1話 能ある鷹は爪を隠す
ビルが立ち並ぶ。
ガラス張りの壁に夕陽が反射し、長い影を路上に落としていた。行き交う人々は忙しなくスマホを操作し、車は途切れることなく流れていく。クラクション、電車の走行音、遠くで響くサイレン。都会は、いつも変わらず騒がしい。
だが、その喧騒からほんの少し外れた場所に、ぽつんと一台の営業車が止まっていた。
高速道路の高架下。
日陰になったその空間は、埃っぽく、どことなく湿った空気を纏っている。照明のない場所は薄暗く、コンクリートの柱が無機質に並ぶ。道路を走る車の振動が地面をわずかに揺らし、鉄骨のきしむ音が時折耳に届いた。
運転席には、一人の男がぐったりともたれかかっている。
ミツイ(26)。
ネクタイはゆるく、スーツの肩には薄く埃が積もっていた。ダッシュボードの上には書類が無造作に置かれ、スマホが震えている。
が、ミツイは反応しない。
まぶたは重く、首がかくりと傾き、浅い呼吸を繰り返す。
営業車の中での居眠り。
昼と夜の境目が曖昧な生活の中で、こうした時間は貴重だった。数分でもいい。数秒でもいい。ただ、意識を沈めることができれば、それでいい。
「……ん」
わずかに寝返りを打つ。
シャツの袖にはコーヒーの染み。窓ガラスには指紋の跡。車内には汗と煙草が染みついた独特の匂い。
ここは、彼の避難所だった。
誰にも見られず、誰にも邪魔されない、たった数分間の静寂。
だが——
——ピリリリリリ!!
突然、スマホが大音量で鳴り響く。
「……っ!」
ミツイの体がビクッと跳ねる。
思わず周囲を見回すが、当然のように誰もいない。ただ、手元のスマホが着信を告げているだけだ。
画面には、上司の名前。
嫌な予感しかしない。
だが、放置するわけにもいかない。ミツイは小さく息を吐き、だるそうにスマホを手に取った。
「……はい、ミツイです」
再び、都会の喧騒の中へ。
彼の静寂は、わずか数分で終わりを迎えた。
耳にスマホを押し当てた瞬間、ガナリ声が飛び込んできた。
『おいミツイ!! お前、今どこで何やってんだァ!?』
音量を間違えたのかと思うほどの怒鳴り声。鼓膜に響く不快な声に、ミツイは反射的にスマホを耳から少し離した。だが、相手はお構いなしに続ける。
『お前なぁ、今月の数字、どうなってんだよ!? ゼ・ロ・件!! おいおいおい、まさかとは思うが、サボってねぇよなぁ?』
ミツイはわずかに顔を歪めた。
サボってはいない。いや、厳密に言えば今この瞬間はサボっていたのかもしれないが、それはほんの数分の仮眠だ。それで怒鳴られるなら、こんな仕事はとっくに死んでる。
「……いえ、訪問営業を続けてはいるんですが、なかなか契約に繋がらなくて……」
『ハァ!? そんなんで給料もらおうってのか!? 甘えんなよォ、んん!?』
スマホの向こうで、ガサガサと紙をめくる音がする。
『お前の担当エリア、先月は売上トップだったんだよ!! それがなんで今月ゼロ件なんだァ!?』
それは……先月までは別の営業が担当していたからだ。
当然の話だが、優秀な営業が築いた土台の上でミツイが何をしようと、結果が出るわけがない。しかし、そんなことを言ったところで、この上司が理解するはずもなかった。
『お前、やる気ねぇなら辞めろよ? うちの仕事はなぁ、頑張ればいくらでも数字取れるんだよォ!!』
頑張れば、の一言で済ませるあたり、本当に脳みそが筋肉でできているのかもしれない。
ミツイは軽く目を閉じた。
深呼吸をし、乱されそうになる感情を押し殺す。
『いいか、今月のノルマは10台!! 最低でも10台だ!! 1件も取れねぇってのは、営業マンじゃねぇからな!!』
