潜入
ケイは安全な道から外れ、気配を消して人通りの少ない路地へと体を滑り込ませた。それはほとんど「消えた」と言っていいくらい自然で、無駄のない一瞬の動きだった。
普段、彼女は厄介ごとを避けるために安全な道を選んで町を歩いているが、この日だけは例外だった。
狭い通路の端に、何が入っているのかよくわからない木箱や段ボールが積み上げられている。それらは奥へ進むほど数を増し、次第に悪臭を放ち始めた。時折、汚らしい鼠や薄汚れた野良猫が目の前を走り去っていく。
そろそろ例の地点かというところで立ち止まると、壁側によって耳をすませた。
「もうすぐここにチャンと女が来るはずだ。間違って殺さないように」
「不細工だったらどうします? 売れないんじゃ?」
「安心しろ。二十代の元気そうな女という以外条件はついていない」
「あれ、今回の女は『TUBEROSE』行きとは違うのか?」
「さあ? あのローズジジイのやることだぞ。臓器ビジネスでも始めたんじゃないか?」
「おい、あんまりでかい声で喋るなよ」
左の方角から、複数の男の声が聞こえてくる。どうやらこちらへ近づいてくるようだ。ケイは身を低くして路地の薄暗がりに溶け込んだ。男たちは少しの間そこらをうろついていたが、じきに一人が「向こうに隠れよう。挟み撃ちになるようにするんだ」と言い出し、すぐに人の気配は消えた。それはよく知る人物の声だったので、ケイは密かに口の端で笑った。
それから暫くして、見慣れない女と見覚えのある「雰囲気」を漂わせた男の二人組が右から歩いてきた。もしこの二人が安全な道に出るつもりなら、ちょうど今ケイが身を隠している通路を通らなければならない。
ケイは念のため身構えたが、二人は通路の前を通り過ぎた。男たちが言っていた「女」とは、彼女のことに違いない。
「あのー、もしかしてお困りですかー?」
ケイは満面の笑みを浮かべ、なるべく間の抜けた声を出して二人の前に躍り出ると、通路をふさぐような形で立ちはだかった。
そして何とか女を仲間の元へ走らせると、彼女の背中に向けて怒鳴った。
「走って、マーティンという人を探して!」
その瞬間、逃げる女に気を取られた一瞬の隙をついて男が刃物をケイの首に押し付けた。
「このクソ女、何してくれる! 動くな!」
抵抗をする間もなく、ケイはあっさりと組み伏せられてしまった。刃物を押し付けられながらどうしたものかと考えていると、背後から騒ぎを聞きつけた男たちが五人ほど、わらわらと集まってきた。
「どうした、チャン? 売り物に手でも嚙まれたか?」
男の一人が言った。
「いや。こいつは……」
ケイを捕まえている男、つまりチャンは、一瞬戸惑いを見せたが、すぐに何か思い直したように口角を吊り上げた。
「たいしたことはない。ほら、こいつ以外と売れるんじゃないか?」
チャンはそう言ってケイの腕を捻り上げたまま、仲間の方へ差し出した。ケイの方は抵抗するような素振りもなく、空気の抜けた風船のようにぐったりとしていた。
それからケイは袋を被せられ、車に押し込まれると、30分ほど掛けて正体不明の建物まで連れて来られた。山に近い場所なのか、どこかで小鳥が囀ずっている。そして目の前で重い扉が開く音が聞こえ、目隠しされた状態で階段を下りるように指示された。
「無理です。前が見えないんですから。手だって縛られてるし」
そう言って一人よたよたしていると、痺れを切らした一人の男に砂袋のごとく担ぎ上げられてしまった。だがケイの体重が見かけより遥かに重かったため、男はよろけて壁にぶつかった。
「おい、朴! ふざけてないでさっさと降りろ!」「この貧弱者!」
朴という男が困惑していると後ろから怒号が飛んできた。
階段を下りてしまうと、ケイは椅子に座らされた。かなり古い椅子らしく、腰かけると悲鳴のような音が鳴った。
「日野さん、連れてきました」
男の一人がそう言って頭に被せられた袋を取った。すると目の前に誰かが立っているのがわかった。ゆっくりと両目が焦点を合わせ始める。
そこにいたのは、まるで死神のようないで立ちをした細身の男だった。頬は削げ落ちたかのように窪んでおり、目の下には濃い隈がある。名前を日野というようだ。
「この子の持ち物はどうした?」
日野はチャンの方を見て言った。チャンは特に慌てる素振りも見せず、やけに落ち着き払っていた。
「はじめから持っていませんでしたよ」
「佐倉という女のはずではなかったか?」
「見た感じ、モノとしてはこちらの方が高く売れそうでしたので。ほら、彼女とても長生きしそうでしょう?」
「……本人はどこへ逃げた」
「日野さん、あれが仮に誰かに助けを求めたとしても、大体はこっち側の人間ですし、警察だって動きませんよ。そのための賄賂でしょう?」
「もういい。依頼人が来るまで地下の倉庫に入れておけ。見たところ、それなりの値はつきそうだ」
日野は唸るような低い声で冷たくチャンの話を遮ると、ケイの方を見た。日野の目には全くと言って良いほど生気がない。その顔はまるで、人間として生きることを忘れてしまっているように見えた。
「……まあ、食事くらいは出してやるさ」
彼がそう言うと、すぐさまケイの頭に袋が掛けられた。袋が掛けられる瞬間、ケイは自分の隣に立っているチャンと確かに目が合った。その目元は、日野とは比べ物にならないほど生気に満ちており、うっすらと笑っているようにも見えた。