2 間違いの代償
宿帳に名前を書こうとして、メイプルは迷った。最近はいつもクリスがニコラス・インテグの名で二部屋借りてくれる。目立たないようにしているのだが、ここでメイプルが本名を書くと彼の努力を無駄にしてしまうことはないだろうか。
隣を見るとヴェンは「ヴェンダード・リン、剣士」と書いていた。メイプルはヴェンの目を見て悪戯っぽく笑うと、その横の部屋数を記入する欄に「2」と数字を書き足した。
ヴェンは笑って頷いた。
メイプルが自分の分の宿代を払おうとすると、良いよ、と言ってヴェンはメイプルを制する。
「お願い、受け取って。彼以外に奢らせる訳にいかないの」
ヴェンは苦笑する。宿泊代を奢らせようとしたと思ったが、名前を書きたくなかっただけのようだ。メイプルの噂を気にしてるのか、と想像する。仕方ないな、と言ってヴェンはメイプルから宿代を受け取った。
クリスは、馬車を馬宿に預けると、メイプルとヴェンが宿泊する宿屋の一階にある食堂へ来た。ここで夕食を取る為だ。食後は馬車のところへ戻る。小さい町の馬宿は盗まれることが少なくないので、長時間預けるのは危険なのだ。
メイプルとヴェンが先に座って待っているテーブルで、メイプルの隣に座った途端、クリスは口髭、顎髭、頬髭を生やした大男に襲われた。直後、大男は止まった。細直刀を誰もいない椅子に向けて突き刺そうとする体勢で。そこにいたはずのクリスは、その男の喉に『紅葉』の切っ先を突き付けていた。
「戦うなら外にいる時にしてくれる?」
クリスは何事もなかったかのように、淡々とした口調で依頼する。
大男がレイピアを収めると、クリスも『紅葉』を鞘に収め、席に座った。
「流石は剣捌きのヴェン、見事だ」
大男が不意打ち失敗を認めた直後、クリスは立ち上がって振り返る。既に『紅葉』がその男の右腕を斬り落としていた。
「俺はクリストファー・ストラティ。剣士だが、多少は医療の心得もある。腕の縫合を俺に依頼するなら一千万ネイ用意しろ」
派手な服を着る剣士への不意打ちは世間的に認められている。それは不意打ちされても身を守れれば名声が得られるからである。その代わりに、関係のない人物の名声を貶めたり、名声を上げる実績を残した人物の名声を上げさせなかったりする行為、即ちその相手を間違えることは重罪である。この場合、間違えられた人物は間違えた人物を裁く権利を得る。尚、相手が誰かを知らずに不意打ちするのは罪にならない。
ほとんどの場合、間違えた人は死刑を宣告される。間違って殺されたならば遺族は死刑以外に納得しない。間違えられた人が命を拾った場合でも、不意打ちに恐怖を感じたならば死刑を宣告する可能性が高い。
クリスが相手を治療すると言ったのは、裁きの終了を意味する。つまり、大男の罰は腕一本で済んだ。
クリスは血の付いた『紅葉』を見て深い溜め息を吐いた。そして顔を上げ、ヴェンを睨む。
「おまえ、本名書いたな」
「普通だろ」
普通である。
「俺は書かない。飯はゆっくり食いたい、夜はゆっくり寝たい」
派手な服を着なければ不意打ちされない、と指摘するのは的を射ない。名前を知って勝負を挑んでくる剣士の相手をしたくない、とクリスは言っているのである。そもそもどんな服装でも不意打ちされない保証はない。
クリスは『紅葉』を簡単に拭くと、鞘に仕舞った。横に若い女が立っている。
「お金は必ず用意します。夫の腕を直してください」
その声が震えていた。目には涙が貯まっている。だが、決して泣くまいとする、気丈さが伝わってくる。
クリスはヴェンを見た。目で促している。
「俺?」
「治療出来るんだろ?」
「出来るけどさ」
クリスは女の方を見た。
「ヴェンダードなら十万ネイだよ」
女は一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに嘆願するような目でヴェンを見た。
「わかった。引き受けるよ」
ヴェンは席を立った。
周囲はざわついている。クリス、ヴェンと名乗る二人は本物か偽物か。クリスはメイプルと一緒に旅をしている、と言う噂があるが、もう一人いる少女がメイプルなのか。クリスと名乗った男の剣筋は見えなかったぞ。本物じゃないのか。
クリスはメイプルを見た。
「メイプルは治療出来るの?」
メイプルと言う名前が聞こえ、周囲は更にざわめいた。
「ううん。多少は出来るけど、あんな大怪我は無理」
「そっか。ヴェンダードも一人では大変だろうから、勉強がてら手伝ってきたら」
クリスに勧められて、メイプルも席を立つ。
食事は大男の応急処置が済んだ後になる。クリスは一緒の食事を諦め、弁当を作ってもらって馬車へ戻った。
翌朝、クリスは馬車で宿屋の前に乗り付けた。食後すぐに出発するためだ。
馬車を繋いでから、一階の食堂で、メイプルとヴェンの稽古が終わるのを待つ。一時間近く待って、メイプルとヴェンが食堂に入ってきた。
「昨日のクリス、ちょっと意外だった」
メイプルはクリスの隣に座るなりそう言った。
「何が?」
「『紅葉』が汚れるのに斬ったから」
「名前を間違えたことに対する罰を受けないと、あの男、次は死ぬよ」
「単に腹が立っただけだろ?」
ヴェンが茶々を入れる。
「折角格好を付けたのに、事実を言わないでくれる?」
クリスは笑う。
それでもやはり、クリスの言った方が事実だろう。これまで短期間だがクリスを見てきて、ヴェンはクリスの感情抑制力の強さを十分に認識していた。『紅葉』を汚すことと天秤に掛けたなら、クリスなら腹立たしさを収める方を選ぶと思われる。冷静な頭で最終的に斬ることを選んだに違いない。
クリスの冷静さは強さの重要なファクターだ。強さを追求するなら、クリスから学ぶことは多いかも知れない。ヴェンは少しずつクリスを認め始めている自分を感じていた。
今回は、ニコラス・インテグの名字の由来です。
始め、ニコラス・インテルという名前にしていました。
インテルの由来は、賢い意味のintelligence,intelligentの始めの5文字です。
主人公は、偏ってますが、賢いので。
でも、インテルって大会社がありますよね。インテグに変えました。
インテルより後に決めたのに、由来を忘れ気味。。。
確か統合という意味のintegrateだったと思うのですが、何故統合なのか不明です。




