11話 獣人の女の子
俺は、リュックサックを背負いながら、自室へと戻った。
扉を閉めると、静寂が訪れる。
騒がしい男子寮の喧噪はここまで届かず、室内にはただ俺の呼吸音だけが響いていた。
(……さて。)
俺は、リュックをベッドの上に放り投げる。
「動くのは、いつ頃がいいだろうか……?」
薬の瓶がジャラジャラと音を立てる。
これだけの量があれば、十分な実験ができる。
でも、いざ実行に移すとなると、色々と慎重に考えなければならない。
タイミングは重要だ。
誰にも怪しまれず、確実に成功させる瞬間——それを見極める必要がある。
(いや、それ以前の問題だ。)
俺は、リュックを開け、瓶の一本を取り出して光にかざした。
中に満たされた紫色の液体。
とろりとした粘度があり、瓶を傾けるとゆっくりと動く。
(そもそも……本当に効果があるのか?)
ヴォルグ先生は、俺の命令に従い、薬を作り続けていた。
でも、それが本当に”使えるもの”になっているのかは、まだ分からない。
(あの耄碌ババァの作った薬が、役に立つのか?)
薬学の知識はあったかもしれないが、ヴォルグ先生はすでに限界だった。
精神も衰え、身体も摩耗し、ろくに正しい判断ができていたのかも怪しい。
俺は、瓶の蓋を慎重に開けた。
(……臭いは、特に異常はなさそうだ。)
だが、それだけでは信用できない。
本当に、意識を支配するほどの効果があるのか?
それとも、ただの無害な液体なのか?
(試すしかないか……?)
誰かに、まず使ってみるべきかもしれない。
対象を間違えれば、一発でバレるリスクもある。
慎重に、確実に——俺の計画が成功するために。
俺は、瓶の中の液体を見つめながら、じっくりと次の一手を考え始めた。
そうだ!街へ出よう。
とりあえず、適当な誰かに使ってみる。
だけど——
(誰に使う?)
ヴォルグ先生のように、長期間支配できる相手ならいい。
だが、もし失敗して相手が死んだら?
ヴォルグ先生は”老化による衰え”という理由で誤魔化せた。
でも、街中の誰かが急に倒れたら、もうそんな言い訳は通じない。
(……慎重にやるしかないな。)
俺は、学園の外へと向かい、そのまま街へと歩を進めた。
広場——オルベン・スクエア
学園からほど近い場所にある、大きな広場。
街の中央に位置し、四方へと伸びる石畳の道が交差している。
噴水が広場の中心にあり、美しく澄んだ水が絶えず流れている。
周囲にはベンチが並び、人々が思い思いに時間を過ごしている。
子供たちが駆け回り、行商人が商品を売り、旅人が噂話を交わす。
店の屋台もちらほらと並び、焼きたてのパンの香ばしい匂いや、肉の串焼きの香りが漂ってくる。
(……適当な誰かに試すには、悪くない場所だな。)
しかし、誰を選ぶべきか?
俺は、広場を歩きながら、人々を観察する。
・働き盛りの商人たち——忙しそうで、相手にしてくれなさそうだ。
・駆け回る子供たち——対象としては論外。目立ちすぎる。
・酒に酔ったような中年男——無難か? だが、不審がられるかもしれない。
・ベンチに座ってぼんやりしている貴族の娘らしき少女——?
(……こいつにするか。)
名は知らないが、身なりからしてそこそこ裕福な家の出らしい。
ベンチに腰かけ、本を読んでいる。
(静かに試せるなら、こういう相手の方がいいか……?)
俺は、慎重に距離を詰めながら、手の中の小瓶を握りしめた。
だがしかし!話しかけても、無視された。
「えっと……君、本読んでるの?」
返事なし。
「すごく難しそうな本だけど……」
無視。
「この広場、よく来るの?」
完全無視。
(……え?)
俺は、思わず目を瞬かせた。
(え、なんで……?)
俺の声、聞こえてるよな?
明らかに距離は近いし、俺は普通に話しかけてる。
なのに——
貴族の娘は、一切反応しない。
まるで、俺の存在そのものが”見えていない”かのように。
(……いやいやいや、おかしいだろ!!)
話しかけられたら、普通「えっ?」くらいは言うだろ!?
それか、「すみません、今ちょっと……」とか、適当にあしらうとか!!
それすらない。
俺は、ただ、無視された。
完全な、無視。
(……ま、まぁ、たまたま気づいてないだけかもしれない。)
俺は、少し距離を縮め、声のトーンを上げてもう一度話しかける。
「ねぇ、何読んでるの?」
無反応。
「俺も本読むの好きなんだよ。」
無反応。
「ねぇ?」
パタンッ
貴族の娘は、本を閉じて立ち上がると、何事もなかったかのように歩き去っていった。
俺の存在など、最初からなかったかのように。
(……え?)
