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ブレント

「ブレント、何を言ってるんだ……?」

 熱を持った涙が自分の意思とは関係なく頬を伝う。目の前には、見覚えのある少年がいた。

 その少年は言った。

「みんなそうなんだ。真実なんてどうでもいい。自分が信じたいかどうかで物事を判断する。信じたいものしか信じられないんだ。もちろん、君もね」




 木戸が目を覚ますと、額にうっすらと汗をかいていた。

 トイレに行こうと思い立ち上がると、チャンに撃たれた傷が少し傷んだ。

「ブレント……」

 夢の中の名前を口に出す。自分の頭の中に、止まった時計が再び動き出すかのような奇妙な感覚があった。

「おい、何か言ったか?」

 勢いよくカーテンが引かれ、灰色の髭を蓄えた医者が姿を現した。

「いや、何も。そうだ、この傷どれくらい掛かるんだ?」

「傷口は大したことないから安心しろ。すぐに元気になるさ。……それにしても、お前なんだって撃たれてすぐに病院へ直行しなかった? ここのことは前々から知ってただろ。ご丁寧に一端事務所に戻るなんて、お前馬鹿なんじゃないのか」

 医者の辛辣な言葉に木戸は唇を噛んだ。あの時、チャンに撃たれてから自力で事務所まで戻ってしまった。何故そうしたのかよくわからないが、気が付いた時には事務所の扉の前まで来ていた。それからマーティンに知り合いの医者の元まで送り届けられたのだ。

「それと、来客が来てるぞ。今ちょうどトイレに行ってるがな」

 すぐにマーティンだと思った。

「そうか。俺もトイレに行くから、廊下で会うかも」

 そう言って病室を出た。予想通り、来客は廊下にいた。

「動いて平気ですか?」

 そこにいたのはマーティンでなくケイだった。

「脚は元気だからな」

「チャンが消えました」

 ケイは何の脈絡もなくそう告げた。

「お前あいつに会ったのか。消えたっていうのは、逃げたってことか?」

「わかりません。あなたにナイフで刺され、銃弾を浴びた人間がそう遠くに逃げられるとは思いません。もしくは、あの世へ逃げたと考えるべきなのか」

 ケイは廊下の壁に寄りかかった。

「お前が撃ったのか?」

「いいえ。朴が生きていました。チャンを撃ったのは彼です。灯台の外でね。まあ、その彼も行方が分からないわけですが……」

 ケイの言葉に木戸は小さくため息をついた。

「お前、これからどうするつもりだ?」

「わかりません。今のところチャンも朴も見つかりませんし、チャーリーは自殺として処理されるでしょう。……わかっていることと言えば、今まで自分がやってきたことがどうしようもなく馬鹿げていたということだけです」

 ケイは壁に寄りかかったまま肩を落とした。その顔は彼女がジュナに連れられて初めて事務所にやってきた時と似ていた。まるで全てが振り出しに戻ってしまったように思われた。

 しかし、ケイはふと思い出したようにある人物の名前を口にした。

「そうだ。木戸さん、ブレント・スチュアートって名前、聞いたことありませんか?」

「なんだいきなり」

「チャーリーのノートにメモ書きがありました。そこに書かれていた名前です。その名前はもしかするとチャンの本名かもしれません。本人に確認する前に邪魔が入りましたが」

 その名前には確かに聞き覚えがあった。

「ブレント・スチュアート……殺人鬼の家……教会……」

 木戸の頭の中で、また何かがうごめいた。


 ――テオのこと、もう忘れちゃったかい?




 今からもう二〇年以上前の話である。木戸要はわずか五歳にして親元を離れることになった。彼の家は貧しく、父親が酒ばかり飲んでは暴力を振るっていたため、母親の手によって島の教会へ預けられたのだ。

 彼はその教会で一二年間過ごした。この教会は一七歳になったら出ていかなければならない決まりがあったのだ。

 奇妙な体験をしたのは、木戸が八歳の頃だった。



「要! おまえまたボール変なところに飛ばしただろ!」

「投げたおまえにも責任があるんじゃないか」

「ふざけるなよ。あっちには殺人鬼の家があるんだぞ!」

「そうだよ。この前もボールなくしちゃったし、今回ばっかりは取りにいかないとまずいよ」

 いつものように仲間たちと野球をしていた。木戸が打ったボールが面白いくらい高く、遠くへ飛んで行った。

「殺人鬼の家? おまえ、あんなのほんとに信じてるのかよ」

 教会の隣には一軒の古びた空き家があった。そこは昔から子供たちの間で殺人鬼の家だとささやかれていた。

「大体、あそこで誰か殺されたか?」

 木戸はそんな噂話はまるで信じてなどいなかった。

「要、おまえだって知ってるだろ?」

 親友のテオが木戸のかたを勢いよく叩いた。

「何をさ?」

「あそこへ行った先輩の話だよ。あの家に行くって言ったきり、行方不明になったっていう……」

「ただの脱走だろ」

 木戸は自分の方に乗っているテオの腕をはねのけた。

「ふん、そんなに言うんならおまえ、一人で取って来いよ」

「そうだ。そんなに言うんなら取って来い!」

「取ってきたらおまえの言うこと信じてやるよ」

 仲間たちは面白がって空き家の方を指さした。


 木戸は教会の敷地のフェンスをよじ登り、空き家の庭へ侵入した。庭は落ち葉でいっぱいだった。歩くたびにパリパリと音がする。自分の存在を主張しているようで、なんとなくいやな気分にさせられた。