ウォーターサーバー。
それがミツイの会社の商品だった。一般家庭にウォーターサーバーを設置させ、月額契約を取る。オフィスならまだしも、家庭向けとなるとそう簡単には売れない。
『今日のうちに最低でも1件決めろよ!! わかったな!?』
言いたいことだけ言い終えると、上司は通話を切った。
「……はぁ」
ミツイはスマホを膝の上に投げ出し、重いため息をついた。
いつものことだ。いつもの罵倒。
だからこそ、思う。
こんな毎日が、いつまで続くんだろうか。
エンジンをかける。
ミツイはダッシュボードの上のスマホを拾い、適当に助手席へ放り投げた。上司からの罵倒はいつものことだ。いちいち気にしていたら、精神が持たない。
「……とりあえず、主婦がいそうなエリアだな」
ウォーターサーバーを売るなら、狙うべきは専業主婦。働いている世帯だと、そもそも日中に家にいない。ターゲットは「家にいる人間」。つまり、専業主婦か在宅ワーカー、あるいは年配の夫婦だ。
ミツイは車を走らせながら、そんなことを考える。
住宅街。
高層ビル群を抜けると、整然と並ぶ一軒家が目に入る。古すぎず、新しすぎず、いかにも「一般的な家庭」といった雰囲気のエリア。道幅はそこまで広くなく、電柱の間をすり抜けるようにして進む。
目を引いたのは、とある一軒家。
門の前には自転車が停まっている。
その後ろの荷台には、チャイルドカーがついていた。
「……子持ちか」
幼い子供がいる家庭は、水に気を使う。安全な水、手軽に使える水——それを求める主婦は少なくない。ウォーターサーバーを売り込むには、悪くない条件だ。
ミツイはゆっくりと車を路肩に停め、ドアを開けた。
営業用のカバンを片手に持ち、もう一方の手でネクタイを軽く締め直す。
深呼吸。
ピンポーン。
インターホンを押す。
しばらくの静寂。
カチャ。
ドアが少し開き、一人の女性が顔を出した。
「はい〜、伊藤です……」
おっとりした声。
小柄で華奢な体型、少しぼさっとした髪。部屋着なのか、シンプルなカーディガンを羽織っていて、化粧っ気もあまりない。
ああ、典型的な専業主婦だ。
ミツイは瞬時に判断する。
こういうタイプは、たいてい気弱で押しに弱い。断りたいけど、強く言えない。セールストークに乗せられると、なんとなく流されて契約してしまう。
要はチョロい。
(どうせ旦那が汗水流して稼いできた金で生きてるんだろ……)
ミツイは内心でそんなことを思いながら、営業スマイルを作る。
「あっ、奥さん、こんにちは! 突然すみません!」
少しだけ大きめの声で、親しげな雰囲気を演出する。「私は怪しい者ではありません」オーラを全開に出すのがポイントだ。
「実は今、このエリア限定で、超お得なウォーターサーバーのご案内をさせていただいてるんです!」
話すスピードは少し早め。
相手に考える隙を与えず、一気に情報を詰め込むのがコツだ。
「奥さん、小さいお子さんいらっしゃいますよね? ウォーターサーバーって、すぐに冷たいお水もお湯も出せるんですよ! 赤ちゃんのミルク作りとか、すっごく便利で!」
ミツイは自転車のチャイルドカーに視線をやり、相手の生活に関係がある話題をぶち込む。
「それに、今なら無料お試しキャンペーン中! 設置費用もゼロ、解約も自由! もし気に入らなかったら、すぐにやめてOKなんです!」
営業トークの基本。
「お得」「無料」「今だけ」。この三つを強調する。
「いやぁ、最近、本当に主婦の方に大人気で! 奥さんみたいにお子さんのいるご家庭にはピッタリなんですよ〜!」
「奥さんみたいに」という一言を加え、特別感を演出。
さて——
この気弱そうな専業主婦、どう出る?
