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どれ位寝てしまっていたんだろう。
太陽に熱せられた体がジリジリと熱くピリピリ痛んだ。
寝ぼけ眼で隣に目をやると、洗練された都会的な容姿の男が目の中に飛び込んできた。
年齢は20代後半頃だろうか。
人間?ALM?
どっちだ。
それとも、まだ夢の中…?
僕は目を擦ってもう一度男を見る。男の赤茶色のミディアムヘアが太陽の光に透けて、橙がかって見える。さっきまで見ていた、僕の瞼の色みたいだ。寝起きの働かない頭はその色に取り憑かれたように魅入ってしまった。
「こんにちは」
男は僕を見つめると、人好きするような笑みを浮かべて言った。
「こんにちは…」
男は挨拶が終わったというのに、僕から目を外さなかった。
僕、寝ている間に何かしたとか…。
それとも、実はこの人と会った事ある…?
思い出そうと試みるが、全く心当たりが無い…。
「あの…、どこかでお会いしたことありましたか?」
恐る恐る聞くと、男はいえと短く答えその切れ長の目を少し伏せた。
「あっ。…そう… ですか…」
僕の声を最後に会話が途切れた。
公園には、沢山の音が溢れているのに僕とこの男の間には何の音も無い。
それどころか、身動き一つ取れないようなそんな緊張感さえ漂っている。
気まずい…。
居心地が悪くベンチを立とうとした時、男がポツリと言葉を漏らした。
「え?」
僕はもう一度耳を澄まして聞こうとした瞬間、男は優雅な所作でベンチから立ち上がった。
男が空気を揺らしたのと同時にタバコの匂いがふわりと空気に舞う。
立つと絹傘と同じくらいの身長で、ベンチに座ったままの僕は彼を見上げる形になった。
「僕は桔梗と言います。また会えるといいね」
そう言うと、男は端整な顔に笑顔を浮かべ颯爽と去って行った。
去り際に彼の首を見ると、そこに刻印はなかった。
あの人は、人間だったんだ。
「はっくしゅん…」
日が落ちて、気温は大分下がってきた。両腕で自分の体を温めるように摩った。
僕も家に帰ろう。
行きと同じ道を辿り僕はなんとか家にたどり着いた。
家に帰って絹傘にそのことを話すと、
「響也、ベンチで寝てる間に何か言ってたんじゃないのか」
絹傘は何か考えるように天を見上げると、顔の横で人差し指を立てて僕を指差した。
「昨日も寝ている時に、突然怒ってその後君は大声出して笑ってたよ」
「本当!?」
寝相と寝言が酷いのは知ってたけど、外でも出ちゃってたのか…。
それでか…。
「あぁ…、気をつけないと…」
少し凹んだ気持ちを抱え、今日から気をつけることを固く心に誓った。
「良い心がけだね。ま、全部冗談だけどさ」
僕は、絹傘の愛用しているPDゴーグルを力の限り思いっきり投げてやった。
「おはよ」
寝癖のついた頭を掌でなで付けながらリビングに入ると、自分の手首についているPDで今日の天気を確認した。PDが映し出した画面には赤いマークが並んでいる。
「おはよう。今日も公園?」
ダイニングテーブルに座って居た絹傘はそれだけ言うと、ALMが用意した湯気の立つコーヒーに口をつけた。
「うん」
「そうか。気をつけてね」
「うん。行ってくる」
「行ってらっしゃい」
絹傘の飲んでいるコーヒーの香りがリビング中に広がって居た。
コーヒーの香りをかぐと、1日が今日も始まる気がする。
僕は、僅かに体に染み付いたコーヒーの豆の香りをまといながら家を出た。
あ…桔梗さん、居た。
公園に着くと、桔梗さんはこの間と同じベンチで本を読んでいた。
公園の中は賑わっているのに、彼の周りの景色だけが不思議と景色が違って見える。
