12. さよならシカバ
「短い間でしたがお世話になったっす!」
「えっ」
ブラン婆さんの部屋の前で待っていたシカバは俺の顔を見るやいなやそう言って勢いよく敬礼した。昨日護衛として挨拶してきた男がたった一日で別れの挨拶をしてくるなんて、そんな話があるのか。いや、実際あったのだが。
「まさか……昨日のことが原因でクビになったのか」
「違うっす!」
「いや、そうだろ! ごめん、俺のせいだ。俺が悪乗りしたのがいけなかった」
「コーイチのせいじゃないっす。自分で決めたっす」
「でも……」
「もともと俺には向いてなかったっす」
「いや、やっぱりムスリクのところに行こうぜ。あいつもちゃんと話せばわかってくれるって」
シカバの手を引こうとしたが彼はやんわりと体を引いて拒絶した。
「どうしてだ?」
「さっき言った通りっす。向いてなかったっす」
「シカバ……」
「コーイチに会えてよかったっす! 」
「そんな今生の別れみたいなこと言うなよ」
「今生の別れっす!」
「は?」
「俺の体、今屍っす! シカバが屍っす!」
「……ちょっと待て。今、何で言った?」
「シカバが屍っす!」
「そこじゃねえ! お前死んだってのか!? どう言うことだ! ちゃんと説明しろ!!」
シカバに掴みかかろうとしたが俺の腕は彼の体を擦り抜け、俺の体は勢い余って地面に倒れ込んだ。
「ああ、痛そうっす……」
むくりと起き上がるともう一度シカバに今度は殴りかかった。しかしやはり体を擦り抜ける。地面に倒れ込むことはなかったがブラン婆さんの部屋の扉に拳を叩きつけた。
「痛ってえ……」
「コーイチ、もういいっす。最期に顔見れて満足したっす」
「勝手に満足してんじゃねえ」
「コーイチ……」
「どいつもこいつも俺の前から勝手に消えることはぜってえ許さないからな! 消えんじゃねえぞ!」
俺が怒鳴りつけると、シカバは頭を捻ってから何か思いついた様にぽんと手を叩いた。
「シカバが屍って面白くなかったっすか?」
俺はもう一度シカバに殴りかかった。
「煩いねえ。人の部屋の前でばたばたと……鼠の喧嘩かい? って、何だジンノ、お前さん幽霊退治でも始めたのかい?」
部屋の前の騒音に気がついたブラン婆さんが顔を出した。シカバを見つけると顔をしかめ、俺を睨みつけて言った。
「婆さん……そいつ、俺の護衛のシカバ。何でか知らんが幽霊になってる」
「……いつまでも部屋の前で暴れられちゃ煩くて昼寝も出来ない。とりあえず話は中で聞くよ。入りな」
***
昨夜、俺と別れた後、シカバは一人自宅への帰り道を歩いていた。夜は人通りの少ない静かな道だ。夜空を見ながら呑気に鼻唄なんて口ずさんでいた。すると前方に人影が見えた。少しも動かず静かに佇んでいたのは年老いた女であった。
こんなに暗い道に可笑しいとは思ったが、この辺りに住んでいるのかもしれない。構わず通り過ぎようとした。
「お兄さん」
すると老婆が声をかけてきたのだ。そうとなれば無視するわけにもいかない。
「何っすか? お婆ちゃん」
シカバが尋ねると老婆は震える手で彼の腕を掴んだ。
「いいところに来たね。この体は使い勝手が悪くて敵わないと思っていたんだ。お兄さん程の体格の良い男なら都合がいい」
「何のことだかさっぱりわからないっす」
「私の目をよく見てご覧」
老婆のしわくちゃな目蓋に覆われた瞳を見つめていると急激な睡魔に襲われ、意識を手放した。
シカバは自分の体が地面に伏すのをすぐ側に立って見つめていた。ああ、眠ってしまったのかと他人事の様に思っていると、彼の体がむくりと起き上がった。彼の意思とは関係なく。
呆然として勝手に動く自分の体を見つめていると、その体はシカバの方を振り返り、にやりと笑った。
「君は死んだ。いいね?」
「わかったっす!」
そしてシカバの体は暗がりの中に消え、その場にはシカバの幽霊と倒れた老婆だけが残された。
***
「と、言うわけっす。俺死んじゃったみたいっす」
「死んじゃったみたいっす、じゃねえよ! それ、どう考えてもお前の体乗っ取られてんじゃねえか!」
「でも、俺の体が俺は死んだって言ってたっす!」
「馬鹿お前! 馬鹿! そんなのそいつが、都合のいいことを適当に言ってるだけだろ!」
シカバには触れられないので苛立つ気持ちをテーブルにぶつけて、ばんばんと叩いているとブラン婆さんが静かに口を開いた。
