10話 報復開始!!
翌日、俺はヴォルグ先生の元を訪れた。
いつもの薬剤室。
陽の光が窓から差し込み、暖かな空気が漂う。
棚には薬草が並び、試験管やフラスコが整然と置かれている。
ヴォルグ先生は、優しく微笑みながら俺を迎えた。
「まぁまぁ、珍しいねぇ、レグナード。どうしたんだい?」
「先生と少しお話をしたくて。」
俺は、できるだけ自然に微笑んだ。
「それと、少し薬学について伺いたいことがありまして。」
「ふふ、薬学かい?」
ヴォルグ先生は、丸眼鏡を指で押し上げながら、椅子に腰を下ろした。
俺も、向かいの席に座る。
「最近、授業を休んでいたようだけど……ちゃんと勉強しているのかい?」
「ええ。独学で、ですが。」
ヴォルグ先生は、微笑を深める。
「えらいえらい。独学は大変だろう?」
「そうですね。でも、薬学というのはとても興味深い学問です。」
俺は、慎重に言葉を選びながら話を進める。
「人の体に直接影響を与え、時には命を救い、時には意識すら変えることができる。」
「そうだねぇ。薬学は、“人の命と意志”に深く関わる学問だからねぇ。」
ヴォルグ先生は、優しく頷いた。
俺は、少し言葉を詰まらせるふりをした。
そして——真剣な眼差しで言った。
「僕は……薬学師になりたいです。」
ヴォルグ先生の目が、一瞬見開かれる。
「……!」
そして、ゆっくりと——目に涙を浮かべた。
「レグナード……!」
「道は険しいのよ?」
彼女の声は、震えていた。
「最近、薬学はすっかり閑散としてしまってねぇ……魔法学の方が注目されてばかりで……でも、こんなにいい生徒がいたなんて……!」
ヴォルグ先生は、ハンカチで涙を拭いながら、感激していた。
——だが、彼女は知らなかった。
彼女がテーブルに置いていたティーポットに、俺が何かを入れていたことを。
俺は、慎重な手つきで、それを終えた。
静かに、慎重に、何気ない仕草のように。
(……成功した。)
心臓が高鳴る。
俺の手は震えていないか?
顔に不自然な表情は出ていないか?
俺は、ヴォルグ先生の目を見つめながら、表情を作った。
「先生……僕は、本気です。」
「……ええ、ええ……。」
ヴォルグ先生は、感極まったように微笑む。
そして、彼女は——
何の疑いもなく、ティーカップを手に取った。
ヴォルグ先生がティーカップに口をつけた。
一口、二口——途端に、カクンと首が傾いた。
「……!」
俺は、息を呑んだ。
ヴォルグ先生の目は、ゆっくりと閉じられる。
手に持っていたカップが滑り落ち、カシャンと音を立てて床に転がった。
効果テキメンか。
俺は、じっと彼女を観察する。
呼吸は安定している。
脈もある。
(……くたばったか?)
俺は、慎重に彼女の顔を覗き込んだ。
ヴォルグ先生は、椅子にもたれかかりながら、静かに寝息を立てていた。
(……成功した。)
俺の胸の奥で、熱い何かが沸き上がる。
初めてだ。
俺の計画が、ここまで完璧に進んだのは。
「……よし。」
俺は、ゆっくりと彼女の肩に手を置いた。
そして、命じる。
「この薬を、大量生産しろ。」
ヴォルグ先生は、ピクリと反応した。
「……はい……。」
かすれた声が、口から漏れる。
「さらに、精度の高い薬を作り続けろ。」
「……精度の……高い……薬を……。」
彼女は、夢うつつのように呟く。
「そして……薬の効きが弱くなったら、飲み続けろ。」
「……飲み……続け……。」
俺は、深く息を吐く。
——これで、ヴォルグ先生は俺の”工場”になった。
知識のある専門家に作らせれば、俺の素人仕事とは比べ物にならない精度の高い薬が手に入る。
そして、彼女は自分の意思でそれを続けるようになる。
(これで、俺はもう”作業”に時間を割く必要はない。)
俺は、ただ結果を受け取るだけでいい。
そして、その薬を——
俺は、ゆっくりと笑みを浮かべた。
(……エリシアに使う。)
これで、俺の望みは手に入る。
俺は、寝息を立てるヴォルグ先生を見下ろしながら、次の一手を考え始めた。
2、3日してからのことだった。
俺は、再びヴォルグ先生の部屋を訪れた。
扉を開けた瞬間、そこに広がっていたのは——異様な光景だった。
「……っ!」
すごい数の薬だ。
机の上、棚の上、床にまで並べられた無数の小瓶。
紫色に澱んだ液体が、規則的に詰め込まれ、整然と並んでいた。
試験管に、ビーカーに、錠剤の束——
ここはまるで薬品工場のようだった。
「……先生?」
俺は、そっと声をかける。
——その時、俺はヴォルグ先生の姿を見て、息を呑んだ。
彼女は、廃人のようになっていた。
「……っ……」
髪は乱れ、目の下には黒いクマが浮かんでいる。
丸眼鏡はずれ、視線は虚ろなまま宙を泳いでいる。
皺だらけの手が、震えるようにフラスコをかき混ぜている。
(……寝ていないのか?)
