金づる
それから佐倉は必死に走った。ついさっき出会った見知らぬ女に言われるまま、全力で路地を駆け抜けた。
――あの人は誰? 一体何がどうなっているの?
佐倉は走りながら考えた。しかしそれ以上考える前に、何者かと正面衝突してしまった。
気が付くと佐倉は路地を抜け、日の光の差す道路に出ていた。
「痛え!」
ぶつかった者の方を見ると、そこには黄金の髭を蓄えた老人が立っていた。年の割にはなかなか逞しい体格をしているように見える。しかしそれも佐倉と衝突した衝撃のせいで、今にも地面に崩れ落ちそうだ。
「もしかして、あなたがマーティン?」
「そうだよ。あー痛え……」
マーティンはそう言ってよろよろと体勢を立て直すと、佐倉の方を凝視した。
「お、チャンに騙されたっていう馬鹿野郎はお前か」
佐倉は罵倒されながらも、心の底から神に感謝した。
「正直よくわからないのだけど、あの運転手……いや、チャンは何者なの? 知り合いに紹介されたんだけど。最初は強盗に襲われて車と荷物を盗まれちゃって、それで仕方なく危険な地区から出るために抜け道を案内してもらっていたのに、路地で急に同い年くらいの女の子が現れて、そしたら彼の態度まで豹変して――」
「細かい話は後だ。来い。向こうに車を止めてある」
マーティンは早口でそう言って歩き始めた。佐倉は彼のことを信用したわけではなかったが、他に助かるすべを思いつけなかったので、藁にも縋る思いでマーティンの後をついていった。
路地の出口から数メートル離れたところに、色褪せた黄色い車が止めてあった。佐倉は車には詳しくなかったため、車種を当てることはできなかったが、それでもかなり古いデザインであることはすぐにわかった。「ボロだろ。だが良い車だ。手入れさえしてやれば、車だってそれに答えてくれる」とマーティンは誇らしげに言った。佐倉にとっては実にどうでも良かったが。
それから車を走らせること約二十分。開け放たれた窓から潮の匂いが流れ込んできた。島の出口はすぐそこだという安心感からか、海の姿が見えると佐倉はほっとしたようにため息をついた。
「この島はな、真ん中にあるでかい山を境に、北側と南側で街並みが違う。お前が入ってきたのは北側だろう? あっちは南側と比べてそれなりに栄えてる。人口も多い。故に犯罪も多い。過去に紛争難民が作った、ガイドマップにも載ってないような危険エリアもいくつかある。俺たちが住んでる南側はまだ安全な方だ。たまにイノシシや野犬に殺される奴がいるくらいで。それにしてもお前、ちゃんと下調べしてきたのか?」
佐倉が苦笑を浮かべながらマーティンの話を聞いているうちに、車はある建物の前で停車した。地味ではあるがそう古くはない、何の特徴もない小さなコンクリート造りの建物だ。入口の脇に『調査事務所』とだけ書かれている。そしてその建物と併設するように木造の小屋がある。海から拾ってきたであろう流木を看板に見立て、かなり豪快な字で『カフェ・ビスカッチャ』と書かれている。
マーティンは車を止めると、佐倉に降りるよう促した。車から降りると、頭がぼうっとした。次々と起こる出来事に頭の回転が追い付かないのだ。
「何してる、入れ」
店の前でぼんやりしていると、マーティンが店の重いドアを開けた。ガチャガチャとドアにぶら下げられたカキの貝殻が音を立てた。