17話 嘘
「ついてきな、坊や。」
ラゼルは俺の手を軽く叩くと、くるりと踵を返し、歩き出した。
迷いのない足取り。まるで”俺がついてくるのが当然”とでも言わんばかりの態度だ。
ミィミはリュックを抱えたまま、俺を不安そうに見上げた。
「ご主人様……?」
「ああ、大丈夫だよ。」
俺は、ミィミの頭を軽く撫でてやりながら、ラゼルの背中を追った。
たどり着いたのは、街の片隅にある古びた酒場。
木造の扉を押し開けると、むせ返るような酒の匂いと、低い笑い声が耳を打った。
中には、明らかに俺たちとは場違いな連中がいた。
——ごつい体格の男どもが、乱雑に酒をあおる。
——壁には、見慣れない紋章の刻まれた剣や盾が掛けられている。
——カウンターの奥には、胡散臭い店主がグラスを磨きながらこちらをちらりと見た。
俺たちが店内に足を踏み入れた瞬間——
ぴたりと、空気が変わった。
いかつい男たちが、俺たちを見る。
(ああ、そういうことか。)
この場にいるほとんどの連中が、俺とミィミを”余所者”だと見抜いた。
敵意ではないが、強烈な警戒の視線。
中には、あからさまに眉をひそめ、舌打ちをする奴もいる。
「……おい、ラゼル。どこから拾ってきたんだ、そいつら?」
カウンターで酒を飲んでいた男が、低い声で言った。
黒い皮のジャケットに、露骨な傷跡。
腕には、何かの組織の印らしきタトゥーが刻まれている。
(傭兵か、流れ者か……まぁ、ここはそういう連中の溜まり場ってことか。)
ラゼルは、気にも留めずカウンターに腰を下ろす。
「拾ってきたって言い方はやめな。ちょっと気になる奴ってだけさ。」
「ふん……」
男は俺を値踏みするようにじろりと見た。
「ガキじゃねぇか。」
「獣人連れで、しかも貴族崩れか? そんなのを連れ回して、何が面白ぇんだ?」
男の言葉に、周囲の奴らがクスクスと笑う。
(なるほど……“獣人を連れている”ってだけで、俺はすでに一つ格を下げられているわけだ。)
それに、俺が”貴族出身”だと、すぐに見抜いたのも気に食わない。
俺は、ゆっくりと男を見返す。
「……貴族崩れとは、よく見抜きましたね。」
「そりゃな。坊ちゃんの顔には”元々いい暮らししてました”ってのが滲み出てるぜ。」
男は、にやりと笑いながら酒をあおる。
「で、何しに来たんだ?」
「ラゼルさんに飯を奢ってもらうだけですよ。」
俺は、さらりと答えた。
「何か問題でも?」
男は、ふっと鼻で笑った。
「まぁいいさ。ただし、ここにいる以上は、“余所者”って自覚は持っとけよ。」
俺は、軽く肩をすくめた。
(ああ、わかってるとも。)
(俺みたいな奴は、こういう場では”異物”だってことくらい。)
だけど——
俺は、自分のリュックを抱えたままミィミを守るように腰掛け、ラゼルを見た。
「……さて、何を食べさせていただけるんでしょうか?」
「ははっ、ずいぶん余裕だねぇ。」
ラゼルはニヤッと笑い、カウンターの奥の店主に声をかけた。
「酒と肉を頼むよ。こいつの分もね。」
「へぇ、随分と気前がいいじゃないか。」
俺は、片眉を上げながら笑った。
「まぁね。」
ラゼルは、俺を見つめる。
「——あんたの”本性”を見させてもらうためさ。」
(……ほう?)
ここからが本番、ということか。
俺は、店の空気を感じながら、ゆっくりと椅子に深く座った。
ラゼルは、俺とミィミの前にどっかりと腰を下ろすと、カウンターの店主に向かって指を鳴らした。
「酒を持ってきな。こいつと私の分、たっぷりと。」
「は? 俺も飲むんですか?」
「当たり前だろ。」
ラゼルはニヤリと笑う。
「強い酒しか置いてねぇ店だけど、大丈夫かい?」
「……まぁ、なんとか。」
俺が適当に返すと、店主が大きなジョッキを二つ、テーブルに置いた。
なみなみと注がれた濃い琥珀色の液体。
鼻を近づけるまでもなく、アルコールの強烈な香りが鼻をつく。
(……度数、高すぎないか?)