「それは屍術師の仕業じゃな」
「ネク、何だって?」
「屍術師。死体や霊体を操る連中じゃ。少なくともシカバの体を其奴が動かしているうちは体は生きておるじゃろう。体を何処かに使い捨てられる前に取り戻せれば、再びシカバの魂を体に固定することは出来るじゃろうな」
「本当か!?」
「……だが、生者から霊体を抜き取って成り代わるなんて至難の技じゃ。そんなことが出来る奴をわしは一人しか知らん」
「それって」
「影の王を目覚めさせたこの国の元大臣、トライバルじゃ」
影の王を目覚めさせ、世界を破滅させようとしている存在。そんな奴がシカバの体を奪っていったというのか。
「奴以上の屍術師をわしは知らん」
「その仮説が正しいとしたら……ってことはよお、おい。俺達の敵はこの王国内にいるってことじゃねえか」
「そうなるな」
「上等じゃねえか。そいつを倒して世界は平和、シカバも体を取り戻せる。一石二鳥じゃねえか。やってやろうぜ。なあ、シカバ!」
「はいっす!」
「そうと決まればさっそくムスリクに報告しに行こうぜ!」
「はいっす!」
意気揚々と部屋を出て行こうとするとブラン婆さんが俺の服の裾を掴んだ。俺は勢い余って床に顔をぶつけてしまった。
「な、何すんだよ」
怨みがましい声をあげた俺を婆さんは仁王立ちで見下ろした。
「待ちな。シカバをこのまま連れて行くつもりかい?」
「あ? それしかねえだろ」
「霊体ってのはね。よっぽどの信念や執念、怨み、怨念を持っていないかぎり安定して存在を保てやしないよ。わしの見たところシカバはそんな信念や怨念を持っているとは思えないね」
「その通りっす!」
「馬鹿やろう。お前、自分の体を取り戻すって信念くらい持っておけよ」
シカバは照れた様に頭をかいた。
いや、褒めてねえからな?
「で、それならどうすりゃいいんだよ?」
「シカバに仮の体を用意するんじゃ。そうすれば一先ず霊体が消えることはなくなるじゃろう」
「そんなこと出来るのか」
「凄いっすね!」
「でもよ、まさか仮の体ってのは人間の死体とか言わねえよな?」
「そのまさかじゃ。と、言いたいところじゃが別に人間の死体でなくても問題ない」
「それを聞いてほっとしたぜ」
胸を撫で下ろすと婆さんは部屋の奥のタンスの引き出しから薄汚れたクマのぬいぐるみを取り出してきた。
「そこで、これじゃ」
「……これ?」
随分と可愛らしい少女趣味をしている。まあ見た目だけなら年相応に見えるが。
「婆さん、可愛い趣味してるな」
「わしの物じゃないわ! 誰かの忘れ物じゃ!」
「誰かって誰だよ。いいのか、それ」
「知らん! 昔の弟子かもしれんし、そうでないかもしれない。 もういつからあるのか忘れるくらい昔の物じゃ。もうわしの物ってことでいいじゃろ」
クマのぬいぐるみをばしばしと叩きながら婆さんは言った。
「そんなことはどうでもいいんじゃ! シカバ! さっさとこのぬいぐるみの中に入れ」
「は、はいっす!」
おずおずとシカバはぬいぐるみに体を重ねた。そして婆さんがぶつぶつと呪文らしきものを唱えるとクマのぬいぐるみが淡い光を放った。
「お、おお! す、凄いっす!」
クマのぬいぐるみからシカバの声がした。
「シ、シカバ?」
「俺、ぬいぐるみになってるっす!」
クマのぬいぐるみが立ち上がり、ぴょんぴょんとジャンプしてはしゃいでいる。
「凄えな。シカバ、本当にぬいぐるみになっちまった」
「どうっすか? 可愛いっすか?」
ビー玉の様な艶々と輝く瞳に少し汚れているがふわふわの体。
「なんか、どこぞのマスコットキャラみたいになっちまったな。……中身シカバだけど」
「へ?」
指の無い丸っこい手を顎に当てて首を傾げる姿は可愛くないと言ったら嘘になる。
「悔しいけど可愛いわ。お前」
「へへっ」
「照れんな照れんな」
ぬいぐるみの腹をつつくとシカバはくすぐったそうに身じろいだ。
「触られたら感覚もあるのか?」
「あるっす。 くすぐったいっす」
「本当凄えな。婆さんは何でも出来るのか?」
「ふんっ。伊達に長く生きていないさ。さ、わしが出来るのはここまでじゃ。さっさと出て行っておくれ。わしは昼寝の時間なんじゃ」
「ああ。ありがとな、婆さん」
「ありがとっす!」
俺達は婆さんの部屋を後にし、状況を説明する為にムスリクの元へ向かうことにした。
『女神ジンノはクマのぬいぐるみ(シカバ)をお供にした』