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「久しぶりだね、桔梗」
絹傘はその表情を明るくし、前髪で少しだけ隠された瞳がきらきらと輝いたように見えた。
「えっ…?知り合いなの…?」
「昔、お世話になったんだ」
桔梗さんは瞳だけ動かして笑顔で僕に教えてくれた。
「そうだったんですか」
「あぁ…。桔梗が元気そうで良かったよ…」
絹傘が桔梗さんに優しく微笑んだ。
「賢明さんもお変わりないみたいで良かった。僕は用事があるのでこれで失礼します。響也くん、またね」
「はい。また」
そう言って僕達に会釈すると桔梗さんは帰っていった。
絹傘は、遠くを見つめるように桔梗さんの後ろ姿をずっと見つめていた。
「絹傘…?」
そんな絹傘を見るのが初めてで胸が騒ついた。雪が薄っすらと降り積もる雪道に残された桔梗さんの足跡は僕の心にも足跡を残した気がした。
「響也…。体が冷えるからそろそろ帰ろう」
絹傘に手を引かれて真っ白な道の中を帰る。隣を歩く絹傘の顔は僕の角度からよく見えない。
歩くたびにしゃりしゃりと音がする中2人で歩いて行く。白く積もった雪は僕たちから発する音を静かに吸収る。音の少ない世界で絹傘は僕の手を離さないまま、徐々に早足になっていった。
「絹傘、絹傘!早いって…」
絹傘に呼びかけても返事はない。
その歩調について行けなくなった僕は、絹傘の腕を振りほどいた。
ふっと軽くなった右手が勢いよく自分の元に帰ってくる。
「絹傘、そんなに早く歩けないよ」
「あ…、ごめん」
絹傘は我に帰ったように、ハッとした顔をしていた。
「大丈夫。もういいよ」
僕はなんだか、そんな絹傘の様子が面白くなくて、ぶっきらぼうにそう答えた。
家に着くと、絹傘は僕にホットミルクを入れてくれた。僕は絹傘が座るソファの隣に腰かけ、火傷しそうなくらいに熱いホットミルクにちびちびと口をつけた。
「絹傘、桔梗さんと知り合いだったんだね」
「うん…」
絹傘は桔梗さんに会った直後から少し様子がおかしい。ずっと考え事をしているようだった。
会った時は、あんなに明るく嬉しそうだったのに…。
心配して見上げていると、僕の視線に絹傘が気づいた。
「もう今日は休むよ」
絹傘は微笑んで僕の頭を優しく撫でるとソファから立ち上がった。
リビングを後にする絹傘の広い背中。
気づいたら、部屋を出ようとする絹傘に声をかけていた。
「絹傘っ…待って…」
口にしようとするも、何て言っていいかわからず、結局言葉を飲んだ。
「どうしたの?」
「う、うん。…何でもない」
「響也も早く寝るんだよ」
おやすみと言うと、絹傘はリビングを出ていった。
絹傘の気配が遠ざかっていく。
「どうしてそんな顔をするんだよ…」
冷めたマグカップの中身を少しだけ揺らした僕の声は静かな夜に消えていった。
「じゃあ、行ってくるよ。戸締り忘れないように」
「はーい。行ってらっしゃい」
暗い中、絹傘を送り出した。
「はぁ…」
最近、僕はあることに頭を悩ませていた。
それは、絹傘が夜に1人で出かける事が増えたことだ。
絹傘のPDに誰かから連絡がくると、絹傘はまるでそれを待っていたかのように出かけて行く。そして、明け方帰ってくる絹傘からは、必ずうっすらとタバコの匂いをさせているのだ。
絹傘はタバコを吸わない。
絹傘は夜に出かけて何をしているのだろうか。
いつもなら、こんなこと普通に聞けるのに。
何かが引っかかって聞けない自分がいた。
気になった僕は、ある日連絡が来て自室に向かった絹傘の後をこっそりつけて、絹傘の仕事部屋の扉の前で聞き耳を立てた。
何か話しているようだけれどよく聞こえない。
僕は扉に耳をつけて、中の様子をじっと伺う。
すると、絹傘の低い声が断片的に聞こえてきた。
「あぁ。前…言ったが…危ない……だ」
「じゃあ、桔梗…また後で」
桔梗。
絹傘の声で確かにそう聞こえた。
そうか。
あのタバコの匂いは桔梗さんの匂いだったんだ。
その事実に石でも詰められたように胸がずしりと重くなり、気持ちが急に曇った。
胸の重みは全身に広がっていき、僕を動けなくする。
どうして僕はこんなにモヤモヤしているんだろう。
絹傘には、絹傘の交友関係があって、付き合いがあって、仕事があって。
僕以外の彼の世界がある。そんなことはわかっている。
今までだって、絹傘が僕の知らない人と出かけることだって何度もあったじゃないか。
そう納得させようとしても、目に見えない何かが引っかかっていた。
「響也…?」
気づくと、部屋を出ようと扉を開けた絹傘が目の前に立っていた。
絹傘は扉の前にいた僕の存在に驚いたように目を見開いている。
「あ…。ごめん」
ちょっと絹傘に用事があって、僕は絹傘の目を見ずに床に向かって嘘をついた。
「用事って?」
「聞こうと思ったんだけど、その前に思い出した…」
絹傘は少し訝しんでいるように見えたが、次の瞬間にはいつもの絹傘に戻っていた。
「そうか。今日もちょっと出かけてくるよ。朝には帰るから。」
「わかった。じゃあ、僕は先に休むね」
僕は顔に作り笑いを浮かべると、絹傘におやすみと言って自室に向かった。