2、3日……いや、それ以上かもしれない。
おそらく、ヴォルグ先生はこの間、一睡もせずに薬を作り続けていた。
「……先生?」
俺は、試しにもう一度呼んでみた。
しかし——
「あー……」
「うー……」
ヴォルグ先生は、言葉にならない音を漏らすだけだった。
(……なにこれ。)
(まるで……“ボケた老人”みたいだ。)
俺は、背筋が寒くなった。
本当にボケたのか?
それとも、薬の効果が強すぎたのか?
精神が摩耗し、もうまともな思考ができなくなっているのか?
いや——
(どうでもいい。)
俺は、薬の入った小瓶をひとつ手に取り、光にかざした。
中身は、俺が蒸留したものよりも、遥かに精度が高く、濃縮されていた。
(……いいね。)
これなら、確実に成功する。
ヴォルグ先生は、俺が求めた”工場”として、完璧に機能していた。
その時——
「ついにボケが始まったか……」
俺は、背後でそんな言葉を耳にした。
(……!?)
振り向くと、廊下で数人の教師たちが話していた。
「最近、ヴォルグ先生の様子がどうもおかしいんだよ。」
「ああ、俺も見たよ。何か言っても、“あー”とか”うー”とか、全然会話にならないし……。」
「やっぱり歳かねぇ……? もともと薬学の研究にのめり込む人だったが……。」
「このままじゃ、学園側も何かしら対応を考えなきゃならんな。」
(……なるほどね。)
俺は、小さく鼻で笑った。
周りの連中は、ヴォルグ先生の異変を**“老化によるボケ”**だと思っているらしい。
(……そうか、それならいい。)
誰も、俺が仕組んだとは思っていない。
誰も、ヴォルグ先生が”支配された”とは気づいていない。
俺は、小瓶を握りしめながら、静かに笑みを浮かべた。
(さて——そろそろ、実行の時だな。)
「……ヴォルグ先生。」
俺は、虚ろな目をした彼女をじっと見つめた。
「もう、大丈夫です。」
ヴォルグ先生の手は、震えながらもまだ試験管をかき混ぜようとしていた。
ガクガクと揺れる肩、焦点の合わない目。
しかし、それでも彼女は薬を作る手を止めようとしない。
(……もう限界か。)
2、3日間、ほぼ寝ずに作業を続けたせいで、精神が完全に摩耗している。
俺がどんなに命令しても、このままではいずれ機能しなくなる。
(これ以上バレるのはまずい。)
学園の教師たちは、すでに”ヴォルグ先生の異変”を気にし始めている。
このままでは、いつか俺が関与していることも疑われるかもしれない。
だから——ここで終わらせる。
「ゆっくり休んでください。」
俺は、優しく囁く。
その言葉に、ヴォルグ先生はピクリと反応した。
だが、俺はすぐに続けた。
「でも——後始末は、しっかりしてくださいね。」
ヴォルグ先生は、ゆらりと揺れるように俺の方を向く。
「……あ……ぁ……かた……づけ……」
「ええ、そうです。」
俺は、彼女の背後に積まれた薬品の瓶、蒸留器具、調合に使った道具をじっと見つめる。
このままでは、誰かが部屋に入った瞬間、異常に気づく。
学園の薬剤室が”工場”と化していたことを知ったら、大騒ぎになるのは目に見えている。
(全部消せ。)
「あなたが作った薬の痕跡を、すべて処理してください。」
「……しょ……り……。」
「机の上の道具も、床の染みも、使ったレシピのメモも、全部です。」
「……ぜんぶ……。」
「誰にも見つからないように、完璧に後始末してください。」
「……かんぺ……き……。」
彼女は、ゆっくりと頷いた。
俺は、ふっと息を吐いた。
