前触れ
遠くで雷が鳴っている。
「なんだ。天気予報は曇りって言ってたのに、本当にアテにならないな。今日は見張るだけ無駄かもしれない」
窓の外を見てみると、古びた一軒のアパートが見えた。どうやらここはアパートの向かいにある駐車場らしい。雨に濡れたみすぼらしい野良猫が、屋根を求めて走っていく。
「これ、堂々と見張りすぎじゃありませんか」
ケイは呆れたように肩を落とした。
「どうせ、出てきやしない」
木戸はそう言ってシートを勢いよく傾けた。
「二階の右から三番目の部屋が例のストーカーの男、チャーリー・グエンの部屋だ。でもここの所、ずっと家から出ない。職業は売れない小説家のようだから、元から引きこもり体質だろうけどな」
「ストーキングに飽きた可能性は?」
「わからん。でも依頼人は調査を続けろと言ってる。プライドが高い上にねちっこい女性で、奴がどんな人間なのか徹底的に調べて欲しいそうだ」
「ジュナが聞いたら喜びそうな話です。引き延ばせば引き延ばすほど儲かりそうじゃないですか」
「俺はそんな気は毛頭ない。面倒だからさっさと依頼人を納得させて終わらせるつもりだ。……そんなことより、この依頼人、誰かさんに似てないか?」
「さあ? 似てないですね」
それから数時間待った。だが、男は部屋から出てこなかった。部屋の窓側に回って観察を続けようとしたが、分厚いカーテンに阻まれて中の様子は確認できなかった。確認できたことといえば、少しだけ中のカーテンが揺れたことだけだった。
特に何の収穫もなく事務所に戻ってくると、思いがけない来客が二人を出迎えた。
「どういうことだ? どうしてお前がここにいる?」
木戸はそう言って来客のところまで真っ直ぐ歩いて行くと、両手で襟元を掴み上げた。
「おい、いきなりそれはないだろう! 俺の話を聞け! 助けてくれメイヤーさん」
来客の男は身をよじりながら隣にいたメイヤーに助けを求めた。
「よしなさいよ。加害者だとしても一応お客さんよ。彼は」
メイヤーがなだめるように言った。
「いつからいた? 俺たちがお前のアパートを見張る前からか? 答えろ、チャーリー・グエン」
「……ああ、この人が例の?」
ケイの言葉に木戸は静かに頷いた。
チャーリー・グエン。つまり、今まで自分たちが見張っていたアパートの部屋の住人だ。ついこの間まで、一人の女性をストーキングしていた。
ケイはチャーリー・グエンの顔をまじまじと見つめた。どこかでこんな顔を見たような気がしなくもない。
「グエンさん」
「チャーリーでいい」
「チャーリー、前にお会いしました?」
ケイは尋ねた。
「さあ、どうだろうね。なんせ俺はいろんな人間を付け回しては観察してるんだ。家に帰って観察記録を見てみないとわからないね」
チャーリーはそう言って肩をすくめて見せた。
「おい、俺の質問には答えない気か?」
木戸がすかさず割り込んだ。彼はまだ襟を掴んだままだった。チャーリーの襟はアイロンを掛けなければ元に戻らないくらいしわくちゃになっている。
「慌てるな、慌てるなって。慌てても良いことないぞ? 全部話してやる。もうあんたらの依頼人の女は付けてない。ターゲットを変えたんだ。今日は朝早くからここにいたんだ。ちょうどあんたらと入れ違いになったんだろうさ。アパートの部屋には俺の飼ってる犬のマリーしかいなかったはずだ。知ってると思うが、俺は小説家なんだよ。んで、小説を書くために気に入った人間を付け回してる。物語のキャラクターにはモデルが必要だからな」
「わかるように言え」
木戸はさらに自分の手に力を込めた。自分たちは何時間も犬の見張りをしていたのかと思うと自然とそうなった。
「だ、だから、変人なんだ俺は。でもあんたらに目をつけられて、探偵に目を付けられるなんて初めてのもんだから、ぜひとも和解したくて。彼もそう言ってたんだ。そうだ、次回作は探偵小説を書いたらいいのかあ!」
チャーリーは大きな声でまくしたてると、何とも言えない無邪気な笑顔を見せた。
「誰か助けてくれ。俺、こいつ怖い」
木戸はそう言ってチャーリーの襟元を掴んでいた手を放した。
「じゃあ、今は誰をストーキングしているんです? 『彼』とは?」
木戸に代わり、ケイが怯むことなくチャーリーに質問した。
「もうストーキングなんてする必要ないさ。そんな人間じゃないんだからな、彼は。パブで飲んでたら、向こうから俺に興味を示してきたんだ」
「ふぅん。今度は男ですか」
「ああ。彼を主人公にしようと思ってる。ストーリーはあらかた考えたんだぜ。今までにないような、恵まれた環境から生まれた悪役が主人公だ」
「そんなの、ただのクズじゃねえか。どうでもいいんだよそんなことは。つまり、俺はもう依頼人の女の言うことは聞かなくて良いってことか?」
木戸がまた割り込んできた。どうやらまだ苛立っているようだ。メイヤーがまた木戸をなだめている。
「ああそうだとも。彼女はたいして面白い人間じゃなかった。俺の尾行に気が付いたことを除けば、プライドが高いだけの凡人だ。でも、不快な思いをさせて悪かったと伝えてくれ。なんなら金も払う。博打で稼いだ金だけどな」
「ふざけやがって……」
「すまないね。とにかく、俺は今注目してる男がこれから起こすことを見届けたいんだ。あいつは今に何かを起こす気だ。俺にはわかる。こういう奴がいるから、俺はこの島にとどまり続けるんだよ。今までこんなクソみたいなところで生きて、騙されたり内臓を取られそうになったり、色々と災難ばかりだったが、それでも離れられないんだ。あいつさえいれば、くだらないファンタジーなんかより、よっぽど面白いものが書けるぜ! 何となく似てるんだよ。俺が探してる奴にな」
チャーリーは一方的に語り始めた。あまりに猛烈な勢いで語るので、一同は頭をフル回転させて聞き取らなければならなかった。