10. 美世子の夢
「おかえり」
「あ、ああ。帰ってたんだな……」
「仕事が延期になってな。ん? どうした?」
「え、何が?」
「顔色が悪い」
「……そうか?」
「何かあったのか?」
ムスリクは心配そうに俺の顔を覗き込んできた。何となく気まずくて視線を逸らした。
「……えっと、変な男達に襲われた」
ぼそぼそと呟くと、ムスリクの顔から表情が消えた。
「何をされた」
見たこともない様な鋭い視線に思わず瞬いだ。
「いや、捕まっただけで……すぐ逃げられたから。何もされてねえよ」
「……はあ。何もなくて良かった」
大きく溜息をついてからムスリクは破顔した。それから優しく俺の頭をぽんぽんと叩いた。長身の彼が俺の目線に合わせて腰を屈めている姿は子供をあやす父親の様だ。俺より年下の癖に。でも、ムスリクの顔を見て心底ほっとした。彼が家に居てくれてよかった。
「別に。……平気だ」
「うん。何かあったら何でも言えよ」
「ああ」
あの男のことは言えなかった。話すと思い出してしまうから。あの男のことを考えたくなかった。あの男のことで頭を埋め尽くされてしまいそうだったから。
路地裏で偶然会っただけの男だ。あの路地を使わなければ今後二度と会うことはないだろう。忘れてしまおう。それがいい。
「もう寝る」
さっさと寝て忘れてしまおう。記憶の彼方に押し込めてしまおう。
「添い寝してやろうか?」
「俺は高えぞ?」
「いくら払おうか?」
「あほか。おやすみ」
ムスリクはいつもと変わらない軽口をたたく。それが、今は有り難かった。
***
カーテンから射し込む光に薄っすらと目を開ける。すぐ側に白いシーツに包まる美世子の姿があった。しなやかな彼女の黒髪に指を通してから柔らかな頰を撫でた。白い肌は朝日に照らされて輝いて見える。
「何だ。夢か」
呟くと美世子の目がゆっくりと開いた。彼女は俺を見て微笑む。
「おはよ」
「おはよう」
衝動的に俺は彼女の華奢な体を胸元に抱き寄せた。
「ふふっ。どうしたの? 怖い夢でも見た?」
「ああ」
「どんな夢? 悪い夢は誰かに話しちゃった方がいいんだよ?」
「……美世子が消える夢」
「わっ。それは困った夢だね」
彼女の声を久しぶりに聞いた気がした。穏やかな波音の様に彼女の声は俺の耳にじんわりと馴染む。
「ねえ、私が居なくなったら寂しい?」
「寂しいよ。当たり前だろ」
「そっか」
「勝手に俺の知らないところに行くなよ」
抱き締める腕に力が入る。何処にも彼女を逃したくなかった。
「そっかあ……」
彼女の声が微かに震えている。
「……こうちゃん」
「ん?」
「好きだよ」
腕の中の美世子は泣いていた。
「美世子、どうして泣いてるんだ」
「どうしてだろう。わからないや。どうしてだろうね?」
美世子は俺の胸を押して体を離した。そして、ゆっくりと起き上がり、ベッドの縁に座った。
「ねえ、私のこと、忘れてね」
「は? 何言っているんだよ」
「もう、こうちゃんとは一緒にいられないから」
「何でそうなるんだよ。 俺のこと好きなんだろ? 俺だって好きだ。何で離れる必要があるんだ」
美世子の手首を掴んだ。はずだった。掴んだはずの手首が黒い靄になっていた。
「大好きだよ。だから、ばいばい」
朝日に照らされる部屋で、そっと口づけをした。
「美世子っ」
彼女の体を抱き締めた。
その瞬間、彼女は黒い靄になって俺の前から消えた。
***
「何だ。夢か」
目を開けると、隣で大いびきをかいて眠っていたのは筋肉達磨のムスリクだったし、俺が抱き締めていたのはムスリクの筋肉質な太い腕だった。
「ああ、くそっ」
誰に言うでもなく天井に向かって悪態を吐いてから俺はムスリクに背を向けて再び布団に潜り込んだ。
『女神ジンノの夢に干渉者あり』