「怖くない。怖くない」

 木戸は自分に言って聞かせた。仲間たちといた時は全く恐怖を感じなかったのに、いざ一人でやってくると想像以上に恐ろしかった。

「怖くない。怖くない。怖く――」

 突然背後でガサガサと音がしたかと思うと、一羽のカラスが大声で鳴きながら飛び去った。

「ひいっ……」

 木戸はその場に屈みこんだ。さっきまで晴れ渡っていた空は、いつの間にか曇り始めていた。

「はやくボールを見つけないと……」

 木戸は焦りを感じ、やみくもに庭の中を探し回った。しかし、一向にボールは見つからない。諦めかけたその時、その人物は木戸の前に現れた。

「探しているのは、これ?」

 自分と年の近い少年が、空き家の玄関の前に立っていた。手には野球ボールを持っている。

「誰だおまえ!」

「ぼくはブレント。君は?」

 ブレントと名乗る少年は微笑みながらボールを投げて寄こした。

「……要。おまえ、こんなところで何してるんだ?」

「ぼく? ぼくは、この家に住んでる」

「ここに?」

 木戸はブレントの背後に見える古びた家を見つめた。

「でもここ、みんな空き家だって……」

「ちゃんと住んでるさ。だから僕がいるんだろ? ただ、君はここにいちゃいけないんだ」

 ブレントの言葉に、ぞくりと背筋が凍りついた。

「さ、殺人鬼がいるから?」

 恐る恐る尋ねると、ブレントは声を上げて笑い出した。

「なんだいそれ。ぼくはただ、よその子を自分の家の敷地に入れると、父さんが怒るって言いたかったんだ」

「おまえの父さん?」

「うん。教会の子供はダメだってさ」

「なんだよそれ。そんなのさべつじゃないか」

「ぼくだって、君たちと遊びたいさ。でも、いつもこの庭で教会から聞こえてくるみんなの声を一人で聞いていることしかできない……」

 ブレントはそう言うと、突然泣きそうな顔をした。

「ぼくだって、他の子と同じように、普通に友達と接したい。当たり前みたいに友達と遊びたい」

 彼の顔は木戸が今まで見てきた他人の顔の中で、一番悲しみに満ちていた。彼を放って教会に戻ることは、木戸にとって絶対的な悪だった。

「おれたちがそっちに行けないなら、おまえがこっそりこっちに来れば?」

 それから木戸は度々こっそりとブレントを教会の敷地へ連れてきた。仲間の中で、テオだけが気に入らない顔をした。

「おい、要。あのブレントってやつ、なんか嫌だよ。近づかない方が良いって」

 彼が何故そんな事を言うのか、木戸にはわからなかった。ブレントはとても親切な性格で、他の仲間たちと打ち解けるのが早かった。また、物知りで色々な遊びを知っていたため、いつの間にかみんなの人気者になっていた。

 いつしか殺人鬼の家の話は誰もしなくなり、静かに忘れ去られていった。

 そんなある日、事件は起こった。

「大変だ! テオがどこにもいない」

 木戸の親友だったテオが忽然と姿を消してしまった。子供たちはもちろん教会の大人たちも必死になって彼を探したが、いつになっても見つかることはなかった。

 テオが姿を消してから一週間が経ったある日、ブレントは何やら思いつめた様子で木戸のところへやって来た。

「要。テオがいなくなったのは、ぼくのせいかもしれない」

 ブレントは悲しそうにうつむいていた。

「どうして?」

「実は、テオは前からぼくのことを嫌ってたんだ。いきなり隣の家からやって来て、当たり前のように居座ってるからって。ぼくのせいで要と前みたいに遊べなくなったって……」

 声が震えていた。とても信じられないことだったが、彼が嘘をついているようには見えなかった。

「ぼくのせいだ。きっと、ぼくが知らないうちにテオを仲間はずれにしたんだ」

 ブレントはその場に座り込んでしまった。

「そんなわけないだろ! 誰も悪くない。悪いのはテオだ。みんなに心配かけやがって」

 木戸は何も気が付いていなかった。彼が、ブレントが教会の子供たちみんなの仲を引き裂こうとしていることを。



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