取引
佐倉は思わず椅子から転げ落ちそうになった。
「まあ落ち着きなって」
焦る佐倉に今度はマーティンが声をかけた。
「脅してむしり取ろうってわけじゃない。あんた、何の用もなしにここに来たわけじゃないだろう? 当てようか? もうすぐ四五回目の平和記念日だ。この時期にこんな島にやって来るんだ。どうせ戦争体験者へのインタビューだろ。違うか? もしそうなら、俺はまさに取材対象だぞ。なんなら仲間も紹介してやれる。俺たちも金に困ってるんだ。最近、ケイのせいでしょうもない出費が多いうえに、これから一大事が起こる可能性も捨てきれないんでね」
「一大事?」
「ケイが戻ってこない可能性もゼロじゃないってことだよ」
マーティンの言葉に、佐倉は自分の心が揺れ動くのを実感した。
「それに、取られた荷物も取り返さなきゃならない。そうだな? お前さんが金持ちだってことはわかってる。チャンが目を付けた人間だからな。……どうだ? この話に乗る気はないか?」
三人の間に沈黙が流れた。レコードの音だけが虚しく響き渡る。
暫くして、佐倉は首を横に振った。
「冗談じゃないわ。私、やっぱり警察に頼む。あなたたちのことは黙っていてあげるから、どうかご心配なく」
「色んなことを言う奴だな。お前、さっき自分で助けてくれって言ってただろ? この島の警察は使い物にならないからって」
「だって、結局、結局お金が目当てなんでしょう! 欲に目が眩んだ人間なんて、何をしでかすかわからないじゃない!」
佐倉は椅子から立ち上がると、ドアの方に向かって歩き出した。
「確かにそうだね。欲に目が眩んで、ろくに知識もない癖に単身こんなところに乗り込んで、おまけによく知りもしない人間に案内を頼み、まんまと悪人の餌食になった温室育ちの新人記者が、現にここにいるもんね。すげえ説得力あるわ」
背後から投げかけられたジュナの言葉に、思わず佐倉は足を止めた。振り返ってみると、ボトルの中身を半分ほど飲み干したジュナが据わった眼でこちらをじっと見ていた。
「どうして、そこまで知っているの?」
佐倉は自分の素性をこんな女に喋った記憶はない。
「ほら、これ」
ジュナはそう言ってあるものをポケットから取り出した。
「あんたがチャンの車に乗る直前に掏った財布。中に名刺も入ってた。どうせコネ入社なんでしょ?」
ジュナはそう言うと財布の中に無造作に押し込まれていた一枚の名刺を引っ張り出し、カウンターの上にスライドさせた。
「どうする?」
ジュナはにやつきながら佐倉の目の前で財布を振って見せた。
「おい、財布掏ってきたってお前、それじゃあ強盗たちの目的を奪っちまったわけだろ?」
マーティンが口を挟んだ。
「まだ中には色々と金目のものがある。カメラとかボイスレコーダーとか。物だけじゃなく中に入っている情報も売ろうと思えば売れるから。どうせ大した情報じゃないだろうけど。それに、奴らはバッグやその他の小物まで何でも売り飛ばすね。もちろん、財布を盗み損ねたのは相当な痛手だけど。……だけど、その『情報』って何だろうね。誰かにとって都合の悪い情報が洩れちゃったら、あなたどうなるんだろうね?」
ジュナはちらと佐倉の方を見る。段々と落ち着きを取り戻しつつある佐倉の頭は不安で埋め尽くされていた。顔面はすでに死人のように真っ青だ。全身の毛穴が熱くなる。
「この中身分けてくれたら、警察なんかよりずっと迅速な対応をするんだけど」
ジュナはまた財布をちらつかせた。佐倉は思わず自分の財布を目で追ってしまう。
「もう、手遅れなんじゃないの?」
佐倉の両目にまた涙が湧き出た。
「もう手を打ってある。何もかも初めからわかっていたことだから」
ジュナはにっこり笑って佐倉に手招きした。
「あなたはここの椅子に座っているだけでいい。リラックスして」
マーティンは呆れたようにジュナからボトルを取り上げた。
「おいやめろ、飲みすぎだ。もともとこのボトルは木戸のなんだぞ」
「まあ、その木戸が何とかしてくれてるはずだから、ね」
ジュナがそう言いかけたとき、カフェのドアがノックされた。
店内にいる誰もが返事をする前にドアが開かれ、知らない男が入ってきた。唯一知っている要素といえば、佐倉の盗まれたバッグを抱えていることだった。男はバッグを床の上に置くと、無言で去っていってしまった。
「……さて、じゃあバッグの中を確認してもらいますか」
そう言ってジュナは返ってきたバッグを男から受け取ると、佐倉のもとへ返した。だが財布はしっかり自分のポケットに押し込んだままだった。