俺は、その場に立ち尽くした。
(……いやいやいやいやいやいや!!!)
(俺、今、“ガン無視”されたよな!?)
(しかも、「話しかけないでください」とかすら言われずに!?)
(そんで、本閉じて無言で立ち去られたよな!?)
(……マジかよ。)
冷や汗がじんわりと滲む。
(そんなことある!?)
いや、今までも「なんか気持ち悪いなこいつ」みたいな空気は感じたことあったよ!?
けど、それでも最低限の会話は成立してた!!
でも、今回は違った。
完全に、“いなかったこと”にされた。
(……いや、待てよ、これは……)
(俺の存在、無価値ってこと!?)
(人間としての最低限の対応すらされないレベルってこと!?)
頭の中で警鐘が鳴り響く。
心臓が嫌な汗をかく。
(うわ、マジで……きつ……)
ただ話しかけただけで、俺は空気よりも薄い存在になってしまった。
(やばい、これはダメージでかい……!!)
俺は、ぎゅっと拳を握りしめる。
(……でも、よく考えろレグナード、もといミツイ!!)
(第一、薬を飲ませるんだぞ!?)
(普通に話しかけただけでこれなら、飲ませるとか無理じゃね!?)
心の中で焦りが募る。
どうすれば、自然に薬を飲ませる流れを作れる?
どうすれば、怪しまれずに相手の口に運べる?
考えろ……考えろ……!!
その時だった。
「……何か恵んでください。」
俺の袖が、小さな手に引かれた。
「……ん?」
振り向くと、そこにいたのは——猫耳の娘。
薄汚れたローブを羽織り、小さな手で俺の服の端を掴んでいた。
琥珀色の瞳が、俺をじっと見上げている。
(……!?)
一瞬、思考が止まる。
だが、すぐに冷静さを取り戻した。
(……こいつなら、俺が渡したものを怪しまずに飲むかもしれない。)
俺は、ゆっくりと微笑んでみせた。
「だったら、俺がいいものをあげるよ。」
俺は、リュックの中の”小瓶”に、そっと手を伸ばした。
少女は、俺の手から差し出された瓶をじっと見つめた。
その瞳には、ほんの一瞬の警戒心が浮かんだが——次の瞬間、彼女はすぐに瓶を掴んだ。
(……飲むのか?)
俺は、内心で驚いた。
普通、知らない人間から飲み物を渡されたら、もっと警戒するものだ。
けれど、この少女は一切のためらいなく、瓶の蓋を開けた。
そして——
ゴクッ。ゴクッ。ゴクッ……!
一気に、飲んだ。
俺は、思わず息を呑む。
(……そんなに……?)
彼女の喉が、必死に液体を飲み下していく。
薄く痩せた首が、何度も何度も上下に動く。
——喉が、乾き切っていたのか。
空気を飲み込むような音がした。
それでも、彼女は瓶を離さなかった。
まるで、ここで飲むのをやめたら、もう二度と口にできないかのように。
喉が詰まりかけても、苦しそうに咳き込んでも、それでも飲むことをやめようとしなかった。
(……こいつ、どれだけ腹が減ってたんだ?)
薄汚れたローブ。
やせ細った腕。
今まで気にも留めなかったが、この少女は明らかに”飢えていた”。
もしかしたら、何日もまともに食事をしていなかったのかもしれない。
俺は、何とも言えない気持ちで彼女を見下ろした。
——ゴクン。
最後の一滴を飲み干すと、彼女は瓶を落とした。
ガシャン……!
ガラスが地面で砕ける音が響く。
「……っ……」
少女は、息を切らしながら、少しだけ瞳を閉じた。
——効いたか?
俺は、無意識に唾を飲んだ。
すると、少女の膝がガクッと崩れた。
(……来た……!)
彼女の瞳が、ぼやけたように揺れる。
口元が半開きになり、浅い呼吸を繰り返す。
そして——
「……ぁ……」
短く、掠れた声を漏らした。
意識が薄れている。
(成功だ……!)
俺の胸が、高鳴った。
ついに、この薬の効果が証明された。
ヴォルグ先生が作ったものは、確かに”使える”。
そして、次のステップに進める。
俺は、少女の肩に手を置き、命令を下した。
「あの女から、財布をひったくれ。」
俺は、目線を向けた。
広場のベンチ——
さっき俺を無視したあの貴族の娘が、本を閉じて腰を上げようとしていた。
(……俺を空気のように扱ったこと、後悔させてやる。)
少女の瞳が、揺れる。
「……ひ……ったくれ……?」
「そうだ。」
俺は、もう一度言う。
「あの女から、財布をひったくってこい。」
少女は、よろよろと立ち上がる。
だが、足元がふらついている。
(……もう少し、薬の濃度を調整したほうがいいか?)
