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「今日もありがとうね」
「いいえ、いつでも言ってください」
老女は家の前で頭を下げると青年に包みを渡した。
「頂き物で悪いんだけど、私食べないのよ。良かったら、どうぞ」
「あぁ。そんなの良いのに」
彼は笑顔でその包みを受け取ると、老女にお礼を言った。
「ありがとう。美味しくいただきます。それじゃあ、良い1日を」
僕は包みを片手に仕事場に急いだ。
昔の遺産であるオレンジ色の瓦で出来た沢山の家が街を彩り、道は補修されながらも何百年も前の文化が今も生き続けていた。
この街には、ALMも居ないし、PDの普及率も低い。
街自体が昔の遺産なのだ。
この街の人は皆温かく、お互いを家族として支え合って生きていた。
ここは都心部では忘れられたものに溢れている。
僕にとって、全てが優しかった。
石畳が敷かれた坂の向こうに海が見えた。空で鳴く鴎と海の匂いが僕の遠い記憶に呼びかける。
3年前のあの日。
まだ雪が地面に残っていて肌を刺すような寒さの中、僕はボストンバック1つでここに辿り着いた。僕を暖かく受け入れてくれたのは、この街で宿を営む憲尚さんだった。
住み込みで働きながら、憲尚さんに仕事を教えて貰った。今では仕事をすることは、僕の生き甲斐となっている。泊まりに来てくれるお客さんが喜んでくれる事が嬉しくて、仕事をするという事がこんなに感謝される事だなんて、知らなかった。
けれどこの3年間、憲尚さんは何かにつけて僕に休みをくれようとする。
僕は毎日でも働きたいのにさ。
「憲尚さん、今日の仕込みまだだよね?」
「あぁ。まだだ。スープに使うトマトが足りないんだよ」
「じゃあ、僕が買い出し行ってくるよ。ちょうど手が空いたから」
「悪いな」
憲尚さんは短く刈り上げた黒髪の頭を厨房から出すと、その厳つい顔で僕にはウインクした。
「だから、そういうのはお客さんにだけでいいから」
「まぁ、キョーヤはうちの大事な看板娘だからな」
「僕、男なんだけど…。もう、やめてよ」
大声で笑う憲尚さんの声を聴きながら、僕は買い物カゴを持って宿を出た。
「こんにちは」
「おや、キョーヤ。買い物かい」
「ちょっとトマトが足りなくて、リンのお店まで」
「途中まで行くから、乗ってくかい?」
「ありがとう」
僕は彼の車の荷台に飛び乗った。
車が街の石畳にゴトゴトと音を刻む。
「おーい。キョーヤ。そろそろ着くぞー」
「ここまでありがとう。助かったよ」
響也はお礼を言い、車の荷台から飛び降りた。
その店は長く続く坂の上にあった。
黄色い屋根の街で一番美味しいと評判の野菜を扱うお店だ。しかも、街一番なのは野菜だけじゃない。店先には色取り取りの鮮やかな野菜が並んでいて、その中に彼女の姿が見えた。
「こんにちは、リン」
「キョーヤ。お昼の仕込みの時間は終わった頃じゃないの?」
リンは、足首まである厚手のロングワンピースの上に生成色のエプロンを着て、素色の緩く編んである三つ編みを指先で遊ばせた。
「ちょっと、トマトが足りなくてさ」
「もう。キョーヤったら抜けてるのね」
リンは店先に並ぶトマトを10個ほど、紙の袋に入れると僕にその紙袋を渡した。
「違うよ。今日の仕込みは憲尚さんだったんだって」
「人のせいにするのは良くないわよ」
綺麗な琥珀色の瞳を細めた後、可愛らしい声を出して笑った。
もう一つの街一番。それは、リンの美しさだった。
素肌は透き通るように白く、人形のように整った顔立ちの中でその大きな琥珀色の瞳は見るものに強く印象付けた。隣街からも求婚に来る人が絶えず、年頃のリンの周りにはそういう話が尽きない。
にも拘らず、どんな人が来てもリンは頑なに断り続けた。それにはリンのご両親も参っているようで、なぜそこまで断るのか僕が聞くと、リンは決まって機嫌を悪くするのだった。
これでは、聞く余地などない。
「お代はいつもの方法で良いの?」
「うん。憲尚さんに伝えとく」
「そういえば、こないだの話考えてくれた?」
「考えたんだけどさ、僕なんかと一緒にご飯行ってもきっとつまらないよ」
「もうっ。キョーヤはわかってない。こんなに誘ってるのに」
「ごめん。そういうの僕にはまだわからなくて」
「私より年上なのに、おかしいわよ」
リンはその可愛らしい顔を少し膨らませて、僕を睨んだ。
時計を見ると、仕込みの時間が迫っていた。早く帰らないと間に合わなくなる。
「リン、ごめんね。もう仕込みの時間だ。次予定があったら、一緒にランチでも行こう」
「本当にっ!?約束よっ!」
リンは僕に抱きついた。リンの柔らかい体が僕に触れた瞬間、ふわっと甘い花の匂いがした。
