12話 ミィミ
路地裏で、俺は金を数えた。
裸の紙幣を束ね、親指で数えながら計算する。
(……1バベル=1円、か。)
ざっと見積もって、10万バベル。
(めちゃくちゃ入ってたな。)
俺は、思わず鼻で笑う。
「あの貴族……普段からこんなに持ち歩いてたら、そりゃひったくりにも遭うわな。」
小さく折りたたまれた紙幣をパラパラとめくり、適当に500バベルを抜き取る。
そして——
「ほら。」
俺は、隣でうずくまる少女の手を取った。
無理やり、500バベルを握らせる。
「なんかごめん。これでパン買ってきてくれないか?」
少女は、手の中の紙幣をじっと見つめた。
そして——小さく、首を横に振った。
「……獣人には、何も売ってくれません。」
(……は?)
一瞬、意味が理解できなかった。
「いや、金はあるだろ? これで買ってくればいいじゃん。」
「……でも、ダメなんです。」
少女は、俯きながら、静かに呟く。
「獣人は、お金を持っていても、お店では売ってもらえません。」
(……マジか。)
俺は、思わず無言で紙幣を握りしめた。
この国の”獣人”の扱いがどれほど酷いものなのか、
さっき広場で見た暴力的な光景から何となく察してはいた。
けど、“商売”にまで影響があるとは思わなかった。
(つまり、こいつらは”客”ですらないってことか。)
金を持っていたって意味がない。
そもそも、“取引相手”としてすら認識されていない。
(……“存在しないもの”みたいな扱いかよ。)
俺は、黙って少女の手から500バベルを抜き取る。
「じゃあ、返して。」
少女は、何も言わずに手を引っ込めた。
俺は、軽くため息をつく。
(……仕方ない。)
「自分で、買ってやるかぁ。」
裸の札をズボンのポケットに突っ込み、路地裏から出ることにした。
とりあえず、近くのパン屋に向かうか。
こいつが食えそうなもので、一番安いものを買ってやればいい。
(……つくづく、不便な世界だな。)
「……お前、名前は?」
俺は、パンを買い終えた後、少女に向かって尋ねた。
少女は、俺が差し出したパンを大事そうに両手で持ち、かじりながら顔を上げた。
琥珀色の瞳が、少し戸惑うように揺れる。
「……名前、ですか?」
「そうだよ。お前の名前だ。」
少女は、パンをぎゅっと握りしめた。
「……わかりません。」
俺は、一瞬言葉を失った。
(……え?)
「知らないって、どういうことだよ。」
少女は、小さく肩をすくめた。
「生まれた時から……誰にも呼ばれたことがありませんでした。」
(……マジか。)
俺は、思わず拳を握った。
獣人には人権がない。
広場でボコボコにされ、商人にすら見向きもされない。
それだけじゃなかったのか。
——名前すら、ない。
(……存在を認められていないって、こういうことかよ。)
心の中で、ズシリと重たい何かがのしかかった。
「……。」
何か、言うべきことがあるはずだった。
でも、言葉が出てこない。
すると、少女は申し訳なさそうに小さく笑い、ペコリと頭を下げた。
「……助けてくれて、ありがとうございます。」
その瞬間——
俺の胸の奥に、何かが撃ち抜かれたような気がした。
(……クソが。)
何なんだ、この感じ。
さっきまで、俺はただの”実験”としてこの子を利用していた。
それなのに——
「……しょーがない。」
俺は、ため息をつきながら、少女の頭をポンと軽く叩いた。
「おいで、ミィミ。」
少女は、ポカンと目を丸くする。
「……ミィミ?」
「お前の名前だよ。」
俺は、少し照れくさくなりながら、適当に手を振った。
「名前がないってのは、落ち着かないだろ? だったら、俺がつけてやるよ。」
少女は、目を瞬かせた。
「……ミィミ。」
ゆっくりと、小さく呟く。
そして——
次の瞬間、彼女の目から涙が溢れた。
「え、ちょ……!? 何で泣くんだよ!」
俺は、思わず狼狽える。
少女は、パンを握ったまま、ポロポロと涙を零しながら、小さく震えていた。
「ごめんなさい……なんか……嬉しくて……。」
(……クソが。)
俺は、目を逸らしながら、ポケットに手を突っ込んだ。
「……ま、気に入ったなら、好きにしろよ。」
少女——いや、ミィミは、涙を拭いながら、小さく笑った。
「……はい。」
その笑顔が、妙に眩しく感じた。
「ミィミ、あの爺さんとか行けそうだ。頼めるか?」
俺は、路地裏から少し出たところにいる老人を指さした。
ミィミは、一瞬だけ俺の顔を見た。
その瞳には、不安とも恐れとも言えない感情が揺れている。
けれど——
「……わかりました。」
ミィミは、俺の指示に従った。
“頼めるか?“と聞けば、ミィミは断らない。
彼女は、ゆっくりと立ち上がると、小さな体を縮こませながら、慎重に路地裏を抜けた。
俺は、建物の陰に身を潜め、その様子をじっと見つめる。
ターゲットは、商人風の老人。
白い髭をたくわえた、裕福そうな男。
広場のベンチに座り、重そうな袋を膝に置いて、ひと休みしている。
(……行け。)
俺は、ミィミの背中を見つめながら、心の中で命じた。
ミィミは、一歩、また一歩と近づいていく。
体を縮こませ、申し訳なさそうに頭を下げながら、そっと老人に近寄る。
「……あの、すみません。」
か細い声。
老人は、ゆっくりと顔を上げた。
「ん? なんじゃ、お前は。」
「……何か、恵んでください。」
ミィミは、手を前に差し出しながら、震える声で言った。
老人は、眉をひそめた。
「……獣か。」
その一言に、俺は思わず奥歯を噛む。
(こいつもかよ。)
この世界では、獣人は”存在しないもの”として扱われている。
金を持っていても、店で買い物すらできない。
ましてや、こうして物乞いをすれば——見下されるだけだ。
老人は、大きくため息をつくと、膝の上の袋をポンと叩いた。
「悪いがな、ワシは施しをするつもりはないんじゃよ。」
「……そう、ですか。」
ミィミは、小さく呟く。
その瞬間——
ミィミの手が、老人の袋に伸びた。
(よし……!)