自室のベッドに身を投げると、僕の胸の重さまでずっしりとベッドが受け止めてくれたように、深く深く沈んだ。
「はぁ…」
口から無意識に漏れる溜息に気づいて、余計に落ち込む。
絹傘が会っていた相手が桔梗さんだっただけじゃないか。
僕は天井を見る様に寝そべり、目を閉じた。
目が覚めて、辺りを見回すとまだ暗い。
PDに表示されていた時間は午前2時だった。
まだ夜か…。
もう一眠りしようとするが、喉の渇きに気づきリビングに向かった。
台所のボタンを押すと水がシンクを打って音を立てた。静かな空間にその音はとても煩く僕の心を波立たせる。
ぼうっとそれを見ながらコップに水を汲み、渇いた喉を潤す様にゴクゴクと飲み干した。
飲みきれなかった水が唇の端から、喉へ伝っていき服が溢れた水をじわりじわりと吸い込んでいく。
水を吸って、重く冷たくなった襟が気持ち悪い。
「はぁ…はぁ…」
僕は水で濡れた唇を袖で大きく拭った。
どこか焦点の合わない瞳は目の前の水滴がついたグラスを眺めながら、頭では全く別のことを考えていた。
絹傘が会っていた相手が桔梗さんだっただけ。
だけ。
たったそれだけのことで、僕の心はこんなにもかき乱されている。
本当の理由は半分くらいは自分でもわかっていた。
僕にとってこの気持ちが、"だけ"だなんて言えないほど大きなことも。
けれど、僕はその先にある気持ちを見たくなかった。
もう寝ないと…。
廊下に出て絹傘の部屋の前を通り過ぎようとしたけど、僕の足はぴったりと彼の部屋の前で止まって動かない。
今日、ここで絹傘の声は桔梗さんの名前を呼んでいた。
僕は何かに誘われるように絹傘の部屋のドアノブに手をかけた。
扉を開くとシンと静まり返った室内に、エアビジョンが浮かんでいる。
もちろん絹傘は出かけていて、そこにはいなかった。
部屋の中に入ると、自動で電気が点灯して、その姿を現した。
絹傘が居ない絹傘の部屋。
わかっているのに無性に寂しくなって、絹傘を思い出すように机を撫でた。
ここにいたら余計に色々考えてしまいそうで、恐かった。
僕は逃げるように踵を返すと、寝間着の裾が机の引き出しの取っ手に引っかかり、静かな部屋に乾いた木の音がカツンと響いた。床にばら撒かれた色とりどりの机の中身。
ばら撒いちゃった…。絹傘に怒られるかな。
急いで引き出しの中身を戻して行く。
「これ…」
床に落ちていたものに僕の目は釘付けになった。
こんなところにまで…。
床に転がる封の開いたタバコ。
握りしめたタバコのパッケージは僕の手の中でくしゃりと音を立てる。
ふと視線を上げると机の下に随分前に見た白い箱が落ちているのが見えた。
これ。あの時に見た…。
僕は汗ばんで滑る指でしっかりと白い箱を持つと、その蓋を開けた。
箱の中に入って居たのは、2枚のデジタルモメントだった。
デジタルモメント…?
データ媒体の一種でこの3cm四方の小さな金属片に、膨大なデータが入る。
しかし、余程のことが無い限り、データ媒体を使って保存することはしない。今では、オンラインストレージで管理するのが普通だ。例えば、大事なデータのバックアップやネットから隔離したい類のものにしか使わない。
中に何が入っているんだろう。最初は純粋な興味だった。
心臓の音がドクドクと煩く聞こえる。
体に走る僅かな緊張感と好奇心。体の表面を何かが撫でるようにざわめき立つ。僕は後ろめたさと罪悪感を感じながら、汗をかいて冷たくなった手で自分の手首にあるPDにデータを読み込ませた。
開いてみると、なんてことはない。
中に入っていたのは、一緒に海に行った時の写真だった。
PDからエアビジョンに投影される写真を眺めた。2人で行った沢山の海。
絹傘は僕の写真ばかり撮っていた。
「ねぇ、この間撮った写真見ようよ」
「嫌だよ。海の写真ばっかりでしょ?」
「ほら。よく撮れているよ。こう見ると、写真撮るの上手いな」
「自画自賛は寒いって」
「馬鹿だな。思い出は沢山あった方が良いんだよ」
絹傘はエアビジョンに映し出された写真を見ながら、誰に言う訳でも無くそう呟いた。
いつか、絹傘とやり取りしたそんな会話が頭を過ぎった。
僕は嫌で嫌で、写真を見ることなんてしなかったんだ。絹傘はこんなに大切にデータを保存してくれていたんだ。
見る。
たったそれだけのことをしなかった自分がバツが悪く、良心が痛んだ。
結局、1枚目の中身は全て僕との写真だった。
「もう1枚は何かな…」
僕は慣れた手つきで2枚目を読み込ませた。
2枚目は文字が羅列されたファイルが沢山入っていた。
絹傘の仕事関係のかな…?
スクロールしてファイル名に一通り目を通した。
僕が見てもさっぱりだ。僕が閉じようとした時、間違えて一つのフォルダを開いてしまった。
何これ…。
ヒュッと何かを擦るような情けない自分の呼吸の音が聞こえた。
僕の目に映ったのはーー。
「ただいま。帰ったよ」
絹傘が帰ってくると煌々とついたリビングのダイニングテーブルの上に響也のPDがぽつんと置かれていた。
「響也…?」
人の気配を感じない家の中で、声だけがひっそりと寂しく響いた。