(……できれば、最後くらいは墓の下で休ませてやりたかった。)
本当なら、彼女を”消す”のが一番安全だった。
だが、そこまでする必要はない。
むしろ、“ただのボケた老人”として残しておく方が都合がいい。
彼女の衰えた姿を見れば、誰も疑わない。
「年のせいで研究しすぎたんだな」とでも思うだろう。
(俺の人生と比べれば、こんなものまだ”生温い”。)
ヴォルグ先生は、学園の片隅で”忘れられる”だけだ。
これまで築き上げてきた薬学の知識も、誇りも、全て霞んでいくだけ。
俺のように——“価値のない人間”として扱われるだけ。
(俺って、案外”優しい”よな。)
もちろん、そんなことを言葉にするつもりはない。
俺は、静かにヴォルグ先生の肩を叩き、部屋を後にした。
「——ふぅ……努力した後は、気持ちがいい。」
俺は、ニッコリと笑って言った。
肩に背負ったリュックサックがジャラジャラと音を立てる。
中には、ヴォルグ先生が精製した”薬”が詰まっている。
それを確かめるように、俺はクスクスと笑った。
(最高だ。)
これだけの量があれば、何度でも実験ができる。
何度でも、俺の計画を試せる。
そして——完璧な一撃を放つ瞬間を、確実に作り出せる。
俺は、薬剤室の扉を静かに閉じた。
背後には、ヴォルグ先生がいた。
彼女は、机の上に散らばった道具を、虚ろな目で片付けている。
俺の命令通り、“後始末”をするために。
(……もう、俺の役には立たない。)
彼女は、俺に”必要なもの”をくれた。
それで十分だ。
だが、一応——俺は、ヴォルグ先生に向かって手を合わせた。
「貴方のことは、絶対に忘れません。」
俺は、ヴォルグ先生に向かって手を合わせた。
その姿を見ながら、胸の奥に沈んでいた何かがじわじわと浮かび上がってくる。
(……こんなこと、したくなかったのにな。)
彼女は、俺が今まで出会ってきた教師の中で唯一、まともな人だった。
どの教師よりも、俺に本気で接してくれた。
俺を”利用する価値のある道具”として見たわけではなく、“生徒”として扱ってくれた。
なのに——
「……俺は、それに頼ることすらできなかったんだな。」
俺は、自嘲気味に笑う。
(どうして、俺は”正攻法”で生きられなかったんだろう。)
ヴォルグ先生に相談して、真面目に薬学を学び、知識を積み上げ、努力して——
そんな”まともな道”を歩んでいたら、俺は”普通の生徒”として、彼女のもとで学び続けられたのかもしれない。
でも、それは無理だった。
俺は、この世界では何も持たない落ちこぼれだった。
貴族の息子だったくせに、“無能”の烙印を押され、勘当された。
俺には、何もできなかった。
だから、こうするしかなかった。
「……結局、俺は”無力”だったってことだよな。」
自分の力で、人を動かすことができなかった。
自分の言葉で、人の心を変えることができなかった。
だから——“薬”という手段を選ぶしかなかった。
「……俺は、本当に”優しい”のか?」
ヴォルグ先生に、俺は”最後くらい墓の下で休ませてやりたかった”なんて思った。
でも、それすらも、俺のただのエゴにすぎない。
(……本当に、こんなことでよかったのか?)
自問自答しても、答えは出ない。
俺は、背負ったリュックの中でジャラジャラと音を立てる薬の瓶を聞きながら、学園の廊下を歩いた。
この薬は、俺が”無力だった証”だ。
自分の力では何もできなかったから、俺はこんなものに頼らなきゃならなかった。
それでも——
「……まぁ、やるしかないよな。」
俺は、笑うしかなかった。