前触れ
あれからケイはこっそり朴のアパートを見に行ったが、そこに彼の姿はなかった。
数日前、待ち合わせの場所に朴は現れなかった。すっぽかされたのかと思ったが、金を渡す約束だったのだから、それはあり得ない。今の朴に必要なのは金だ。不本意な人生からの脱却には金が必要であるはずだ。とすると、正体がばれて消されたか、それとも何か別の事件に巻き込まれたてしまったのか。
ケイは隣の住民に話を聞こうと思ったが「元々面識もないし、わからない」とだけ返ってきた。最近の人間は誰もがこんなものなのだろうかとケイはため息をついた。
仕方がなくアパートの階段を下り、事務所に帰ろうとすると、ふと誰かの視線を感じた。
誰かが自分のことを見ているような気がする。気づいていない風を装い、周辺に目を凝らすが、それらしき人物はどこにも見当たらない。頭の中で過去の自分の台詞が生々しく再生された。
――何もかもうまくいきすぎて気持ちが悪い。こういう時は、大抵近々悪いことが起こる。
あちこち遠回りしてから事務所に戻って来ると、メイヤーがいた。
「メイヤーさん、調子はどうですか?」
「おかげさまで、すっかり良くなったわ」
メイヤーは調査事務所の『顔』だ。基本的に依頼を引き受けたり、依頼人のカウンセリングを行ったりする。ついこの間までインフルエンザを拗らせていたため、しばらく休養を取っていたのだ。一見ただの太り気味のおばちゃんだが、若いころは警備員として様々な豪邸や銀行を守ってきた。片手で人を殺せる、暴れ牛を素手で締め上げるなどといった伝説も持っているが、それらについては本当かどうかわからない。
一方、木戸の方はこれから外に出るらしく、ジャケットを羽織っている。
「例のストーカーですか」
何気なく尋ねると、木戸は「暇なら来るか?」と言った。午後からは事務所の掃除をするか、面倒だがビスカッチャの手伝いをする予定が入っていた。
マーティンには悪いが、あのカフェは客の入りが悪い。来るのはいつも同じ客ばかりだ。それもろくでもない。大体、調査事務所の隣にあんなものを作ること自体あまりよろしくないのではないかとケイは度々思っていた。
「今日は無理です。明日なら行ってもいいですけどね」
ケイがそう返事すると、木戸は何でもない様子で出て行った。
次の日の早朝、ケイは木戸の運転する車に乗り込んだ。
「そうだ、朴はまだいたか?」
エンジンを掛けた木戸が淡々とした調子で尋ねた。朴のアパートに行ったことは誰にも教えた記憶はない。
「いませんでしたが――」
「が?」
「もしかして私を付けてましたか?」
あの時感じた視線は気のせいではない。自分の知らない人間があの場にいて、自分を観察していたと考えると気分が悪い。ならいっそ自分の知っている人間であって欲しい。どうせそんなことはないのだろうが。
「馬鹿言え。そんな暇人にしかできないような真似しなくても顔見ればわかる。あ、また雨だ……」
フロントガラスに水滴が模様を作り始めていた。ここの所雨ばかり降っている。
わかっていた。木戸がそんなことをするはずがないのだ。ケイは背もたれに体を預け、目を閉じた。昨日の事務所の掃除やカフェの手伝いで疲れていたせいか、眠気はすぐに襲ってきた。まるで催眠術師にでも掛ったように。そして、夢を見た。
「リサ。どこへ行ったの?」
「あの子たちの行きそうなところはもう全部見て回ったよ。さっきより雨が強くなってきた。もう帰ろうよ」
「リサ……」
「ケイ、どうしてあの子にこだわるの? ちょっとはチャドックの方も心配してあげたら? リサ、死んだ妹にでも似てた?」
「妹なんて知らない。だって私は――」
「産まれてすぐ売られたんだっけ? ん、売られた?」
「……何?」
「いや、もしかしたらあの二人――」
「やめて」
「わかった。わかったから、待ってよ。もう少し探すから。もう、なんで私がこんなこと……」
「おい、起きろ!」
木戸の声が乱入し、ケイは現実世界に引き戻された。雨はさっきよりも強くなっていた。