リサ
「ねえ、罠かもしれないよ」
噴水広場に向かう途中、ジュナがケイの後ろから声を掛けた。
「だから、ジュナは陰から見張ってて」
「ほんとに来るかな。リサ。嫌な予感しかしないんだけど。メイヤーさんかマーティンにちゃんと話した方が良かったかもよ?」
噴水広場は所々ライトアップされ、夜の街を美しく照らし出している。道行く人々はみんな楽しげだ。
「ここだけ切り取ってみれば、ただの平和な街なのにねー。ここにいる人たち、何考えて歩いてんだろ? この場所の汚い部分に気付いてないのかな」
無言で歩くケイの後ろで、ジュナはひたすら喋っていた。
「八時五〇分か。それじゃ、私は離れたところから見てるね」
「……お願い」
「あ、やっと喋った」
九時きっかりになると、噴水は音楽と共に水を吹き上げた。リサはまだ見えない。
やっぱり罠だったのかと思いかけた時、聞き覚えのある声がした。
「ケイ?」
振り返ると、リサがいた。
「リサ」
「やっぱりケイだ。久しぶり! どうしてここにいるの?」
「何も、聞いてないの?」
「何のこと? 私は人と待ち合わせしてて――」
「彼は来ないよ」
「え?」
「イーサンはここに来ない」
ケイはチャンのメッセージを思い出した。おそらく、いや、確実にリサはチャンの現在を知らない。イーサンとはチャンがリサに対して使っていた名前だろう。彼女はそのイーサンとチャンが同一人物であることを知らないのだ。
「どうして? ケイ、彼のこと知ってるの?」
リサはきょとんとしている。
「彼は、リサの何なの?」
「お客さんだけど、どうしてそんなこと聞くの?」
「リサ、今どこで働いてるの?」
嫌な予感がした。
「『TUBEROSE』ってお店だけど? それがどうかした?」
頭が真っ白になった。リサは、自分が置かれた立場を気にも留めていないようだった。まるでありきたりな日常を語るように、彼女は淡々としていた。
「そんなところ、今すぐ出て」
とっさにそんなことを言ってしまった。だが言ってしまってから猛烈に後悔した。ケイを見るリサの目つきが明らかに変わったのだ。彼女の瞳の中がどんよりと曇っていく。
「何? 赤の他人のあなたが、路地裏のゴキブリの分際で、どうして私にそんなこと言うわけ? あなたも私を僻んでるの?」
リサの一言一言が深く心臓に突き刺さる。
「リサ。それでいいの? だって、あなたはチャンに――」
「この仕事が汚らしいって言うの? チャンは私を掃きだめから引っ張り出してくれただけ。今の私はあの時とは違う。この仕事をしていれば何でも手に入る。欲しいものは全部ね。お金も、服も、バッグも、アクセサリーも、温かい食べ物も、寝心地のいいベッドも全部ね。前の私はそんなもの、ひとつも持ってなかった」
「だけどリサ。それは永遠に続くものじゃない。赤の他人から一方的に与えられた幸せはそう長続きしない。永遠に対価を支払い続けることはできない。その幸せの期限はそう長くないの。きっとそのうち……」
腹の底から熱いものが込み上げてきた。一瞬、自分の母親のことを思い出してしまったのだ。
「私は遠い未来のことより、今のほうが大事なの。あの路地裏にいたんじゃ、一時的な幸せすら手に入らないじゃない。外の人間はいつだってそう。ケイが今どこで何してるかなんて知らないけど、やめて欲しいの。私たちみたいな人間を可哀そうな目で見るの。とても可哀そうで、今すぐにでも助け出さなきゃいけない存在だって! いちゃいけない存在だって!」
道行く人々はちらちらと二人の方を見た。ケイは彼らを睨みつけると、リサの方に向き直った。
「……チャンを恨んでないの?」
「恨んでなんかない」
「チャンとイーサンが同一人物だってことを知ったうえで?」
これだけは言わないでおこうと思っていた。しかし、とうとうケイは言ってしまった。リサは一瞬目を丸くしたが、すぐにクスクスと笑い出した。笑い声は段々と大きくなり、ケイの頭にがんがんと響き渡った。その笑い声が、世界を真っ黒に飲み込んでいった。
「ケイ!」
背後から突然ジュナの声がして、ケイは我に返った。辺りを見回すと、そこにはもうリサの姿はなかった。
「大丈夫? 結構ひどいこと言われてたみたいだけど」
「リサは?」
「やっぱり意識が半分飛んでたの? ずっと動かないから。リサならついさっき帰ったよ。そんなにショックだった?」
正直、自分が何にショックを受けているのかよくわからなかった。言葉は頭の中でただの音として反響し、もはや本来の意味をなしていなかった。
「……灯台」
ケイは思い出したようにぽつりとつぶやいた。
「は?」
「この近くに、もう使われてない灯台があったでしょ。あそこに行かなきゃ……チャンが、また私たちのコミュニティを壊そうとしてる」
「本気? 本当にそこにチャンがいるっていうの?」
ジュナの問いかけにケイは何も答えなかった。何も答えず、灯台がある方向へ歩き出した。
「ちょっと待ってよ! 置いてかないで!」
ジュナはその後を追った。