「ほら、飲みな。」
ラゼルは、豪快にジョッキを持ち上げると、一息で半分ほど飲み干した。
一方、俺のほうは……まぁ、飲めなくはない。
(営業時代、飲み会で無理やり酒を流し込まれた経験はあるからな……。)
俺もジョッキを持ち上げ、ひとまず一口……いや、これ普通にキツいぞ。
喉を焼くようなアルコールの感覚が一気に駆け抜ける。
胃の奥まで燃えるような刺激が落ちていき、少し意識がぼやける感覚がした。
「ぐっ……!」
「ははっ、大丈夫かよ? 坊や。」
ラゼルが楽しそうに笑う。
「くっ……大丈夫ですよ……!」
ここで弱音を吐いたら負けだ。
俺は、半ば意地でジョッキをあおり、ぐいっと飲み干す。
「おおっ!」
周りの男たちから驚きの声が上がる。
(……ん?)
気づけば、俺たちのやりとりを見ていた店の連中が、興味深そうにこちらを眺めていた。
「ラゼルが連れてきたガキ、なかなか飲めるじゃねぇか。」
「へぇ、貴族崩れのボンボンかと思ってたが……やるじゃん。」
そんな声が聞こえる。
(ふん……まぁ、酒の席で馴染むコツは知ってるんだよ。)
それが、俺が営業時代に唯一学んだ”処世術”だからな。
酔いが回るにつれ、俺の中で何かが解放されていく。
そして——
俺は、無意識にジョッキを持ち、周囲の席を回り始めていた。
「すみません、お注ぎしますね!」
そう言いながら、俺は酒を持って席を回る。
最初に驚いた顔をしていた男たちも、やがて笑い始めた。
「おいおい、なんだこいつ!?」
「貴族崩れが、お酌して回ってんのかよ!」
「しかも慣れてやがる!」
「おい兄ちゃん、こっちにも注いでくれよ!」
俺は、次から次へとジョッキに酒を注いで回った。
まるで営業時代の飲み会のように、客の顔を見ながら適当に相槌を打ち、盛り上げていく。
(……あれ? これ、意外とウケてね?)
気づけば、俺は酒場の中心にいた。
「お前、面白いな!」
「貴族上がりのくせに、変に気取ってねぇのがいい!」
「なんだなんだ、いい感じじゃねぇか!」
次第に、酒場の空気がどんどんと緩んでいく。
そして——
「……ははっ! お前、気に入ったよ!」
ラゼルが、豪快に笑いながら俺の肩をバンッと叩いた。
「おい坊や、いっそ傭兵にならねぇか?」
俺は、一瞬だけ思考が止まる。
「……傭兵?」
「そうさ。」
ラゼルは、悪戯っぽく笑いながら続けた。
「こんな度胸と飲みっぷり、そうそう見られるもんじゃねぇ。しかも、“人心掌握”が自然にできてる。こいつはなかなかの逸材だ。」
「……」
「どうだい? これから行く宛てがあるわけでもねぇんだろ?」
ラゼルの言葉に、酒場の男たちも興味を持ち始める。
「おいおい、こいつが傭兵になったら面白そうじゃねぇか?」
「元貴族で、営業崩れで、獣人連れの傭兵……か。」
「悪くねぇな!」
「ははっ、どこに需要があるんだよ!」
「面白けりゃいいんだよ!」
ざわつく酒場の中、俺はゆっくりとジョッキを置いた。
(……傭兵、ね。)
思ってもみなかった提案だった。
だけど、悪くない。
俺は、ラゼルの鋭い瞳を見つめ、口の端を持ち上げた。
「……考えてもいいですね。」
酒場が、再び笑い声に包まれる。
俺は、熱を帯びた空気の中で、じっくりとこの”提案”を噛みしめた。
「よぉし! 決まりだ!!」
ラゼルが高らかに笑い、俺の前に酒の入ったジョッキを差し出す。
俺も、それを受け取る。
「傭兵レグナードの誕生だな!」
「……まぁ、まだ決めたわけじゃありませんが。」
俺はニヤリと笑いながら、ジョッキを掲げた。
ラゼルも笑いながら、それに合わせる。
——カンッ!
