割らない幸福
人生初の給料は安月給なのに高かった。通帳に五桁以上書かれるのは前代未聞。幼児が千円で興奮する、あの世界観が俺の中に未だ生きている。
ATMに並ぶ人々をくぐり抜け、曇天の下に出る。小さな町銀行には給与を求める労働者が詰めていた。この不景気でのこの姿、日常であるのに悲壮感が漂う。
だが、二十代後半でやっと職に就いた俺からすると、安心できる光景だ。俺もこの列に並べたのだ。就活に失敗してずっとニートして、自室で社会人をバカにする生活と比べれば……ずっといい。
夕方とは思えない灰色の道を行き自宅へ。見事な実家暮らしだ。もう「ただいま」なんて言わないが、靴だけは揃えておく。母親が夕飯の準備をしながら、父親がもうすぐ帰宅と俺に伝える。身内間特有の雑な返事で自室へ行った。
子供の頃からあまり変化のない我が部屋。変わったのは子供時代のものが少ないぐらい。学習机は未だ現役だ。捨てたくても親が嫌がる。実際、大人向けのような使いやすさ。
引き出した数万円を机に並べる。たかが数万円。ニート時代、工場勤めは底辺だなんだと匿名掲示板で騒いでいたハズなのに、この金額の前にはどうでも良くなってしまう。アルバイトもしたことのないナマケモノにとっての所持金額史上最高数値が、眼前にある。
階下から母親の声。「晩御飯はステーキだからね!」高く陽気で気のいい声。こんな母を聞くのはいつぶりだろうか。最近は家庭内でも扱いがよく、父も仕事で辛いことはないかと聞いてくれる。
そんな事実の確認が恥ずかしくなって、意味もなくスマホを取りSNSを開く。フォローには一発逆転を謳う胡散臭い連中が並ぶ。ニートの頃、自尊心はこんなもので満たしていた。そろそろ整理してもいいだろう。
そんな中、十八禁のイラストが流れてきた。「差分は有料サイトで!」といういつもの文言も添えられて。もう見ていないイラストレーター。昔ながらのクセでイラッとしながら、しかし性欲が湧いていた。そういえば、仕事ばかりでココ最近発散していなかった。
大手検索アプリを開く。小学生にバカにされそうな言葉をつらね、出るわ出るわの割れサイト。商業エロ漫画から原作者がキレそうな二次創作同人誌。
これが犯罪だとは知っている。理解している。しかし……息を吐いて、昔ながらの言い訳を再生する。……俺には金がない。だから仕方ない。それに、割れの閲覧者なんていちいち捕まえられりゃしない。だから、仕方ない。
形骸化したものが響くが、目はスマホの先を行った。そこには数万の現金。安い家電なら買えるお札。スマホに目を戻すと、成人向け商品販売サイトの広告が流れてきた。
俺は今、エロ本を買える。だって金がある。
性欲に押された者は計画性を捨てて動くことが多い。そうやって騙された人なんてネットどころか小学校の授業でよく見る。
今回は問題ない。
早速大手のサイトに飛び込む。成人向けに迷わず進み、大量の肌色が飛び込んできた。無視して登録画面に移る。メールアドレスとか、そういった個人情報を入力していき、止まる。クレジットカードを持っていない。
一旦はなしで登録し、クレカ作りに励む。またプライバシーを入力。作り方の指定が細かいパスワードを作成し、汚い字でメモしておいた。またサイトに戻りクレカ登録。だが、まだ金を入れていない。
改めて着替え直し、足早に階下へ。
「おい、どこか行くのか」
玄関に行く廊下で、いつの間にか帰っていた父に呼び止められた。俺は顔を向け「コンビニに行く。コーラが欲しくて」と言った。まさかエロ本を買うなんて言えない。
「そうか。買い物か」父はどうも感動している。「そうか、給料日か」
「そうだけど……」
「なにか、好きな物は買った?」
「……いや、まだ」
「お前もついに自分の金で好きなものを帰るように……新しいパソコンでも買うかい?」
「いや、まぁ、まだ考えていないよ」
父はほがらかに笑い「少し奮発しなさい」と金を渡そうとした。俺は全力で拒否し、寂しそうな表情を振り払った。
コンビニに行く道は街頭が照らす。父もまさか、息子は初給料でエロ本を買いにいく色欲猿人とは思っていないのだろう。別に珍しいことでもないと思うが、かといって理性的ではない。
コンビニに着く。ニート時代は使うとしても深夜だった。いつも対応してきた店員は丁度シフト入り。最初、この時間に来た時一瞬だけ驚いていたのが忘れられない。
スマホでクレカの説明を見ながらATMを操作。大胆にも一万円を入金した。通知も同じことが届く。メールで知らされた値に実感は無い。金ではなくポイントに見えてきた。
帰ろうとして、父にはコーラを買いに来たと告げたのを思い出す。飲み物コーナーには当然コーラがあり、ゼロカロリーを選ぶ。百と少しの値段。財布には数倍の金がある。もっと、何か買える。
……俺はコンビニを出た。スーバーで出されるようなデカい袋を手に提げて。
帰宅。思い出したかのように性欲が滾り、自室にこもった。先程のサイトでエロ漫画を漁り始める。
そこに書かれている値段たちは、想像を超えて安かった。二百円や、三百円。クーポンを使えば百円になり、九十パーセントオフの薄利を超えた無利さえ存在する。しかもそれがボイスであったり3DCGであったりする。金なしニートの財布どころか、エロガキの小銭でさえ買えるのだ。
どうやら俺は醜い言い訳をしてきたようだ。こういった性的なものは、案外安い。ネットのない時代、性欲を持て余した早熟な子供が、そういったものを買うのもあながちファンタジーではないらしい。
新体験の世界を旅している時、違法にも(意外にも、ではなく)見慣れた絵柄があった。割れサイトで見た漫画だ。当たり前だが無料では無い。その当然が、俺の過去に罪を突きつけた。
カートに入れ、その作者のページに行く。実は贖罪目的で買おうかと思っていたが、中々、どうして……。もちろんカートに入れ、購入した。メールで金の使用量が送られた。HPのようにしか見えない残金。だがこれが、購入の証だった。PDFのそれは間違いなく落とされ、いつでも見られる。
俺は今、自分の金で、自分の欲しいものを買った。本来なら高校で体験するであろう社会経験を、俺はこの歳になってようやく手に入れた。経済を回す、ごく小量の消費者になれたのだ。
そんな、些細なことで、ちょっと、幸福だった。
「ステーキ焼けたよー!」
母親が俺を呼ぶ。返答して、立つ。
エロ本で社会がどうのこうのと幸せを語るとは。精神構造はニートの昔から変わらない。それがおかしくて、一人クスクス笑っていた。
……困ったことに、もう性欲は失せていた。