、照明の光に映えていた。


 (……なんだこいつ。)


 ミツイは眉をひそめた。


 他の奴らは俺をすぐに忘れたのに、こいつはわざわざ話しかけてくる。


 もしかして、俺に気があるんじゃないか?

 いや、違うか。単なる気まぐれか? あるいは「同期だから話しかけてやろう」みたいな浅い親切心か?


 「……まあな。」


 ミツイはジョッキを傾け、少しだけ余裕のある表情を作った。

 ここで「いや、たまたまだよ」とか謙遜するのは負けだ。

 女に対しては「俺はすごい」感を出していくべき。


 「でもさ、契約取れて良かったよね。これでちょっとは自信ついたでしょ?」


 佐々木が軽く笑う。


 (何が「自信ついたでしょ?」だ。)


 ミツイは、薄ら笑いを浮かべながら口を開く。


 「なぁ、佐々木。IQって知ってるか?」


 「え?」


 佐々木の表情が、一瞬止まる。


 「IQ。知能指数のことだよ。」


 ジョッキを置き、腕を組む。


 「人間のIQっていうのは、基本的に100を基準としている。130以上になると、全人口の上位2%に入るんだよな。」


 「……あ、うん。そうなんだ。」


 佐々木の笑顔が、ほんの少し引きつる。


 「で、俺のIQは130なんだよ。」


 「えっ……?」


 「つまり、俺は上位2%の人間ってこと。」


 ミツイは、**「俺はお前らとは違う」**というオーラを醸し出す。

 知性の格の違いを見せつける。


 佐々木は、返事に困ったように曖昧に笑った。


 「へぇ、すごいね……」


 「だからさ、営業ってのは単に根性とか運じゃないんだよ。」


 ミツイはジョッキを片手に、ゆっくりと揺らしながら続ける。


 「営業は心理戦。人の思考を読み、感情を操作するゲームなんだ。俺が今日契約を取れたのも、そういうこと。」


 「……そ、そっか。」


 佐々木は、明らかに距離を取るように微笑んだ。


 (……ん?)


 なんだこの空気。


 ミツイは、佐々木の顔を見た。

 先ほどまでの和やかさが消え、どこか引いたような雰囲気を感じる。


 (……おかしいな。)


 論理的に考えれば、IQ130の俺が凡人相手に優位性を示すのは当然のこと。

 むしろ尊敬されるべきじゃないのか?


 なぜか、女はこういう話をするとドン引きする。


 「ま、まぁ……頑張ってね。来月も……」


 佐々木はそう言い残し、ジョッキを持ってそっと席を離れた。


 (……なんだよ、クソが。)


 ミツイは、ジョッキの中の酒をグッと飲み干した。


 (俺の何が悪いってんだよ。)


 しかし、周りを見れば、誰も気にする様子はない。

 みんな、ミツイのことなど気にせず、また別の話題で盛り上がっていた。


 結局、ここでも——


 俺は孤立するのか。



 飲み会が終わる頃、佐々木と俺は二次会には行かず、一緒に帰路についた。


 他の連中は「カラオケ行こうぜ!」「まだまだ飲むぞ!」と騒いでいたが、俺は興味がなかったし、佐々木も「私は帰るね」と静かに言っていた。


 特に約束したわけじゃない。

 ただ、偶然、帰る方向が同じだった。


 夜の街は、昼間とは違う雰囲気を纏っていた。

 ネオンの光が道路を染め、車のヘッドライトが行き交う人々の影を長く引き伸ばす。


 佐々木は、歩きながらスマホをいじっていた。


 「……ねぇ、さっきのIQの話だけどさ」


 不意に、佐々木が口を開いた。


 「色々調べてみたんだけど……IQ130って、やっぱりすごいんだね。」


 彼女はスマホの画面を見せてきた。

 そこには「IQ130の人間は上位2%」「天才と呼ばれるレベル」といった情報が並んでいる。


 「うん、まぁな。」


 俺は、当然のことを言われたかのように、軽く肩をすくめた。


 「でも、IQって単に記憶力とか思考力だけじゃなくて、論理的な問題解決能力とか、創造力とか、色々な側面があるんだって。」


 「まぁ、それくらい知ってるよ。IQっていうのは単なる学力とは違うんだ。問題を素早く解決する能力、パターンを見抜く力、論理的に考える力——そういうものの総合的な指数だからな。」


 俺は、得意げに語る。


 「そもそも、現代の社会ではIQの高いやつほど成功する傾向がある。過去の歴史を見ても、優れた科学者や発明家、経営者の多くがIQの高い人間だった。例えば、アインシュタインはIQ160以上と言われているし——」


 「ふふっ」


 「……何が可笑しい?」


 佐々木は、俺の話を遮るように笑った。


 「ううん、ただ……やっぱりミツイくんって、頭いいんだなぁって。」


 彼女は、俺を見上げて、本当に素直そうな顔で微笑んでいた。


 (……なんだ、この感じ。)


 少しだけ、気分が良くなる。


 「まぁな。俺は、ただの凡人とは違うから。」


 つい、言葉が強くなる。

 この会社の連中とは違う。IQ100程度の凡人どもとは、根本的に世界の見え方が違うのだ。


 佐々木は「ふーん」と頷きながら、スマホをいじる手を止めた。


 そして——


 「でもさ、治さないといけないところは治さないとね。」


 ——一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 「……は?」


 佐々木は、表情を変えずに続ける。


 「そのIQの高さとか、知識がすごいのは本当に分かったよ。でもさ、なんていうか……もうちょっと周りの人と、上手くやる努力をしたほうがいいと思う。」


 何かが頭の中で弾けた。


 「……おい。」


 「だって、ミツイくんって、ちょっとだけ……その、偉そうに見えちゃうっていうか……」


 「ふざけんなよ。」


 俺は、無意識に拳を握っていた。


 「偉そうに見える……? じゃあ、何か? 俺は自分の知識を誇ることも許されねぇのか? せっかくお前が興味を持った話をしてやったんだろ? それを偉そうとか言われる筋合いねぇんだよ。」


 「ちょ、ちょっと……」


 佐々木は、困ったような顔をする。


 「俺はな、今まで散々バカどもに囲まれて生きてきたんだ。俺のほうが頭が良いのに、周りのバカのほうが評価される。それがどれだけ理不尽か、お前に分かるか?」


 「ミツイくん、そんなつもりで——」


 「もういい!!」


 俺は、思いきりその場から走り出した。


 佐々木の「待って!」という声が聞こえたが、もうどうでもよかった。

 足音が夜の静けさに響く。


 (くそっ、くそっ、くそっ!!)


 結局、どこへ行ってもこうだ。

 俺のIQは高い。俺は頭がいい。

 だけど、社会は馬鹿が生きやすいようにできている。


 知性がある者は、なぜか「偉そう」だの「鼻につく」だの言われ、

 知性がない者ほど「親しみやすい」だの「可愛げがある」だのと評価される。


 ——こんな社会、クソだろ。


 気づけば、俺はコンビニの前にいた。


 店に入り、適当に缶ビールを2本買った。


 コンビニの駐車場に座り込み、プシュッと缶を開ける。


 ゴクッ……ゴクッ……!


 苦い酒が、喉を焼くように流れ込む。


 「……ちくしょう。」


 缶を地面に置き、顔を覆う。


 アルコールが体に回り、足元がふらつく。


 千鳥足になりながら、俺は夜の街をさまよい歩いた。

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