俺は、隠れながら小さく拳を握る。
ターゲットは、もう警戒を解いている。
一度、施しを拒否された相手が、まさか”奪う”とは思ってもいない。
ミィミの手が、袋の紐にかかる。
引っ張れ。
一気に走れ。
そうすれば、成功する——
「……っ!?」
しかし——
次の瞬間、ミィミは動きを止めた。
(……あ?)
何をしている?
早くしろ、引っ張れ、逃げろ。
なのに、ミィミはなぜか動かない。
「……なぜ、お前は、そんな目をする?」
老人が、ぼそりと呟いた。
俺は、息を呑む。
ミィミの顔が見えない。
けれど、老人の表情が明らかに変わった。
(……何をしてる、ミィミ。)
その場に固まるミィミ。
しばしの沈黙。
そして——
「すみません……!」
ミィミは、掠れた声を漏らし、後ずさった。
(……なんで謝る!?)
その瞬間、俺の胸の奥に、嫌な焦燥感が広がる。
ミィミは、“盗らなかった”。
ひったくるどころか、老人の前から逃げようとしている。
(やばい。)
(これ、失敗するぞ……!)
「……普段は施しはしないんだが、お腹は空いているんだろ?」
老人は、困ったように眉をひそめながら、静かに言った。
ミィミは、一瞬息を呑む。
今まで、こんな言葉をかけられたことはなかった。
獣人は”持たざる者”として扱われ、誰からも見向きもされない。
それが、この老人は——
「……わ、私は……」
「獣人が買えるかわからないけどな。」
老人は、ミィミの目線に合わせるように腰をかがめた。
そして、ゆっくりと手を伸ばし——
そっと、彼女の頭を撫でた。
(……!)
ミィミの肩が震えた。
(……あたたかい。)
今まで彼女が感じた”人の手”は、
いつも殴り、払いのけ、拒絶するものだった。
でも、この老人の手は違った。
「貴方に、神のご加護があらんことを。」
老人は、静かにそう呟くと、
ポケットから1000バベルの紙幣を取り出し、ミィミの手にそっと握らせた。
そして、その紙幣と一緒に、もう一枚の紙——名刺を差し出した。
「……え?」
ミィミは、戸惑いながら見つめた。
「困ったことがあったら、知り合いの教会に頼るといい。」
「教会……?」
「あそこなら、獣人の子もきっと良くしてくれるよ。」
ミィミは、震える手で、1000バベルと名刺をしっかりと握りしめた。
こんなこと、今まで一度もなかった。
彼女が何かを言うよりも先に、老人はゆっくりと立ち上がる。
「……腹を満たせよ。」
そう言うと、彼は背を向け、ゆっくりと歩き去っていった。
ミィミは、彼の背中を見送りながら、
今まで抑えていた感情が、胸の奥から溢れ出すのを感じた。
「……ありがとう、ございます……。」
彼女の声は、かすかに震えていた。
広場の片隅。
夕暮れが、街を柔らかな橙色に染めている。
行き交う人々の足音、噴水の水音、遠くから聞こえる鐘の音。
その中で——俺は、ミィミの目の前に、1000バベルの紙幣を差し出した。
「危ないところだったね。」
ミィミは、まだ震えながら、それをじっと見つめている。
夕陽の光を受けて、紙幣の端がわずかに揺れた。
1000バベル——この世界の価値に換算すれば、大した金額ではない。
たった1000円分の価値しかないはずの、ただの紙切れ。
だが、この紙には——異様な重みがあった。
ミィミは、そっと両手を伸ばし、その1000バベルを受け取る。
「……」
指先が、かすかに震えている。
(……そんなに、重いのか?)
俺にとっては”はした金”だ。
たった1000バベル。
街の飲み屋で軽く酒を飲めば、すぐに消えてしまう程度の金額。
でも——ミィミにとっては違う。
彼女は、ずっとお金を持たない人生を生きてきた。
いや、それどころか——「お金を持つことを許されていなかった」人生だったのだろう。
獣人が店で買い物をすることすら許されない世界。
そんな世界で、1000バベルの紙幣を手にすることは——
“人として認められた証”のようなものだったのかもしれない。
「……ひっ……」
ミィミの瞳から、また涙がこぼれた。
俺は、ため息をつく。
「……まぁ、乾杯しよう。」
俺は、リュックから小瓶を取り出し、彼女の手に渡す。
「ほら、さっきの続きだよ。」
ミィミは、涙を拭いながら、そっと瓶を見つめる。
「……これ……?」
「いいから飲めよ。さっきは色々大変だったんだから。」
しばらく戸惑った後、彼女はゆっくりと蓋を開けた。
そして——
ゴクリ。
小さな喉が、静かに動く。
風が吹いた。
広場の噴水の水面が揺れ、遠くの鐘の音が静かに響く。
空が、淡く染まる。
ミィミは、目を閉じるでもなく、ぼんやりと空を見上げていた。
さっきまで泣きじゃくっていたのに、もう涙は流れていない。
その瞳には——ただ、空が映っているだけだった。
「……。」
(……ミィミも大変なんだな。)
俺は、空を見上げる彼女の横顔を見ながら、静かに微笑んだ。