ローズ
『君、ケイと言ったか。歳はいくつなんだ?』
『はい。二十歳です』
『二十歳か。二十歳と言えば、思い出すなあ。戦場では何度そこの男に命を救われたことか。覚えているか? 確かあれは二十歳かそこらで――』
『いいや、とっくに二十歳を超えてたさ』
それからは実に他愛のない話が繰り広げられた。退屈した木戸は、今掛け持ちしている別の仕事のファイルに目を通し始めた。たいしたものではない。とある女のストーキングをしている男の素行調査だ。
――いや、本来こっちが俺の仕事で、こんなことしてる場合じゃないんだぞ。
頭の中でそうつぶやいた時、はっきりとしたケイの声が聞こえた。
『聞いてますか木戸さん。ローズは一人の部下と友人と一緒にいます。友人の方は先に帰るようなので、出てきても無視してください。部下の方は、こちらで何とかします。……それと、やっぱり店の中まで入ってきてください』
ここまで喋るということはトイレかどこかにいるに違いない。木戸はゆっくりと背もたれに預けていた体を起こし、静かに車の外へ出た。
外はまだ微かに雨が降っていた。歩きながら、懐から用意しておいた拳銃を確認する。念のために一発だけ弾を込めてあった。自分がこれからすることを考えると馬鹿馬鹿しくて仕方がない。何故自分がこんな茶番のために犠牲にならなければならないのか。思い起こせば、最近は貧乏くじばかり引かされているような気がする。まだ先日の仕事の疲れも取れていない。
木戸はバーの前まで来ると窓からこっそり中の様子を盗み見た。カーテンが邪魔だがうっすらと人影が確認できる。すると一人の男がこちらに向かって歩いてきたので、木戸は慌てて店の脇の暗闇に溶け込んだ。
杖をついた初老の男だった。おそらくケイの言っていたローズの友人だろう。男は真っ黒な傘を差すと、ゆっくりと夜の闇の中に消えていった。
これで突入する準備は整った。もう一度窓に近づく。いかにも強盗らしい覆面をした自身の顔がぼんやりと映っていることに気が付き、思わず失笑した。
バーの扉を乱暴に開くと、中にいた人間が一斉にこちらを振り返った。マスターは強盗が構えた銃にすっかり驚いてグラスを床に落としてしまった。
「動くな! 死にたくなければ金を用意しろ……」
「動くな」と言った瞬間ケイと目が合い、動揺して台詞の最後がイントロクイズのように小さくなってしまった。間違いない。あれは人を子馬鹿にする時の目なのだ。木戸は内心苛ついたが、そのせいでうまい具合に腰抜け感が出た。この際だから腰抜けの強盗という定でいこうと思った。
「な、なんてことだ……」
マスターはそう言って、この世の終わりのような顔をした。気の毒だなと思いながら、店の中を見回す。怯えたマスターとローズの顔。ローズの部下はあろうことかカウンターに突っ伏してしまっている。ケイに何かされたのだろうか。屈強そうな体つきをしているが、これでは何の役にも立たない。ただの椅子に座る巨大な物体だ。
「レ、レジの金を出せるだけよこせ。でないと、こ、こいつの頭が吹き飛ぶぞ」
木戸はそう言ってケイの頭に銃口を押し付けた。ローズに押し付けた方が良かったかもしれないが、彼はケイより奥の席にいたため断念した。わざわざ力の弱そうなケイを無視して太った男の方へ銃を突きつけに行くのはどう考えても不自然だった。
ちらりとケイの方へ目線を向けると、ぐっと眉間にしわが寄った。合図だ。
「お、おいデブ。何こっちじろじろ見てやがる。お前から殺してやろうか?」
木戸がそう言って銃口をローズの方に向けた瞬間、ケイに腕を取られた。それと同時に足首に何かが当たる感触があり、ぐるっと視界が回ったかと思うと、思い切り床に叩きつけられた。受け身はなるべく取るなと言われていたせいでもろに腰を打った。手に持っていた銃も奪われ、自分の顔面に突き付けられている。「無様」という言葉が頭に浮かんだ。
「いってえ」
これは演技でもなんでもなく本心だった。本当に痛かったのだ。マーティンの方を見ると、なんとなく笑いを堪えているように見えなくもない。ローズの部下もようやく意識を取り戻したのかカウンターから身を起こしている。だが事態を読み込めていないのか、ぼんやりとした目でこちらを見ている。
「……く、くそ、畜生ー!」
このままぼうっとしているのも不自然なので、木戸は適当に悪態をついて退散することにした。ドタドタと騒がしく音を立て、パニックを起こした風を装いながら店の外に飛び出した。ただあまりリアルにやりすぎたため、店を出たところで危うく車に轢かれそうになった。
店の中がそれからどうなったのか知らないが、とにかく自分の役目はこれで終了だ。木戸は大きくため息をついた。床に打ち付けた腰がまだ痛い。おもむろに覆面を剥ぎ取り、上着も裏返しに着た。雨はまだ降り続いていたが、車には戻らずにそのまま夜の繁華街を一人でぶらついた。