「あっ……便利、です……よねぇ……」
伊藤の目がわずかに輝いた。
ほんの少しの食いつき。それで十分だ。
(はい、チョロい。)
ミツイは心の中で確信する。
こういうやつは、一度興味を持ったら最後。自分で決断するのが苦手だから、最終的に営業の言いなりになる。
しかし——
(いや、マジでいらねぇだろ、ウォーターサーバー。)
正直、日本の水道水は世界トップクラスに安全だ。ガロンボトルの水よりも、水道から出る水のほうが厳しい基準で管理されてるくらいだ。さらに、日本のインフラは異常なまでに整っている。
蛇口をひねれば、いつでも安全でうまい水が出る。
それなのに、月々数千円も払って「ありがたがってるやつ」がいる。大半は情弱。
(まぁ……この手の主婦は、間違いなく旦那の金で生きてるだけだしな。)
こいつもそうだろう。
昼間に家にいて、ぼんやりした顔で営業の話を聞いてる時点で、労働の苦しみを知らない側の人間だ。
(旦那が必死に働いた金で、いらんもん買って満足してる……バカみたいな夫婦だよな。)
だが、それがどうした。
そんなアホを相手に売るのが、営業ってもんだ。
営業とは、不要なものを必要だと思い込ませる仕事。
価値のないものに、価値があるように錯覚させる仕事。
人間は論理ではなく、感情で物を買う。
だから、こういうときに「事実」を伝えてはいけない。
相手の「感情」に寄り添い、そこに「不安」と「期待」を植え付けるのが営業のコツだ。
「そうなんですよ〜、実際、うちのサーバーを導入したご家庭の95%が、『もうこれなしの生活は考えられない!』って言ってるんですよ!」
数字は適当でいい。
「95%」って言われると、人はなぜか信じる。
「特に小さいお子さんがいると、水道水ってやっぱりちょっと気になりますよね?」
ここで不安を煽る。
水道水が安全なのは知っている。だが、そう言われると、なぜか心の中で『うん……気になる……かも?』と思い始める。
「あと、ほら! 災害対策にもなりますしね!」
この「ついでにメリットを増やす手法」も鉄板だ。
もともと主婦は「防災」「健康」みたいなワードに弱い。
そして、とどめの一言。
「今なら月々のレンタル料が3ヶ月無料で、ボトルも2本プレゼント! 今日申し込んでいただいた方だけの特典なんです!」
「今日だけ」「今だけ」「あなただけ」。
営業の常套句。
これで契約しなければ、「損するかも」と思わせる。
伊藤は迷っていた。
明らかに「契約するかどうか」ではなく、「契約しない理由があるかどうか」を探している。
(勝ったな。)
ミツイは内心でニヤつきながら、営業スマイルを崩さず、じっと待った。
そして——
「……あの、じゃあ……お願い、します……?」
はい、契約ゲット。
ミツイは丁寧に頷きながら、カバンから契約書を取り出した。
何の価値もない水を、価値があるように売りつける。
これが、営業の醍醐味だ。
どうして、ミツイがここまで営業の本質を理解しているのか?
なぜ、こうして人間の心理を操るように契約を取ることができるのか?
それは、ミツイのIQに理由がある。
ミツイはIQ130の天才だった。
子供の頃から、周囲とは違っていた。
授業で習う前に教科書を読み終え、先生の話を聞くまでもなく答えがわかる。だが、それを口にすると「なんでそんなこと知ってるの?」と気味悪がられる。
小学校では「知ったかぶり」とバカにされ、
中学校では「生意気」と言われ、
高校では完全に浮いた存在になった。
(結局、世の中はバカのほうが生きやすいってことか。)
どれだけ頭が良くても、周囲に馴染めなければ意味がない。
ミツイは次第に、目立たないように過ごすようになった。
だが、それでもいじめは終わらなかった。
誰よりも頭が良いのに、誰よりも惨めな高校生活。
自分より明らかにバカな奴らが、教師やクラスメイトから好かれ、楽しそうに青春を謳歌する。
「勉強ができるとか、何の意味もねぇんだな……」
そう思いながら、流れに身を任せるように進学した先は、偏差値が低めのFラン大学。
もちろん、もっと上の大学に行くことはできた。
だが、努力する意味を見失っていた。
それでも、せめて自分の知識を生かせる仕事に就こうと考えた。
だが、新卒の就活では、どこにも引っかからなかった。
(なんで俺よりバカな奴が、良い会社に就職できてるんだ……?)
結果、流れ着いたのがこの営業会社。
ウォーターサーバーを売る仕事。
くだらない。
バカらしい。
こんなものが売れること自体、人間社会の愚かさを証明している。
しかし——
(バカどもを騙して売るのは、意外と楽しい。)
ミツイは持ち前の頭の回転の速さを活かし、営業トークを磨いた。
論理ではなく、感情を操ることを覚えた。
IQ130の知性を持って、ウォーターサーバーという不要なものを、必要に見せかける技術を完璧に体得した。
それが、ミツイの生きる術だった。