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その日の仕事を終えて、ベッドに横になった。
身動きをする度に、絹傘から渡された紙がポケットの中で音をたてた。
僕はベッドの上に投げ出された手を動かして、自分を落ち着かせるように、首の後ろを撫でた。
僕は、あの日のように絹傘のことを頭の隅に追いやり、見ないようにした。
目を閉じると、いつの間にか微睡みの中に身を委ねていた。
お昼時になると、宿の食堂は人でごった返す。
元々、憲尚さんが1人で切り盛りしていた小さな宿屋だが、お昼時になるとランチをやっている。
そのランチを目当てに街中から人が押し寄せるのだ。
その混みようは凄まじく、平日は外の通りまで人が列を成してランチ終了の時刻にならないと人が途切れない。料理の蒸気と人の熱気で飽満した食堂で僕は汗だくになって駆け回っていた。
「キョーヤくん。こっちオムライス2つね」
「キョーヤ。お冷のお代わりちょうだい」
「はいっ!!ただいま」
今まで、憲尚さん1人で出来ていたのが不思議なくらいだ。僕はウェイター兼、憲尚さんの助手として昼時の忙しさに忙殺されていた。
「お疲れ。今日は特に忙しかったな…」
憲尚は厨房からテーブルに突っ伏している響也に声をかけた。
「うん…」
テーブルの机の上で広がった自分の髪が汗で束になっているのが見える。舐めた唇も塩っぱかった。
「昼時も終わったし、ちょっと外で休憩してこいよ。もう殆ど片付けは終わってるから」
「ありがとう」
外に出ると冷やっとした空気が体を包み込んだ。冬なのに、こんなに汗をかいたの久しぶりだな…。
店先の裏口の近くで疲労感が僅かに溜まった体を座らせた。
冷たい風が気持ちいいや。
目を瞑って、風に身を任せる。
「キョーヤっ!」
聞き慣れた声に目を開けると、心配そうに見つめるリンの姿があった。
「冬なのにそんな薄手の格好していたら、風邪を引くわ…」
リンは臙脂色のケープを肩に羽織り、頰と鼻の頭を赤く染めていた。
「どうしたのこんな時間に。まだ店番の時間でしょ?」
「頼まれたお使いの帰りなの。キョーヤの姿が見えたから、声をかけようと思って」
「そっか」
リンは下を向いて何かを言いたそうにしていた。
「ん?どうしたの?」
「あの…。この間、言っていたランチはいつ頃予定が合いそうかしら…」
リンの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「今度の日曜日で良ければ…どうかな?」
「本当っ!!」
リンはその場でふわり飛び跳ねると、勢いよく僕の前に屈んだ。僕と同じ視線になったリンの琥珀色の綺麗な瞳に僕が映った。
「キョーヤ。ありがとう!」
リンは僕の両手を取ると、満面の笑みを浮かべた。
リンとの約束の日をあっという間に迎えた。冬の厚く垂れ込める雲に光を差すように太陽は輝いて、海はその光を浴びてキラキラと黒く輝いていた。
「キョーヤ。お待たせ」
リンはネイビーのクラシカルなワンピースの上にベージュ色のダウンを着ていた。三つ編みで結んでいる素色の綺麗な髪を下ろし、彼女が動く度に髪の毛がふわりと踊る。いつもと違う髪を下ろした彼女の姿にドキドキと胸が高鳴った。
「全然待ってないよ」
「そう。良かった。あのねキョーヤさえ、良かったらで良いんだけど…」
「なに?」
「今日はピクニックしない?私、作ってきたの」
リンはそう言うと、恥ずかしそうに自分の後ろに隠し持っていた籠のバスケットを出した。
「作ってきてくれたの!?」
「うん。キョーヤに食べて欲しくて…」
「ありがとう」
「私が作ったの、嫌じゃない?」
リンはその大きな瞳で心配そうに僕に訊ねた。
「リンが一生懸命作ってくれたものだろう。嫌な訳ないじゃない。ほら、荷物貸して。僕が持つから」
響也はリンからバスケットを受け取った。
「いいの。私が勝手に持ってきただけだし…」
「いいから。陽が傾くと寒くなるから、早く行こう」
「うん!」
リンは嬉しさを隠しきれない様子で、響也の後を着いて行った。
「はぁ…。着いたね」
ここまで、歩くのに体が少し冷えていた。
冬場の草原はどこか寂しげだけれど、風が吹くとそのしっかりと生える草の根元を大きく揺らし、波のように色を変えて広がって行く。
「リン、寒いんじゃない。大丈夫?」
振り向くとリンはやっぱり頬と鼻の頭を赤くしていた。僕が聞くと彼女は決まって首を横に振るのだった。
「ねぇ、キョーヤみてよ。街がよく見えるわ。綺麗…」