盃がぶつかり合い、酒の滴が飛び散った。
その瞬間、周囲の男たちが「オォォォッ!!」と歓声を上げる。
「よっしゃあ! 祝杯だ!!」
「飲め飲めぇ!!」
「新入り歓迎ってことで、派手にやろうじゃねぇか!!」
誰かが調子よく言い出し、場の空気が一気に弾けた。
——楽器が鳴る。
——誰かが酒を浴びるように飲む。
——テーブルを叩きながら、足踏みでリズムを刻む。
そして、誰からともなく、歌が始まった。
「♪ どん底から這い上がるのが、傭兵の生き様さ! ♪」
「♪ 飲んで歌って、今日を生きるぜ! ♪」
「♪ 明日死ぬかもしれねぇなら、楽しんだもん勝ちだぁ! ♪」
誰かが椅子を蹴倒し、そのまま床で踊り出す。
周りの連中も次々と立ち上がり、酒を片手に腕を組んで踊り始める。
(……すげぇな。)
まるで、戦場に向かう前の”決起集会”のような騒ぎ。
なのに、不思議と心地いい。
俺も、自然と体が動いていた。
誰かが肩を組んできて、一緒に揺れながらリズムを取る。
俺は笑いながら、ジョッキを傾けた。
(今まで……こんな風に飲めたことなんて、一度もなかった。)
——営業時代の飲み会は、ただの地獄だった。
——上司に無理やり酒を飲まされ、気を遣って笑い、馬鹿にされるのを耐えるだけの時間。
——同僚も、ただ”合わせているだけ”で、心の底から楽しんでいる奴なんていなかった。
だけど——
今日だけは、違った。
俺は、心の底から”楽しい”と感じていた。
(……これが、“自由”ってやつなのか?)
俺は、喧騒の中でジョッキを掲げ、これまでにないほど大きな声で笑った。
その夜、俺はミィミと一緒に宿の寝室に入った。
体中に酒の匂いが染みついている。
酔いのせいで頭がぼんやりするが、それでも足取りは確かだった。
「……すぅ……ごしゅじんさま……すき……」
後ろを振り返ると、ミィミがベッドの端で小さく丸くなりながら寝息を立てていた。
顔はほんのり赤くなっていて、夢の中でも俺の名前を呟いている。
(……こいつ、どんだけ俺に懐いてるんだ。)
俺は、ため息をつきながらミィミを抱え上げ、床にそっと寝かせた。
獣人にベッドを使わせる義理はない。
毛布を軽くかけてやるだけで十分だろう。
「……やれやれ。」
俺は、ようやく自分の寝床へと向かい、ベッドに倒れ込んだ。
——楽しい夜だった。
——のはずだった。
「……くそっ。」
ギリッと奥歯を噛む音が、静かな部屋に響く。
(……あの馬鹿ども……どんちゃん騒ぎしやがって……。)
頭の中に、騒がしい酒場の光景が蘇る。
——ゲラゲラと笑い合う男たち。
——酔っ払って肩を組んで歌う連中。
——そして……
——ラゼルの隣で調子よく絡んでいたバカ男ども。
(……あれが、心底気に食わなかった。)
ラゼルにベタベタくっついて、媚びへつらう男たち。
酒の勢いで、普段なら絶対に相手にされないような態度を取る、勘違いした連中。
(ああいう馬鹿が、一番嫌いなんだよ。)
「ラゼルさーん! 俺たちのグループに入れよ!」
「おいおい、もう少し飲もうぜ! 今日は盛り上がろうや!」
見ていて反吐が出た。
(お前らなぁ……)
(“対等な仲間”じゃなくて、“女として”しか見てねぇんじゃねぇか?)
ラゼルは、ああいう男たちの軽薄な態度に気づいていただろうに、
それでも適当にあしらいながら笑っていた。
(……あの人は、あんな連中と同じじゃない。)
ラゼルは、ただの群れのリーダーじゃない。
あの場の中でも、誰よりも周囲を冷静に見ていた。
酒に流されることなく、自分の意思で俺に声をかけた。
(……本物の”力”を持っている。)
——馬鹿な男どもとは違って。
俺は、枕に顔を埋めながら、ふっとため息をつく。
(……傭兵? 俺が?)
バカみたいに騒ぐ連中と一緒に、肩を組んで戦場に行く?
命をかけて、酒の勢いで生きる?
(そんなもの……“俺”が望んでいるわけがない。)
だけど、ラゼルが誘った理由は気になる。
(あの人は……俺を本当に”見極めようとしている”んじゃないか?)
俺は、静かに目を閉じた。
——楽しい時間だった。
——だけど、それが”本物の居場所”とは思えなかった。