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スパイとの約束

 その機会は突然やってきた。

 ケイがチャンの情報を集めているとき、偶然朴と再会する機会を得たのだ。その姿を見つけた時、ケイは自分の心臓が壊れそうになるほど高鳴るのを感じた。

 朴は冴えない顔色で、背中を丸めながら夜の街を一人寂しく歩いていた。ケイはこっそりそのあとを尾行した。

 彼は海沿いの小さなアパートに住んでいるようだった。どうやら同居人もいるらしく、ケイは向かいの廃屋に潜んでずっとその様子を観察した。

 どんなにまともな人生を歩んでいる人間でも、必ず弱みがある。たとえ悪いことをしていなくとも、誰にも知られたくない不都合な秘密を持っているものだ。ケイはそれを引っ張り出したかった。あの時、朴の目には明らかに迷いがあった。だからこそ隙をついて逃げることができたのだ。あの時からケイは朴に目をつけていた。

 ケイは数日間観察を続けた。朴が何時に目を覚まし、何時に朝食をとり、何時に家を出てどこに向かったか、一日に何度トイレに入ったか、交際相手の女、父親、兄はどんな人間なのか……

 我ながら気色悪い作業をしていると思った。こんな時、ケイはよくふと我に返っては、「自分は一体何をしているのだろう」と憂鬱に思うことがあった。己の私怨を晴らすために見ず知らずの男をストーカーのようにこそこそと追いかけまわしているのだから無理もない。


 朴の住むところからそう遠くない場所に、小洒落たスペイン料理屋がある。この日もケイは当然のように朴の後に続いて中へ入った。ついに朴に接触を試みることにしたのだ。

 都合のいいことに、朴の約束の相手は来ていないようだった。朴は窓際の席に座っていた。ケイは迷わず向かいの席に腰を下ろした。突然目の前に腰を下ろした見知らぬ女に朴は警戒の色を見せた。ウェイターがやって来て、二人の前にレモン水を置いていく。

「……なあ、席を間違えてないか?」

 テーブルに置かれた二つのグラスを憂鬱そうな表情で眺めながら、朴はそんな言葉を絞り出した。

「いいえ。ここであっています」

 ケイはそう言ってグラスを自分のほうへ引き寄せた。

「おそらくあなたは私の顔なんて覚えてもいないでしょう。しかし私ははっきり覚えているんですよ。一度会った人間の顔は嫌でも覚えているんです。あなたの顔も、チャンの顔も」

 そう言った瞬間、朴の顔が一気に強張った。

「ここ数日、気持ち悪いですがずっとあなたのことを観察していました。慣れない仕事だったのでなかなか骨が折れましたが、いい練習台でした。観察の成果を報告しましょう。あなたは海沿いのアパートに住んでいて、父親は町外れでガソリンスタンドを営んでいる。ガソリンスタンドを手伝う傍ら、人身売買にも手を出している。父親とはあまり仲が良くない。母親はいない。子供のころ、学校にも行っていない。時折遊びに来る女性と金をせびりに来る兄がいて、兄の方は借金を抱えている。女性の方は、今まさにあなたが待っている人物です。名前は確かアンナ。彼女は――」

「おい、要求はなんだ?」

 朴が乱暴にケイの話を遮った。その眼には困惑と苛立ちの両方が映っていた。

「まあ、たいしたことではないですが、あなたの持っている情報をちょくちょく私に流してくれればいいんです。特に人身売買業者についての」

「何故だ。何故そんな情報が必要なんだ。そもそもお前は誰なんだ。前に会ったことがあったか?」

「本当に何も覚えていませんか? あれがあなたの初仕事だったのに」

 ケイがそう言うと、朴はすべてを思い出したようだった。額には冷汗が滲んでいる。

「お前、まさか……いや、そんなはずは……あの時、お前を取り逃がしたのはわざとだったと言ってもいい。今よりガキだった当時、塀を超えて地面に落ちたお前を捕まえる気になれなかった。どうしようか悩んでいたら突然後ろから誰かに――」

「ああ、思い出したならいいんです。それで、どうしますか?」

 さっきの仕返しと言わんばかりにケイが声を被せる。

「……嫌だと言ったら、どうなるんだ?」

「私はここに居座ります。今、ちょうどアンナを足止めしていた私の仲間が、彼女を解放したころだと思います。アンナはもうすぐここへやって来る。私はこの場を動かない。何が起きるかわかりますか?」

「クソ。修羅場でも作り出す気か」

「そしたら、皆で仲良く出禁を食らうでしょうね。まあ、私はこの店に興味がないからいいですが、アンナはこの店が気に入っているんでしょう?」

 朴は心配そうに窓の外を見た。幸い、アンナの姿はまだ見えない。

「そうだ。あなたにとっても、何か都合のいい条件をあげましょうか」

 ケイは続けた。

「情報はそれなりの値段で、私が買います。お兄さんの借金の足しにでもしてください。――あ。ほら窓の外、彼女じゃないですか?」

「えっ」

 ケイが指さす方向には、確かにアンナの姿があった。朴は動揺した様子でケイにその場を離れるよう言った。

「私にどこかへ行けと言うことは、私の要求に対して『イエス』ということと同じですが」

「構わん。早くどっかいけ。このひとでなし!」

 ケイは静かに自分のグラスを持って立ち去ろうとした。

「すみませんが、テーブルに付いた水滴は拭いておいてください」

「おい待て。一つ教えてやる」

 朴が布巾でテーブルを拭き取りながら、じっとケイの方を見ている。

「何です?」

「チャンの顔は昔と違うぞ。前に整形してきたからな。何のためかは知らないが」

 数秒間、奇妙な沈黙があった。

「……なるほど」

 ケイがそう言った直後、アンナが店の扉を開いた。彼女は何の疑いもない目をしていた。すれ違いざまに軽くぶつかったケイに軽く会釈をし、朴のいる席に向かって行くのを、ケイは静かに見届けると、適当なテーブルにグラスを置いて店から出て行った。



【情報整理メモ】

ケイ

島の外の娼婦街で産まれ、後に人身売買業者によって子供に恵まれない夫婦のもとに売られる。それから一二歳になるまで抑圧的な環境で生活を送る。

夫婦が他界すると煙草屋を営む祖母のもとで穏やかな生活を送るが、ほんの数年で死別する。生きる目的を失っていたところ、チャンに指示されたリサという少女によって路地裏のグループに引き入れられ、周りに流されるまま酒や煙草に手を出し、自分の過去も打ち明けてしまう。

しかし、そんな暮らしもリサの失踪をきっかけに崩壊する。

突然チャンに裏切られ、危うく誘拐されそうになっていたところを駆け付けたジュナに助けられる。

その後ケイはグループの仲間にチャンの居場所を尋ねるが、彼は既に姿を消していた。仲間たちにあらぬ疑いを掛けられ、ついに帰る場所を無くしたケイは、ジュナの提案で調査事務所の一員になる。

その後も一人でチャンの居場所をつきとめようと足掻くが、一向に手掛かりは掴めなかった。諦めかけていたあるとき、ケイは偶然自分を誘拐しようとした男、朴と再会する。彼はまだチャンと繋がりを持っていた。

後先考えずに朴を脅しと金で味方に付けたケイは、チャンの情報を朴から流して貰おうとしたが、事はそう簡単には運ばず、何も行動を起こせずにいた。

そんなある日、ジュナによって依頼が持ち込まれた。ケイは周りを巻き込んでついに行動を開始する。


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