その言葉に後ろを振り返ると、いつも自分が暮らしている街と海が遠くに見えた。温かみを感じられるその街の姿に冬のどこか寂しげな黒い海が寄り添うように色を添えていた。
「良い眺めだね。ここら辺にしようか」
僕たちはレジャーシートを広げ、その上に座った。
リンが持ってきてくれた毛布に2人で包まりながら、彼女が作ってくれた暖かいスープを飲む。
コンソメの美味しそうな香りが食欲をそそった。
「どうかな…」
リンは不安な様子で響也の言葉を待った。
「これ、すごく美味しいよっ!」
冷えた体を芯から温めてくれるその味に胃袋が満たされる。
「良かったぁ」
リンは僕の言葉に安心すると、遠くの海を満たされたような笑顔で眺めていた。吹き抜けて行く冷たい風が、時折、リンの長い髪を遊ぶように靡かせる。
よく考えたら、リンとこうして外で会うのは始めてだった。3年間の付き合いだけれど、この街に来て、同年代で一番仲良くしてくれたのはリンだけだった。友達のような、家族のような、不思議な関係だった僕ら。リンは美人なのに、変に気取ったところが無くて、竹を割ったような性格で。この街に来たばっかりの時は、羨ましかった。
「あのね、最近キョーヤが元気が無いように見えたから、心配してたんだ」
リンは海を見つめたまま響也に言った。
「元気無いように見えた?」
「うん…」
伏せた瞳を飾る長い彼女の睫毛。その顔は酷く寂しそうに見えた。
僕は彼女の不安を払拭するように笑った。
「考え事してるとぼうっとするみたい。ほらこの通り元気だって」
その言葉を聞いて、リンは笑った。
「うん。ならいいんだ…。」
リンは遥か遠くに見える地平線を見据えた。
「私ね。キョーヤの近くに居られることが嬉しいの。キョーヤがこの街に来てくれて、出会えた事に感謝してる」
「そんなに…?」
「そうだよ…」
リンは僕の方を向き、手で風で舞う髪の毛をそっと抑えると、微笑んだ。太陽が彼女の白い肌を照らし、輝く。
「キョーヤはね。周りの人の為に、いつも一生懸命で優しくて、頼もしくて、強くて…」
「私の一番ーーーー」
その時、一際強く風が草原を駆けた。僕は風にかき消されてしまいそうなリンの声を確りと聞いた。リンの赤くふっくらとしたその唇が発した言葉を。
「リン、僕は…」
僕の言葉を遮るようにリンは優しく言葉を重ねた。
「分かってる。ただね、伝えたかったんだ…」
真っ白な光の中で、何かが見えた。
「この街にキョーヤは居るのに、居ないんだよ…私はずっと見てたから、分かってるよ…」
大粒の涙は彼女のワンピースにポロポロと溢れて悲しみの痕をつくる。
「私、泣かないって決めていたのに、駄目だ…」
「リン…」
いつかこんなことが起きてしまうのを、どこかで分かっていた気がする。けれど、僕は彼女を慰める言葉なんて持っていなかった。リンのすすり泣く声だけが、耳に痛くて何も出来ない僕を責めている気がした。
「あのね…人が生を与えられていることには理由があるんだって」
唐突に彼女はそう言った。
リンは涙を手の甲で擦ると、赤く腫れた目元で微笑んだ。
「理由…?」
「うん、理由。私はキョーヤに出会ってそれが分かったよ。だからね、キョーヤにフラれてきっと私の半分は死んだんだと思う」
「なにそれ?」
生死について語るには明るすぎる彼女に僕はつい笑ってしまった。
彼女は僕の笑みを満足げに見ると、微笑んで空を見上げた。
「これから私が生きるのはきっと余生なんだと思う」
一切の迷いを感じない晴れやかな表情は、快晴の空に負けないくらい眩しく輝いていた。
リンは一呼吸置き、僕の方に体を向けるとレジャーシートの上で膝立ちになって僕にハグをした。2人の間に言葉は無く、風と揺れる草の音だけが世界を包んだ。
リンはゆっくりと惜しむように体を離すと、ただ響也だけを見つめる。
まるで、リンの世界には彼だけがいることを許されたように、まっすぐと。
「今日は、私に付き合ってくれて、ありがとう…」
赤く泣き腫らした琥珀色の瞳がまた潤んで、太陽の光を反射させた。
「ただいま。今日はありがとう」
「店も丁度休みだったからな。お前はまだ若いんだから、ちゃんと遊べよ」
憲尚さんは厨房で明日の仕込みをしながら、その厳つい顔を緩ませた。
「あ。そういえば、お前、聞いたか?リンちゃんのこと」
「ん?リンがどうかしたの?」
僕は、椅子に腰掛けエプロンを腰に巻いた。今日のリンの姿が頭を過ぎる。
「どうかしたのじゃねぇよ。俺はずっと心配してたんだ」
お嫁に行くんだよ。今日、親父さんが挨拶に来た。お前もお祝いしないとな。リンちゃん居なくなって、寂しいだろ。
リンは、ずっと前から気付いていたんだ。
眩い光の中、リンを通して僕が見ていたあの人の姿に。