別れ
5
今になってごめんなさい。さっきから本当は体調が悪くなって。明日は会うのやめましょう。本当にごめんなさい」
翌日の映画の約束を断ったメールが土曜日の夜に届いた。
それまでも何度か体の不調を理由にキャンセルしてきたことがあり、俺は特に気に留めなかった。
しかし、そのメール以来、彼女からの連絡は途絶えた。
メールも電話も、一切通じなくなった。
店に問い合わせたが、連絡が途絶えた頃辞めたということだけしか分からなかった。
急に訪れた終焉で、華恵のいない日常が始まった。
来る日も仕事に明け暮れるそれまでの日々に舞い戻った。
少し時間できれば、近寄ってくる女だけを抱いた。
ーどうして俺の前から消えたのか。
苛立ちと悲しみとが交錯し、その度に激しく女を求めた。
最後のメールから一月半後。
「怒ってる?」
彼女からのメールに仕事中にもかかわらず、俺はオフィスを出てすぐに返信した。
「怒ってるもなにもない。どうしたんだ?」
しばらく時間をおいてから、長いメールが届いた。
「本当にごめんなさい。
実は前から両親が認知症なの。
それで、家で見ているお姉ちゃんも鬱になっちゃって。
その認知症が最近ひどくなっちゃって仕事中も家から呼び出されることが多くなったの。
あの時は、精神的に追い込まれていて、ずっとメールにも電話にも出れなくて、本当にごめんなさい。だけど、今は本当にいっぱいいっぱいだからもうメールもしないでね。返信もできません。本当にごめんなさい」
「そんなことがあったとは知らなかったよ。そうだとしても俺のはなへの気持ちはずっと変わらないから、また連絡できるようになったら連絡くれよ」
急いで、精一杯メールを返信した後で、華恵との思い出がまざまざと蘇えってきた。
「信じないの」
夕日に染まりながら鎌倉の街の遥か遠くを見ていた横顔。
「どっちもにーせーもーのー」
まっすぐ俺を見た後で、おどけてみせた悪戯好きの少女のような顔。
「病院でもらった睡眠薬を毎晩飲んでいるの」
何気なく語っていた彼女。
「家によっていろいろあるのよね、きっと。もう実家には帰りたくないの」
それきり食事にもジャスミンティにも手をつけなかった彼女の俯いた顔。
俺に抱かれて、眠りに落ちた華恵の寝顔。
華恵との時間が体の奥から急にせり上がって、耐え切れず俺はトイレに駆け込み、嘔吐した。
水で流されていく自分の嘔吐物を見ながら、構わず泣いた。
突然の独白を疑う余地は、俺にはなかった。
その病を患うには若過ぎる両親。
死ぬまで治らない両親の病を背負い、はなはどう生きるのだろうか。
姉の鬱。
彼女の姉は実家で一人、我を失い人格を変形させてしまった両親を看ていたのかも知れない。
彼女の姉もまだ若いはずだ。両親と姉、一家の重い病を抱えた華恵の人生は・・・・・・。
俺はそれ以上の想像を止めた。せめて華恵の力になりたいが、それも叶うまい。
可憐さの中に、それよりもずっと強い女が潜んでいることに俺は気づいていた。
今の彼女にこれ以上近づくことも遠くから手を差し伸べることもできはしない。
華恵は、神仏にも男にも頼らず歩いていこうとするだろう。彼女の華奢な後姿が浮かんだ。
「ありがとう。じゅんらしいね」
しばらくして、メールが届いた。いつの間に俺を呼び捨てで呼ぶようになったのだろうと俺は思った。彼女の笑顔が瞼に浮かんだ。
つづく