自由であればあるほど人は縛られる。
学校に行かなくちゃ。
会社に行かなくちゃ。
それが当たり前の一週間。
その中で二日、あるいは一日だけ休日という『特別』がある。
人は『特別』にとてつもなく弱い。
例えば人が『限定商品』を欲しがるのもそうだ。
『限定商品』が欲しいんじゃない。『限定商品』を持っている『特別』な『俺』や『私』が欲しいから人は『限定商品』を求めるのだ。
『特別』があれば人は動く。
学生や社会人は、その『特別』な休日に備えて、さて、どう過ごしてやろうかと金曜日や土曜日の就学中や就業中に画策するのである。
気の合う奴と?それとも一人を満喫?どっちでもいい。
一日中ゲーム。朝、昼から何も考えずに酒を飲む。録画しておいたドラマやアニメを消化する。平日には中々行けない繁華街でショッピング。
朝早く繁華街でショッピングして、昼までに帰宅して酒を飲みながら録画しておいたドラマを見て、飽きたら友達を呼んで眠くなるまでゲームしたっていい。
何をしたって構わない。特別だから。スペシャルだから。
普段、学校や会社という縛りがある中で与えられた数少ない休日なんだ。思い切りはしゃいで楽しめばいい。
…。
では、普段の生活に学校や会社という当たり前が、捉えようによっては縛りがない場合どうだろう。
毎日が休日なら、もうそれは『特別』ではなくなるだろう。
一日中ゲームをしてやろう。
なんだそれ。別にいつでも出来るだろう?
そうだ!明日の事なんて考えずに朝から酒でも飲んでやろう。
明日も明後日も明々後日も別に考える事なんてないんだし、別にいつでも出来るだろう?
録画しておいたアニメを見るか…って、いつもリアルタイムで見てるからなぁ。
その通り。見たいのに見れない物が溜まるほどお前は忙しくないだろう。
ショッピング…はいいや。今すぐ欲しいってもんでもないし。
いつでも行けるしな。そろそろ少なくなってきたなんて考えなくていい。無くなれば買いに行けばいいんだ。
今日はいいや。何もしなくて。全部明日やればいい。それにしても、ふぅ〜、あーあ。暇だなぁ。
自由であればあるほど、人は動かない。自由なのに、動かない。自由だからこそ、動かない。
当たり前の自由は枷だ。自由は檻だ。
ここで一つ、訂正をしなければならない。
人は『特別』に弱い。人は『特別』であれば動く。
そう言ったが、一つ例外が存在する。
自由が当たり前になると学校や会社という縛りが『特別』になる訳だが、その場合に限り、人は『特別』を嫌う。言い換えれば『特別』に強くなる。
「俺には俺の生き方がある」だの「私は短く太く生きる」だの、自由が当たり前の世界から自由が『特別』である世界の人間を批判する。
何故なら自由が当たり前の世界では自分の意志でのみ、学校や会社という『特別』が訪れる選択制であるのに対し、自由が『特別』である世界では休日という『特別』は自分の意志とは関係なく必然的に訪れるから。
選択出来るという立場は人を強く…否、傲慢にさせる。
二人の女の子から告白された。自分は女の子を選べる立場にあるのだ。さて、どっちと付き合って『やろう』。
複数の企業から内定を貰った。自分は会社を選べる立場にあるのだ。さて、どの会社に入って『やろう』。
その質は問わずに、だ。
一人の女の子から強く愛された。その子はとても可愛い。
自分に内定をくれた企業は一つだが、自分の研究内容や内面を評価してくれた。大手企業だ。
極論である。一人の女の子が自分を強く愛してくれたとしても、前述の人間に告白した二人の女の子の方が可愛いかもしれないし、前述の人間は大手の企業から複数内定を貰ってる可能性もある。
しかし、一つの場合傲慢にはなるまい。
二つから自由に選ばれば、欲が出る。傲慢になる。
片方を選択した。あーあ。こんなことなら違う会社に、もう一人の女の子にすれば良かった。
なまじ選べた分だけ、現状に少しでも不満が出ると捨てたもう一方を勿体なく感じて過大評価してしまう。隣の芝は青いとはこの事だ。
だが往々にして人とは、二つ選択肢があれば、当然より良い方を選ぶ。
縛りがある世界と自由な世界。どちらを取るかは明白だ。
しようと思えばいつでも出来る世界。いつでも縛りがある世界にいける世界。現状維持。それを選ぶ。
こうして人は自由とは事実であり、しかし名ばかりである世界に残るのだ。
自由であればあるほど縛られる世界に。