「年頃の子がそういうことしないんだよ。誰かに見られたら、勘違いされるだろ。ほら、離れて」
僕は、リンの華奢な肩に手をおくとそっと引き離した。
「キョーヤ。楽しみにしているわね」
「うん。また連絡するよ」
僕はリンに手を振ると帰り道を急いだ。坂を下る時に振り向くと、リンがまだ店先で手を振っていた。僕はリンに見えるように手を振って、角を曲がった。
この街に来て、色々な事があった。
3年という時間は、一瞬であると同時に驚くほど長く、僕に重く押しかかってくる。
時が経てば経つほど手中のものが溢れ落ちていくような。
ボロボロと溢れているそれは自分の一部のような気がした。
僕は僕を零しながら、いつか朽ちていくのだろうか。
僕は目の前に日に焼けない白い手を広げてみた。僕の体はどこも昔のままだ。
人口人体化された自分の体。
朽ちていく気配なんて微塵も感じさせない体。
体に出ないのならば、僕は内側から朽ちていくのだろうか。
その時、僕はどうなるのだろう。
中身がなくなり、蝉の抜け殻のようになった自分を想像した。
パリパリに乾燥した殻に重みが加えられて、形を無くしていく。
その時、僕はどこにいるんだろう。
僕は自分の両手を握りしめた。
「憲尚さん、ただいま」
「おかえり。友達が泊まりにくるなら、先に教えてくれよ。部屋の一つや二つ取って置いたのによ」
憲尚さんは困ったように頭を掻いた。
「友達?」
僕はトマトの入った紙袋を厨房に置いた。
「キョーヤの友達って言ってたぞ。えらい垢抜けててなぁ。お前、都心部の方に友達がいたんだな」
心臓が早鐘のように鼓動を打った。
「その人どこにいるの…?」
「ほら、外のテラスでお前のことずっと待ってるぞ」
テラスに出ると、海風が吹いて海の匂いが辺りに広がった。
記憶の中にある、あの人の後姿。海の見えるテラスに腰掛けて海を眺めているその姿はどこか寂しげで頼りなかった。
「絹傘…」
よく唇に馴染むその名前。僕の身体は思い出したかのように、彼の名前を呼んでいた。
絹傘の姿を見た時から、僕の視界には彼しか居なかった。まるで、時間が止まったような。世界がここだけ切り取られてしまったような。時間も音も全てが無くなって、僕と絹傘だけがそこにいた。
絹傘はしっかりとした足取りで僕に近寄り、抱きしめた。
「どれだけ探したと思ってるんだ…」
絹傘に抱きしめられている体がギシギシと痛む。その顔は憔悴仕切っていて、最後に見たときより、窶れている。
「無事で本当に良かった…」
絹傘は僕の肩に手を置くと、僕の肩口に顔を埋めた。
「ごめん…。俺は昔から響也のことを傷つけてばっかりだ」
絹傘は惜しむように僕から体を離した。
「デジタルモメント…見たんだろ?」
僕と視線を合わせるように腰を屈めると、絹傘は歯切れ悪くそう言った。
デジタルモメント…。
あの日見たあれは…。
「響也が見たのはーー」
「絹傘っ!!待って」
全身から冷汗が噴き出して体が僅かに震えた。
僕は首の後ろを震える手で安心させるように撫でた。
「待って…」
感情の針が振り切っていて、言葉が出てこない。僕は頭の中でどうにか形にして口にすると、絹傘は信じられないものを見るような目で驚いた。
「響也…。君は…」
絹傘は自分の考えを否定するように被りを振った。
「ずっと考えていたんだ…」
絹傘の言葉が意味を持たずにさらさらと耳を流れて行く。
絹傘は響也の両肩に手を置くと、真剣な瞳で見つめた。
「俺は君を傷つけなくて済む方法を探しながら、逃げていたんだ…。君の為と言いながら、自分の為にも。俺は…」
絹傘はその身が引き裂かれたように苦しげに眉を歪ませた。
あ。
それは一滴の雫だった。
目の前でゆっくりとゆっくりと落ちていく。
僕はそれを見つめることしか出来なかった。
目の前の並々と水が注いであるコップの中に一滴の水の雫が落ちた。
落ちたと同時に大きく水の粒が跳ね、コップの水がぐわんぐわんと波打った。
溢れてしまう…。
「絹傘…やめて…」
僕は耳を塞いだ。
「おーい、キョーヤ。申し訳ないんだけど、少し手伝ってくれないか。折角なのに悪いね」
張り詰めていた空気がフッと解けた。
憲尚さんは窓から僕に呼びかけると、絹傘に向かって謝った。
「忙しい時間にすまない…。まだこの街に滞在する予定だから、時間が出来たらここに来てくれないか?」
憲尚さんから視線を僕に戻すと、まだ強張るその掌に宿泊先が書いてある紙を握り込ませた。
「響也の気持ちが固まるまで待ってるから。響也に話さないといけないことがあるんだ」
その真っ直ぐな瞳と絹傘に握られた右手だけが異様に熱く、僕のコップは決壊しその水を溢れさせた。