そんなことを考えているうちに——
少女は、フラフラと広場を歩き出した。
そして、そのまま——貴族の娘へと近づいていく。
しかし、俺はまだ知らなかった。
この国では——獣人なんて”人権がないに等しい”存在であることを。
少女は、俺の命令を受け、ふらふらと広場を歩き出した。
向かう先は、俺を無視した貴族の娘。
彼女はちょうどベンチから立ち上がり、腰にかけた小さな鞄を手に取るところだった。
(……いけ。)
俺は、じっと少女の背中を見つめた。
彼女の足取りはまだふらついている。
まともに動けているとは言い難い。
だが——
次の瞬間、少女はその細い手を伸ばし、貴族の娘の鞄を掴んだ。
そして——
一気に引っ張る!
「きゃっ!?」
貴族の娘が驚きの声を上げる。
しかし、少女は構わず、そのまま駆け出した。
(……よし!)
俺は、心の中でガッツポーズをした。
少女は、千鳥足ながらも、鞄を抱えたまま必死に逃げようとする。
俺の命令通りに動いている。
だが——
「おい! そこの獣!」
広場の端から、怒号が響いた。
(……ッ!?)
次の瞬間、複数の男たちが少女に向かって走り出した。
——まずい。
俺が考えるよりも早く、少女は追いつかれた。
「こいつ、ひったくりだ!!」
「獣が盗みなんざ、許されると思うなよ!!」
ドガッ!
「——ッ!!」
少女は、一発の蹴りを食らって地面に叩きつけられた。
「やめ……っ……!」
「獣が人間様のものを盗むとは、いい度胸じゃねぇか!」
ドンッ!
男の一人が、少女の脇腹を思い切り蹴る。
「ひいっ……! ごめんなさい、ごめんなさいっ……!」
少女は、弱々しい声でひたすら謝る。
しかし、男たちは止まらない。
「お前ら、もっとやれ!」
「獣には痛みを覚えさせないとダメだ!」
バキッ! ドスッ!
次々と振るわれる暴力。
少女の細い腕が、震えながら地面を掻く。
(……クソッ!!)
その時——俺の足元に、少女が落とした鞄が転がった。
俺は、迷わずその中から財布を引き抜いた。
(これで、目的は達成だ。)
しかし——
「おい、いい加減にしろ!!」
俺は、男たちの前に踏み出し、すごい威圧をかけた。
「大の大人が、小娘をここまでして、許されるわけがないだろう!!」
俺の怒鳴り声が、広場に響いた。
男たちは、一瞬だけ動きを止める。
「……あ?」
「お前、何言ってんだ?」
俺は、少女の前に立ちふさがるようにして、男たちを睨みつけた。
「彼女はもう十分に痛い目を見ただろう!」
「ここまでやる必要があるのか!?」
男たちは、呆れたように俺を見た。
「……お前、何も知らねぇのか?」
「こいつら”獣”に、人権なんてあると思ってんのか?」
俺の背筋が凍った。
(……何だと?)
「獣は獣だ。人間じゃねぇ。」
「人間に逆らったらどうなるか、叩き込んでやらねぇと、すぐ図に乗るんだよ。」
「そうだそうだ、貴族の物を盗もうとしたんだ、これくらい当然だろ!」
男たちは、何のためらいもなくそう言い放った。
その時、俺はようやく理解した。
(——この国では、獣人なんて”人権がないに等しい”存在なのか。)
まるでゴミを見るような目。
「人間」として扱われていない、当たり前の事実のような会話。
(……俺は、とんでもない奴を選んじまったのか?)
俺の背中を、冷たい汗が流れた。
その時——
「返していただける?」
俺は、振り向いた。
貴族の娘が、そこにいた。
俺が手にした財布を、真っ直ぐに見つめている。
「……ああ。」
俺は、少し間を置いて、財布を差し出した。
貴族の娘は、受け取ると、落ちていた鞄を拾い上げた。
そして——
「……下賤な獣が。」
バシッ!!
細身の傘を振るい、少女の肩を思い切り突いた。
「ひっ……!」
少女は、呻き声を漏らし、力なく地面に伏せた。
そのまま、貴族の娘は何事もなかったかのように背を向け、広場を後にする。
男たちも、「これでいい」とでも言いたげに頷き、興味をなくしたように散っていった。
——静寂が訪れた。
地面には、少女が震えながら蹲っている。
「……酷い奴らだな。」
俺は、呆然としながら呟いた。
「ここまでする必要は、ないだろう……。」
俺は、地面に転がる少女を見下ろした。
彼女は、肩を震わせながら、まだ「ごめんなさい、ごめんなさい……」と呟き続けていた。
俺は、ゆっくりとしゃがみ込み、彼女の顔を覗き込んだ。
(……こいつ、まだ命令が解けてねぇのか?)
本当に、人間扱いされていない。
本当に、“どうなってもいい”存在として扱われている。
俺の知らない世界が、ここにはあった。
(……さて。)
俺は、静かに息を吐いた。
(この”使い道”……どうするか。)