ベンチの前で立ち止まり本を読む彼を見ていると、僕の視線に気づき桔梗さんが顔を上げた。
「こんにちは。お隣どうぞ」
「お邪魔します」
桔梗さんは僕が座るのを確認すると、再び本に目を戻した。
隣に桔梗さんの気配を感じながら、ベンチに深く腰掛け目の前に広がる景色を眺めた。
快晴の空を少し隠すように高く聳え立つビルが沢山見える。
ビルに囲まれたこの公園は、まるで箱の中にあるような、そんな安心感とも圧迫感とも取れる、不思議な場所にあることを再認識した。
目の前には遊ぶ子供達、それを見守る母親。散歩をするお年寄り、仕事合間の休憩で訪れるビジネスマン。どの人間の側にもALMが寄り添っていた。
ここは沢山の人の憩いの場所になっている。公園の中を吹く気持ちの良い風が頬を撫でた。木々も風に揺れ、擦れ合う木の葉の乾いた音が耳に響く。
ふと桔梗さんを見ると、もう本を読み終わったようで彼の膝の上に置かれていた。
「あの…この間自分の名前を伝えられなかったので…。僕は響也です」
「僕?」
桔梗さんが驚いたように口走った。
「あ…。こう見えても、男なんです…」
女の子と思われていた事実が恥ずかしく言葉が尻すぼみになっていく。
「ごめん。男なのは見ればわかるよ」
桔梗さんを笑ってそう言ったが、僕は苦笑いするしか無かった。
人工人体化の際に細胞から予測して、本来の成長通りの体を作って貰ったのだが、どうにも逞しさとは、かけ離れていた。女の子に間違えられることは初めてだったが、男らしいという形容詞が似合わないことは、よく分かっていた。
知ってたけど、実際こういう事があると落ち込むな…。
肩を落とす僕の耳に桔梗さんの低い声が聞こえた。
「キョーヤくんってどういう字を書くの?」
「えっ?字ですか?」
落ち着かない指先で桔梗さんの大きな掌の上に指を走らせる。
「響くの響になりで響也です」
「なるほど。僕はお花の桔梗そのまんまだよ。宜しくね」
桔梗さんが爽やかに笑う。
その空気の中に僕の指先に僅かに触れるものがあった。
これは、なんだろう…。
触ろうと手を伸ばしても、空を切るような。実態のないものを掴もうとしているような感じすらした。
胸が温かくなって、締め付けられるーーー。
けれど、嫌な感じはしないんだ。
その日から、自分の気持ちが知りたくて公園に通った。桔梗さんは決まった曜日に公園に来た。
僕は桔梗さんが公園に来る日に合わせて、公園に通い続けた。
「今日も来たの?」
「はい。来ちゃマズかったですか?」
「ううん。公園に来るたびに響也くんに会えて嬉しいよ」
桔梗さんは、僕にはきっと分からないような難しそうな本を読みながらそう言った。
桔梗さんは笑うと、僕から視線を外して読み途中の頁に視線を戻す。
その時の綺麗な横顔。光に照らされ輪の見える赤茶髪の髪の毛が風に舞った。
僅かにする、煙草と桔梗さんの香水の混ざった匂い。
なんと言い表せば良いのか。
僕のこの不思議な気持ちは、桔梗さんと何度会っても決して消えることはなかった。
「今日も沢山お話ししましたね」
僕はベンチに座ったまま天に向かって猫のように伸びをする。
「そうだね。日も暮れてきたし、そろそろ帰ろうか」
「はい」
僕はベンチから立ち上がり、尻を軽くはたいた。視線を感じて、桔梗さんの方をみると周りのビルを飲み込みそうなほど大きな夕日が僕たちを照らしていた。
「良かったら今度、僕の家でランチでもどうかな?」
「ランチですか?」
「うん。響也くんが来てくれるなら、喜んで料理の腕を振るうよ」
夕日の赤が目に眩しく、桔梗さんの形に黒く形どっていた。
「響也くんさえ、良かったら…だけどね」
僕は、全身に赤い光を浴びながら、桔梗さんの声に静かに頷いた。